藩政改革を成し遂げた上杉鷹山と困窮の原因を作った上杉景勝と直江兼続

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11月に共和党民主党による大統領選挙を控えていますがその前の民主党内の大統領指名争いは熾烈なものでした。6月3日、アメリカ国民はオバマ上院議員ケネディ大統領のような新しい時代の若いリーダーとして、CHANGE(変革)に期待を込め、民主党大の統領候補に選びました。

 

かつて、ケネディ大統領は就任式を終え、各国の記者団のインタービューに答えていた時、日本人記者がケネディ大統領に最も尊敬する人物を質問したところ、“上杉鷹山”と答えました。

 

日本人記者は上杉鷹山という人物を知らず本社に問い合わせ、破たん寸前の米沢藩を立て直した上杉家9代藩主であることを知ったというエピソードがありました

 

yaseta.hateblo.jp

今では、財政改革の元祖としてビジネスマンの中で尊敬するビジネスマンの第1位にあげられるほど有名になっています。

 

今回は上杉鷹山のマンガをリメークし、上杉鷹山についての超概略をWord2007文書練習用に作成したので載せてみました。

 

明和4年(1767年)、上杉治憲(はるのり)、後の鷹山(ようざん)は17歳で米沢藩15万石の第九代藩主になりました。初代謙信の時代、上杉家は200万石以上の所領を得ていたが、第2代景勝のときに会津120万石、そして関ヶ原の戦いで豊臣方につき、米沢30万石に減封されました。

 

さらに第4代から第5代になるときに、所領は半分の15万石に減らされるという不運にみまわれてきたのです。それにもかかわらず、家臣の数は120万石時代とほとんど変わらず、そのために藩は極度な財政困難に陥ってしまいました。

 

窮した藩は、藩士の給料を減らし、商人から金を借り、農民から年貢をしぼりとったりしたので、農民は逃散し、米沢の人口は減少しました。ここまで追いつめられていながら、歴代藩主達は人員整理もしてきませんでした。そしてメンツのために旧来のしきたりを守ろうとする現家臣たち、このままでは、藩は潰れてしまうと思った治憲は、それまでの「常識」をすべて取り払い、一から藩政改革に取り組み始めたのです。

 

ちょうどこの年、江戸幕府では田沼意次(おきつぐ)が10代将軍徳川家治(いえはる)の側用人になりました。いわゆる「田沼時代」の幕開けでした。その後、田沼は失脚し、松平定信が老中になって寛政の改革が始まりました。低成長時代に入り、幕府財政も藩財政も苦しくなる一方でした。

 

破たん寸前の米沢藩に至っては治憲が家督を継いだときの借金の額は20万両近く、現代のお金に換算して、100億円にものぼっていたということでした。

 

日向(宮崎県)高鍋藩の江戸藩邸で生まれ、養子に入り、名門上杉家の実状を知った治憲は、身もすくむ思いだったに違いありません。治憲はまず大倹約令を出し、自らの生活費を七分の一に切り詰めることから財政改革に着手したのです。

 

しかし、倹約だけでは、膨大な借金を返せるあてはありません。そこで、明和6年(1769年)、19歳ではじめて米沢入りしたときに、藩の実状をつぶさに調査し、米作には適さない米沢の地で、何が生み出せるかを模索していったのです。

 

そして、安永4年(1775年)には、地場産業振興のため、桑・楮(こうぞ)・漆の各100万本植樹計画を実行に移していきました。

 

やがて、桑や楮は織物になり、和紙になって米沢は藩を豊かにしていくことになります。一方、後継者養成の大切さを感じていた治憲は、翌年安永5年に「興譲館」を創設し、教育にも力を入れました。治憲が藩主になってから領民は豊かになり、天明の大飢饉のときにも、餓死者は他藩と比べてかなり少なかったといいます。

 

上杉家所領の変遷
時 代(西 暦)               禄 高  領 地
越後春日城時代(1500年後半)     200万石 新潟、佐渡、庄内
会津時代(1598~1601年)     120万石 会津佐渡、米沢、福島、庄内
米沢時代(減封前)(1601~1664年)  30万石 米沢、福島
米沢時代(減封後)(1664~1863年)  15万石 米沢

 

米沢藩が破たん寸前まで困窮した原因は第9代藩主上杉鷹山からさかのぼること63年前の第2代上杉景勝関ヶ原の戦いにありました。これについては第2代上杉景勝に仕えた直江兼続(なおえかねつぐ)が主人公として始まる2009年のNHK大河ドラマで見られると思います。