天皇の座を奪う野望を抱かず陰で支える藤原不比等の戦略はその後400年続く藤原氏繁栄の礎となる。

二官八省五衛府

645年大化改新乙巳の変
専横きわめる蘇我入鹿(そがのいるか)から政権奪回のため中大兄皇子
藤原氏の祖 中臣鎌足蘇我入鹿と父蝦夷(えみし)の暗殺を
実行、孝徳天皇を擁立し大化の改新を為す。

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672年壬申の乱
 大友皇子中大兄皇子(38代天智天皇)の子
 大海人皇子中大兄皇子(38代天智天皇)の弟
 天智天皇の子と弟の天皇の座を巡る争い
 大友皇子(39弘文天皇 諡)壬申の乱で敗北し自殺
 大海人皇子673年40代天武天皇み即位
 藤原不比等の父(中臣鎌足)が大友皇子方だったため不遇


40天武天皇(在位673年~687年)―鸕野讚良(うののさらら)皇后
 ↓687年天武天皇崩御のため鸕野讚良皇后が
 ↓690年41持統天皇に即位
 ↓藤原不比等持統天皇に重用され律令の実質的編纂の中心者になる。
 ↓660年百済は唐に滅ぼさた。663年倭・百済連合軍が百済復興のための合戦
  白村江(はくすきのえ)の役で唐・新羅連合軍に大敗した。
  それ以後、唐に見下され、侵略の危機が高まり「律令国家を造り、国の
  安定を図る」ことが最大の課題になっていた。
 ↓(律は刑罰について定めた法令)
 ↓(令は政治の仕組みを定めた憲法行政法民法などの法令)
 ↓藤原不比等律令国家構築計画
  1.法典の整備と編纂
  2.新首都の構想・建設
  3.国史の整備と編纂


草壁皇子(689年薨去)―妃 阿閇皇女(あへのひめみこ)
  (707年43元明天皇
  阿閇皇女は天智天皇第四皇女子
 ↓不比等 唐の律令制度をモデルに律令の編纂開始
 ↓701年大宝律令成立 日本独自の法典
 ↓日本に律令の存在を報告する使者を唐に送った。
  使者のふるまいが礼にかなっており、唐の人は日本は

     君子の国だと言ったそうです。
   ↓694年藤原京に遷都


42文武天皇(在位697年~707年)―藤原宮子(みやこ 不比等の娘)
   ↓皇居:藤原宮、不比等 天皇外戚となる
   ↓文武天皇の子の首(おびと)皇子
   ↓不比等、子・孫へ継承 中継ぎ天皇を認可する令制定
   ↓首(おびと)皇子が成長するまで母阿閇皇女が中継ぎとして
   ↓707年43元明天皇に即位
   ↓(宮子の妹 光明子を首(おびと)皇子、後の聖武天皇の妻へ)

43元明天皇(在位707年~715年阿閇皇女(あへのひめみこ))
   ↓710年唐の長安をモデルとして建設した平城京に遷都
   ↓715年元明天皇崩御

44元正天皇(715年~724在位)草壁皇子の長女氷高(ひだか)
   ↓元明天皇崩御したため、父草壁皇子元明天皇文武天皇
     姉氷高(ひだか)が首(おびと)皇子の中継ぎ天皇として
      715年44元正天皇に即位。
   ↓養老元年(718年)藤原不比等養老律令」の編纂成立
   ↓養老4年(720年)国史日本書紀舎人親王 完成
   ↓724年元正天皇崩御、首(おびと)皇子→45聖武天皇

45聖武天皇724年即位(在位:724~749年)―光明子(宮子の妹)
   

   日本型の法典「大宝・養老律令」、新しい都「平城京」、国史日本書紀

    が完成し、724年盛大な聖武天皇即位式が滞りなく行われ、ここに律令

    国家として国の原型が造られました。
    しかし、藤原不比等は日本独自の律令国家の成立を国の内外に発信する聖武

    天皇即位式を見ることなく、既に720年62歳でこの世を去っていました。
   

    藤原不比等はこの律令国家造りに精力を注ぎながら、一方で2人の娘を文武

    天皇聖武天皇の皇后とし、絶大な権力を手に入れます。


    天皇の座を奪う野望を抱くことなく天皇を支える陰に周り実権を握るこの戦略

    が、その後400年続く藤原氏繁栄の礎となったのです。

 

【参考】
1.「人物で読む 平城京の歴史」 河合敦 (株)講談社 2010.2.4
2.「古代史を知る事典」 武光誠 東京堂出版 1996.6.15
3.「日本歴史大系 3」 井上 光貞/[ほか]編 山川出版社 1995.11
4.「平安大事典」 倉田実/編 朝日新聞出版 2015.4