米沢を整備し城下町の基礎を作った「直江兼続」

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6月21日、米坂線小国町の実家で兄嫁の一周忌の法要が営われることになり、19日に野田市から大宮に出て、山形新幹線に乗り、乗り換え駅の米沢に降りました。米沢駅直江兼続を題材にした来年のNHK大河ドラマ天地人」や上杉鷹山のポスターが貼られ、米沢の観光をPRしていました。

 

2年前の夏、実家に帰える途中、米沢の山形大学工学部の庭にある「サムエル・ウルマン」作、「岡田 義夫(元山形大学非常勤講師)」訳の「青春の碑」を見て、大学の傍にある大学時代2年間下宿していた下宿屋を通り、その隣のある林泉寺に寄り、直江兼続のお墓にお参りしました。

 

「旧米沢高等工業専門学校(重要文化財)の絵」と「青春の碑」

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今回、米沢に来る前に童門冬二の小説「北の王国 智将直江兼続」を読み、2年前に藤沢周平の小説「密約」を読み、今回、米沢駅の観光案内書で地元「米沢御堀端史跡保存会」発行の「直江兼続公小伝」を購入して読みました。

 

そして、この郷土史と小説のポイントを比較してみましたがほぼ同じであると思いました。史実と小説の違いは史実は結果だけの記述ですが小説はなぜそのような結果になったのか関連資料の調査結果などから推理やフィクションを交えストーリーとして表現しています。

 

従って、郷土史では直江兼続石田三成の密約についてのどのように交わされたかは述べていませんが小説では戦国時代の生き残りをかけ、だまし合いや裏切りが横行するなか、お互い相手を信頼し、約束を守ろうとしています。

 

小説「北の王国」では越後から会津への移封について以下のように記述していました。
豊臣秀吉徳川家康などの上方大名は政治にたけ、命がけゲームをやりますが、2代目藩主「上杉景勝」は上杉謙信譲りの義の人であり、ゲームは嫌いだ。自分の領民が平和に暮らしていければ良い、天下を取ることに興味はないとはっきり言います。

 

名門上杉家の藩主「上杉景勝」は後から頭角を現した豊臣秀吉に対し、家臣になることを拒否しますが、景勝は絶対信頼している直江兼続の説得に応じ甘んじて豊臣秀吉の配下にくだるのでした。

 

百姓出身の豊臣秀吉はコンプレックスを持っており、名門出身の上杉景勝を疎ましく思うが直江兼続を気に入ります。秀吉は権力を振りかざし、上杉謙信が愛着をもって築いた、豊かな越後から会津、米沢、新庄、佐渡の120万石に移封を命じ、その中の米沢30万石を直江兼続に与えます。

 

直江兼続は米沢30万石を各郡に分け、それぞれの郡に管理者をおきました。新潟県山形県の県境の私の町も小国郡として現在の小学校の敷地に簡素な城を建てています。後ろは横川が流れ、城前は武家屋敷があり、今はかすかにその名残が残っています。

 

兄嫁の法要で実家のお墓参りにいきましたが実家の墓の隣と三つ隣のお墓は米沢の林泉寺にあるお墓と同じ形の「万年塔」と呼ばれるお墓がありました。

 

このお墓は全面に格子状に四角のくぼみが彫られた直方体の石です。これはいざという時はこれを積み重ね鉄砲の弾よけとして使います。また、洪水の時、水防ぐように中を空洞にして軽くしています。

 

万年塔は米沢地方にだけ残るものでほかにはみられないそうです。小国の町にも万年塔が二つ残っていることは小説に記されている通り、小国も上杉家の所轄領であったことを伺い知ることができました。