史実である直江兼続が徳川家康に提出した直江状について童門冬二の小説「北の王国」でいきさつなどを推理していますので超概略、要約してみました。
豊臣秀吉の時代、政務を行うポストとして政務の方針を決める大老5人、方針に対する意見具申と方針を奉行に伝える中老3人、方針を実行する奉行5人がおりましたが大老は飾り物、中老は単なるパイプ役、実権は奉行にありました。
実権を奮っていたのは秀吉に信頼され、気に入られた石田三成でした。秀吉・三成の直結ラインで政務が行われ、本来の政務決定機関の大老、中老を飛び越え、ランク下の三成が決定するシステムに大名達は強い不満を持ち、石田三成を憎んでいました。
しかし、豊臣秀吉亡き後、実権を握ったのは徳川家康でした。そして、家康は政務のやり方を本来の決定機関に戻すとして、権限を大老に集中させ、中老は黙って奉行に伝え、奉行は言われたことを黙って実行することであると発表しました。
徳川家康は権力固めのため、政略結婚などで秀吉の忠臣の抱き込み工作を行います。石田三成は豊臣秀吉の嫡男「秀頼」を軽んじる行為に怒り心頭に発します。一方、上杉景勝は上方大名の命をかけた戯れ事に興味はなく、天下を取ろうとは思わないと言います。
直江兼続も自分は「土の人」であると自覚し、土地に根付いて上杉藩の基盤作りに専念します。他の大名は徳川家康になびきますが、上杉景勝は野望見え隠れする徳川家康を嫌います。そして、上杉景勝は越後を取り戻すため、石田三成に味方すると決めたのです。
会津から360度方向に対して各地に通ずる大がかりな道普請や橋普請そして城の建設を行います。上杉家のこれら工事は家臣の裏切りで逆心の疑いをかけられ、上杉景勝に家康は申し開きをさせるため上洛を促す書状を送りつけます。
しかし、直江兼続は直江状を送り、秀吉公の遺訓により城下町づくりをやっており、何ら、やましいことは行っていない、従って、上洛する必要はないと回答します。そして、逆に、家康の野望を思わせる回答に家康は怒ります。
怒った徳川家康は上杉征伐に兵を向け、両軍が対峙します。その隙を狙い、石田三成は徳川打倒の兵を挙げます。家康は急きょ、上杉軍から三成軍に対抗するため兵を引き上げにかかった時、直江兼続は追撃を上杉景勝に進言します。
しかし、上杉景勝は退却する徳川軍を攻撃すれば勝てるだろうが家康を壊滅することはできない、上杉軍も大きな打撃を受けるだろう。傷を負った上杉軍を背後に控える最上義光や伊達正宗が攻撃をしてくれば、上杉軍は危機にたたされるだろう。そこまでリスクを負いたくはないと言います。
【メモ】
直江兼続の子供時代の樋口与六は上杉謙信に見出され、小姓として仕え、謙信の思いを繰り返し聞いていました。謙信は言いました。「間違ってもおれから他国を侵すことはせぬ。義のない戰さはせぬ。それが毘沙門天の教えだ。天下などいらぬ。越後の国があればいい」
直江兼続の子供時代の樋口与六は上杉謙信に見出され、小姓として仕え、謙信の思いを繰り返し聞いていました。謙信は言いました。「間違ってもおれから他国を侵すことはせぬ。義のない戰さはせぬ。それが毘沙門天の教えだ。天下などいらぬ。越後の国があればいい」
そして、謙信の姉で景勝の生母の仙洞院に景勝の話し相手として選ばれ、子供の頃から一緒に育ちました。謙信は兼続を参謀として戦略だけでなく、民政、徴税、農事などあらゆる面に関与させ教育しました。