財政改革のリーダー「上杉鷹山」

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1月31日仙台から実家に行く途中、米沢のKKさん宅に寄によりました。米沢滞在は数時間ですが、気候が良くなったら、ゆっくり米沢を訪れ、米沢の歴史などを再発見したいと思いました。

高校は下宿、大学は寮と下宿で米沢に9年間もいましたが、当時は、米沢のことはほとんど関心がなく無知でした。離れてから両親、先生、知人、友人が言っていたことを思い出し、時には、小説、映画、テレビなどの作品を見て米沢を知り、40年のときを経て、再認識しました。

米沢は歴史のある城下町で、今でも生活、文化、産業などにその名残りを残しています。

上杉謙信が亡くなり、2代目の上杉景勝関ヶ原の戦い石田三成に加担したため、1601年に米沢、福島の30万石に減封されてしまいます。

さらに、1664年5代目の世継ぎの問題で、米沢だけの15万石に減らされます。

その後、米沢藩は破綻寸前に陥りますが、1767年に治憲(後の上杉鷹山(ようざん))が米沢藩の藩主になり、数々の政策を実行し、みごと財政建て直しに成功しました。ケネディ大統領も一目を置いた名君です。
バブル崩壊後、財政改革のリーダーとしても脚光を浴びました。

米沢の人口が現在より、300年前のほうが多いのにおどろきました。

元禄5年 (1692年)133,258人 (元禄15年赤穂浪士討ち入り)
文久1年 (1861年)128,313人 (1868年明治維新
平成17年(2005年) 93,170人 (国勢調査結果)
(平成2年(1990年)調査のときより、2,226人減少している。)

明治にできた米沢高等専門学校(繊維学科や応用化学科)は、鷹山の絹織物振興策を受け継いだものです。戦後、山形大学工学部になりました。ちなみに、帝人は米沢が発祥の地です。

元禄10年(1697年)に立てた学問所を鷹山は江戸から教授「細井平洲」を招き、藩校「興譲館」として再興しました。明治になり、興譲館中学となり、戦後は「米沢興譲館高校」にとなりました。

私はその両方に入学して、お世話になりましたので、上杉鷹山公には感謝しなければならない一人でありました。

1998年に米沢興譲館高校で、興譲館藩学創設300年の記念式典を行いました。
卒業生の東北大学のT教授が記念講演を行っております。
(T教授はプログ1月31日「友人の話」で紹介しました。)

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