明治11年イザベラ・バードが3日かけて踏破した越後米沢街道の十三峠

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イザベラ・バードの13峠越え

 1878年(明治11年)5月21日、47歳のイギリス人女性旅行家イザベラ・バードは横浜に上陸し、6月10日東京を出発、日光東照宮会津、新潟、十三峠(関川村、小国、小松)、赤湯、上山、山形、秋田、青森、北海道を旅し、さらに京都、伊勢神宮、東京そして横浜に戻りました。

そして、12月に帰国するまでの7か月間の旅行「日本奥地紀行」を執筆、1880年母国で出版しました。

 

明治維新後の日本の急速な社会・文化の変化に欧米諸国の日本情報が追い付かず、当時の欧米の百科事典や書籍のほとんどに、日本は鎖国が続き、武士が統治する専制君主の国として記述されたままになっており、一般欧米人も地球の東の端(はし)にある国で野蛮な未知の国程度の知識しか持っていませんでした。そんな時、日本の奥地に外国人女性が足を踏み入れ、日本を紹介したこの本は欧米で大きな関心と興味を呼び、たちまちベストセラーになりました。

 

イザベラ・バードは新潟から人力車を乗り継ぎ、越後米沢街道が始まる新発田を通り、中條、黒川(現在の胎内市)を越え、7月11日、関川村の川口という集落に着きました。

日本海側の新潟県関川村川口から内陸の山形県川西町小松に出るまで標高2000m級の朝日連峰と飯豊連峰が交わる飯豊連峰側の裾野を通る越後米沢街道には十三峠の難所があります。(そのうちの十峠がある東京23区より広い山あいの小国郷は私の故郷です。)

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[紀行文]

7月11日、イザベラ・バードは十三峠の榎(えのき)峠と大里(おおり)峠(新潟県山形県の県境)との間にある越後口の「沼」に宿泊し、次のように記述しています。

関川村を出発し)これから先は日本一大中央山系(飯豊連峰)になるので人力車では行けなかった。馬を1頭しか確保できなかったのでどしゃ降りの中を歩かなければならなかった。持参した紙(桐油紙)の合羽(かっぱ)では雨は十分にはしのげなかった。

私は雨に濡れ、疲れはてていた。沼の宿はみじめで部屋の障子は破れ、火鉢には炭もなかった。玉子もなかったし、ご飯はとても汚い色をしていたうえに小さな黒い種子が混じっていて食べにくかった。

[補足]

明治元年(1868年)の東北戊辰戦争の際、沼は米沢藩と新政府軍の戦場となり、米沢藩家老で越後口総督、長門久長が戦死、米沢藩は降伏しましたが戦場となった沼の集落は全戸焼失し、明治11年になっても村の経済は苦しく、元の姿に戻っていなかったと思われます。ご飯は汚い色、小さな種子が混じっているとありますが現在のような精米されたご飯ではなく、麦飯かまたは3分づきまたは5分づきつ米のご飯に胡麻塩をかけたものと思われます。

 

[紀行文]

7月12日イザベラ・バードは市野々に宿泊し、次のように記述しています。

7月11日、鷹ノ巣、榎(えのき)という大きな峠をつまづきながら上ったり、下りたり、すべるように下ったりした。どの峠も森に囲われた山中にあり、そこをすっぽりと包まれた峡谷が深く刻み、雪をかぶった会津の峰々の一つが時折姿を現し、一面の緑の世界の単調さを破った。

馬の草鞋(わらじ)は一度むすんでも数分ももたずにほどけてしまい、1時間かけてたった1.6kmしか進めなかった。そしてとうとう玉川という小さな村にある(代わりの馬の調達)見込みの到底なさそうなところで(馬)降ろされた。

玉川では3日前に馬は貸し出され、無かったので、荷物運びの背負子(しょいこ)1人、農耕馬1頭、牛1頭を借り、牛に乗って大里峠を無事越え、回りに水田が広がる小国峠と下っていった。

沼(黒沢)からここ市野々までは距離こそわずか一里半(6km)だが何百もの石段の道を上ったり、下りたりして険しい朴ノ木峠を越えねばならず、暗がりだったから楽しいことではなかった。

峠のふもとで私たちは立派な橋を渡って山形県に入り、すぐこの集落「市野々」に着いた。

[補足]

11日に関川村を出発し、鷹ノ巣峠、榎峠を越え、飯豊連峰に続く山々の一つ標高478mの大里峠の入口の集落「沼」に泊まり、次の日の12日は大里峠に向かっております。従って、雪のかぶった会津の峰々は米沢の後方に連なる吾妻連峰であり、大里峠の頂上近くから見えた光景と思われます。

沼から市野々まで、大里峠があり、さらに4つの峠、そして黒沢峠の計6つの峠があり、距離は約30kmあります。実際、イザベラ・バードは1日がかりで歩いているので黒沢峠を沼と勘違いしており、また、沼を出発した日は11日でなく12日です。

大里峠から1.6km下った小さな村は小国郷の玉川で、そこからイザベラ・バードは牛に乗り替え、出発します。荒川の支流の玉川の橋を渡り、萱野峠、朴ノ木峠を下ると、水田が広がる小国郷の中心の小国本村(小国町内を含む小国盆地)が一望できる170mの高鼻峠(イザベラは小国峠と言っている)に着きます。

さらに、小国盆地を流れる横川(荒川の支流)を見下ろしながら緩やかな坂を下り、杉沢に下り、種沢を通り、175mの貝淵峠を越えると黒沢集落に着きます。

そこから石段のある426mの黒沢峠を越えると小国郷の市野々に到達します。

 

[紀行文]

市野々では馬はほとんど飼っていない。商品は背中に藁(わら)で編んだ背中当に木枠をつけた背負子(しょいこ)を背負い、女性でも男性でも変わらぬほどに思い荷物を運ぶ。 このような気の毒な人達がさもつらそうなあえぎながら峠の山道を越えて来るのに出会うと気が滅入る。

峠の頂きで息も絶え絶えに休んでおり、その目は飛び出し、痩せているので痛々しいほどよく見える筋肉はひとつ残らずぴくぴくしていた。手で虻(あぶ)を追い払えないために、刺された部分の血で、裸の体が文字通り血だらけになり、ほとばしる汗で流れているところもあった。

彼らは家族のためにまさしく顔に汗を流して食料を得、まじめに生活の糧を得ているのである。苦しみ疲れ切っているものの、完全に独立している。ここで私は男であれ女であれ乞食というものに会ったことがない。不思議な田舎である。

市野々では一軒の農家しか泊まれるところがなかった。ところが2部屋以外はすべて蚕部屋になっていたものの、その2部屋は非常に立派で、池と庭石が眺められた。一つだけ嫌だったのはもう一つの部屋を通らないと私の部屋に出入りできないことである。

今は5人の煙草商が輸送待ちをし、三味線という幻滅を覚える楽器をつま弾いて暇をつぶしている。私が利用する馬も牛も手に入らないので、今日(7月12日)はここで静かに過ごしている。疲れ切っているので休息でき、かえってうれしい。

7月13日の朝は快晴だった。(疲れが取れ、気分が良かったのか)市野々はすてきな村でこのあたりのすべての村と同じく養蚕が盛んである。それで、真っ白なあるいは硫黄色の繭(まゆ)をむしろの上で天日干しにする光景を至るところで目にする。

眺望の美しい桜峠を越え、白子沢(しらこざわ)という山あいの村で複数の馬と交換し、さらに複数の峠を越え、午後に手ノ子という集落に至った。

[補足]

市野々ではほとんど馬を飼っていないとあるが、明治維新前は宿場として牛馬は飼われており、宿屋、問屋、医者がいました。

日本古来の馬は小さく、農村では馬は乗り物や荷物運びより農耕用として飼われ、農村・山村では牛の方を多く荷物運びや農耕用として飼われていました。日清戦争後、欧米の馬が入り、改良され、乗馬・輸送・農耕用として使われるようになったと言われています。

 

[紀行文]

数多くの敷石を上ったり、下りたりしながら、そびえ立つ宇津峠を越えた。これは重畳たる山並みにかかる峠うちの最後ものである。([補足]宇津峠には敷石はなかったと思います。)

ありがたい陽の光に包まれたこの頂きから私は、素晴らしい米沢平野(置賜盆地または米沢盆地)を見下ろすことができ、うれしかった。

この平野(盆地)は日本を代表する地味豊かな農耕地帯のひとつである。森が多く、灌漑が行き届き、豊かな町や村が一面点在していた。

([補足]飯豊町から諏訪峠を越え、川西町小松に着き、米沢を迂回し赤湯に向かいます。)

そして、豊かで繁栄する置賜盆地に立ち、おもわず、口にします。

「まさしくエデンの園である。晴れやかににして豊穣のなる大地であり、アジアのアルカディア桃源郷、理想郷)である」と。

 

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[補足]

・明治4年(1873年)から8年(1877年)までイギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスは米沢の興譲館米沢興譲館高校)で教鞭をとっていました。

ダラスは米沢で牛を食用として自ら飼い、任期終了後、1匹を連れて帰り、横浜でイギリス人仲間に食べさせました。米沢牛を世間に知らしめた恩人として知られています。

イザベラ・バードが米沢に立ち寄らなかった理由は明治11年には彼が既に帰国していたからかもしれません。

イザベラ・バードは紀行文の中の至る所に蚤(のみ)・虱(しらみ)に悩まされる場面がでてきますが日本では戦前までごく当たり前のことでした。

古来から日本人は旅をして紀行文を書いていますが蚤・虱がいることが当たり前だったので記述するまでもなかったと言われています。

戦後、進駐軍DDTが入り、一般に売り出され、虱に刺されることはなくなりましたが、私が子供の頃(昭和20年代)はまだ、蚤がおり、布団の中で刺されることがしばしばありました。

[蛇足]

日本人は欧米人と比べ、コロナ感染者や死亡者が少ないのは蚤・虱に対する免疫がコロナに効いているからかも知れません(医学的根拠はまったくなく素人考えです)

 

[関連してふるさとの記録]

置賜盆地や小国・関川村に恵みを与えた白川や荒川に関連してダムに沈んだ親戚のふるさとを忘れ去られてしまわないようにここに記録しておきます。

高井家

市野々の集落は横川ダム(昭和47年、1972年完成)の底になるため、小国町に移住しました。

昭和24年に小国の母(長女)の妹(四女)が豊原村(現飯豊町)から市野々の林業・農業を営んでいる高井家に嫁ぎました。牛も飼い、米沢牛として出荷もしていました。

井上家

宇津峠を境に小国町から飯豊町になり、置賜盆地に入ります。

手ノ子から白川の上流約8km先に飯豊町高峰南荒尾に集落がありましたが白川ダム(昭和47年、1972年完成)の建設に伴い、住民はふるさとを離れました。

井上家は伊達家の侍で「鷹待役」をしていたが伊達家が国替えになったため、手ノ子から高峰に移り百姓になりました。その後、上杉藩の「鷹の役」として鷹の捕獲と藩へ売り渡す権利や名字帯刀を許されました。

「鷹書餌飼之巻抄」、「鷹絵図」や「上杉景虎の書状」など戦国末期から江戸期までの古文書が約50点残っており、飯豊町史や山形県史の編集に使われました。

築後400年の家屋は小原建設(愛知県岡崎市)という会社に買い取られ解体、静岡県裾野市須山に移築され、現在、「蕎仙坊(そうぜんぼう)」という蕎麦処になっています。

昭和13年に小国の母(長女)の妹(次女)は豊原村(現飯豊町)から高峰の林業・農業を営んでいた井上家に嫁ぎました。

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【参考】

1.「越後米沢街道・十三峠の案内」、平成23年度 重点分野雇用創出事業(歴史街道・十三峠観光資源活用事業)、置賜総合支庁建設部

2.「完訳 日本奥地紀行 2(新潟―山形―秋田―青森)」、金坂清則 訳注、平凡社東洋文庫 823)、2012年出版

3.「イザベラ・バードの東北紀行(会津置賜篇)」、赤坂憲雄平凡社、2014.5.23

4.「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」、宮本常一平凡社、2002.12.9

5.「チャールズ・ヘンリー・ダラス」、米沢日報デジタル版

6.「私家本 井上家の歴史」、井上憲夫、2011.3