お雇い外国人ダラス・リング傷害事件と米沢牛について

米沢牛を世に広めたダラスの食生活

お雇い外国人の業績表1

お雇い外国人の業績表2

【はじめに】

欧米の圧力に危機感を抱いた開国間もない明治政府にとって近代化は国運をかけた重要課題でありました。

 

欧米の進んだ文化や科学技術を取り入れるため、明治政府は1870(明治3)年から1889(明治22)年までに官公庁、自治体、官営企業、私企業、個人合わせ2,690人にもおよぶ外国人学者・専門家・職人を招聘し、国の制度、法律、哲学、語学、文学、美術、音楽、物理、電気、機械、化学、生物、医療、農業、建築、土木、軍事などの理論・技術教育に加え、鉄道建設・造船建設、港湾建設、鉱山開発、公共事業など各産業分野で指導を受け、実際に建設など実践を通して知識・技術を獲得して行ったのです。(*1)

 

日米和親条約締結頃からアジア情勢、軍事、造船・操作技術などを習得するため、高額な報酬で招聘した外国人顧問や技師を江戸幕府や藩が「お雇い外国人」と呼んだのが始まりと言われています。

 

明治政府のお雇い外国人と具体的な業績を調べ表にまとめてみましたがこれは一部であり、これを見ただけでも彼らが日本の近代化にいかに大きく貢献したか認識するとともにその名残は150年経った現在でも身近なところに残っていることに気がつきました。

 

一つは1993(平成5)年から2014(平成26)年まで3回にわたり合計12年間法政大学経済学部で非常勤講師としてお世話になりましたが本部の市ヶ谷キャンパスのにあるボアソナードタワーは法政大学の原点である東京法学校の設立に尽力したお雇い外国人のフランス人法学者ボアソナードを記念して建てられものでした。

 

また、現在、私のランニング場所の一つであり、野田市流山市の境を流れる利根川と江戸川を結ぶ利根運河はオランダ人土木技師であるムルデルが指揮を取り開削したものでした。

 

もう一つは私のふるさと小国郷村(現在の山形県小国町)を通る旧越後米沢街道の越後口の「沼」で行われた明治元年戊辰戦争の戦いに上杉藩が敗れ降伏して間もない、明治4(1871)年1月に米沢の上杉藩の藩校「興譲館」に洋学舎が設立されました。

yaseta.hateblo.jp

米沢興譲館洋学舎に教師としてお雇い外国人がやってきて宿舎の庭に食用として牛を数頭飼いました。

そしてこれまで四つ足を食べることはとんでもないことだと思っていた米沢の人々をビックリ仰天させたと言われています。

これが文明開化の一つとして認識され、米沢では全国に先駆けて牛鍋が食べられるようになったという話を米沢興譲館高校時代に下宿していた明治生まれの女医さんに聞きました。(一つ上の兄は当時60歳代の女医さん宅に昭和34年4月から昭和37年3月まで、私は昭和35年4月から昭和38年3月まで下宿しました。女医さん宅は上杉藩名残りのある町名「代官町」にありました。当時の米沢の町名として他に、本五十騎町、片五十騎町、御膳部町、北寺町、東寺町、座頭町、木挽き町、木場町、免許町、番匠町などがありました。)

(四つ足といても山国の小国では熊やウサギの肉など食べていたと思われます。当時の日本において牛は大事な働き手だったので市場に出る肉牛は少なく、牛肉を食べる人は裕福な人など限られた人と思います。その後徐々に、置賜地方では東京・横浜などへの出荷用として牛を飼育するようになり、米沢牛として知られるようになりました。私の親戚も昭和47年横川ダム完成で市野々集落が沈む前まで小牛を三重県松坂へ出荷していたと聞いています。)

 

【ダラス・リング傷害事件と米沢牛

1870年(明治3)5月、大学南校(現東京大学)に語学教師として雇われたイギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスとリングはそれぞれ1戸建ての官舎を与えられ、そして英語習得のためそれぞれ深沢要橘(ようきつ)と小泉敦が同居していました。

 

11月24日の晩、日本橋でリングの妾(めかけ)を拾い提灯を持った小泉を先頭にリングと妾(めかけ)が手つなぎ真ん中に、しんがりはダラスで一行はダラスの妾(めかけ)の住まいに向かいました。途中、神田須田町付近の屋台店が並んでいるところで、ダラスがいきなり背中を斬られ、続いてリングも背中を斬られました。

(当時、外国人の妾(めかけ)のことを洋妾(ラシャメン)と読んでいました。)

 

このとき、小泉は現場から逃げ帰り、そ知らぬ顔をしていましたが事件が大々的に報じられると小泉は外国人に妾を世話したり、現場から逃げ去ったことで男の風上にも置けない奴と非難され、大学を免職になりました。

 

捕まった犯人は取り調べに対し“皇国の婦人を夷狄(いてき)が引っ張って行くのは許せないので斬りつけた”と自白しました。

なんと、犯人の一人は関宿藩士(現在の野田市関宿)の黒川友次郎という男でした。(参考5)

 

ダラスとリングは重症を負ったものの一命を取り留め、二週間後には口が聞けるようになりました。後ろめたさがあったのか二人は犯人の助命を希望しましたが、翌年、犯人は斬罪(ざんざい)、黒川は10年の刑に処せられました。そして、ダラスとリングは療養中に大学から解雇されてしまいした。

 

重症を負わせたのは日本に非があり、また優秀な先進国の外国人教師から学ぶ機会を逃す手はないと傷が癒えた29歳のチャールズ・ヘンリー・ダラスを招聘したのが米沢の興譲館洋学舎(現在の山形県 米沢興譲館高校)で1871(明治4)年10月のことでした。

 

こうしてダラスは1871(明治4)年10月から1875(明治8)年2月まで米沢興譲館洋学舎で英語、文法、代数、幾何学、経済学、地理、歴史を教え、スポーツはクリケット、高跳び、器械体操などを紹介しました。日本語、米沢弁を覚え、米沢人と交流を深めたといわれています。(参考4)

 

彼は在職中、飯豊村から牛を数頭買い、敷地で飼育し、料理人萬吉に命じ、ビーフ・ステーキや焼き肉や米沢の野菜を入れた牛鍋などを食べていました。

そして、退職後の1875(明治8)年3月、米沢離任に際して牛1頭を連れて横浜の居留地に帰り、仲間とパーティを開き、食べさせた所、美味しいと評判を呼び米沢の牛が世間に知られるようになったといいます。(参考4)

 

ダラスは米沢を離れるに当たり、牛肉文化を米沢に残してもらうため、萬吉に資金を提供し、牛肉店「牛万」を開業させたといいます。(参考4)

 

ダラスは横浜の居留地に帰った後、日本アジア協会書記、公認会計士の仕事をしながら、欧米向け運送会社代理店、不動産斡旋業など手掛け、1885(明治18)年、上海に渡り、石炭、鋼鉄等の貿易に携わりました。

1894(明治27)年5月15日、上海で病没、享年53歳でした。

 

【参考】

1869(明治02年)年  大学南校、大学東校設置

1869(明治02年)年  開成学校(大学南校)、医学校(大学東校)設置

1877(明治10年)年 開成学校、医学校などを統合し、

東京大学(法学、理学、文学、医学の4学部)を設立。

1.「お雇い外国人①概説」、梅渓(うめたに)昇、鹿島研究所出版会、1968.4.30

2.「新詳日本史図説括弧」、浜島書店編集部、(株)浜島書店、1998.2.5

3.「お雇い外国人」、Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/

4.「米沢日報デジタル 」、http://www.yonezawa-np.jp/html/museum/11dalls.html

5.「大学南校英国人教師襲撃事件の関宿藩士黒川友次郎について」、レファレンス共同データベース、千葉県立中央図書館、2008.8.06

https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000065463