1965(昭和40)年山形大学工学部白揚寮中南寮で生活した思い出

「卞仲謀八老会」韓維

「白揚寮中南寮懇親の集い」写真集の表紙

 2026年10月息子からの誕生日を祝う電話があり、平均寿命82歳の歳になったのだとあらためて知りました。

 そういえば、憧れていた大学寮に入いるのに骨を折ってくれた昭和42卒の級友が昨年82歳で亡くなったことや2014(平成26)年に1964~1967(昭和39~42)年卒の元寮生の集いに彼とともに出席し、後で韓維の”卞仲謀(べん ちゅうぼう)八老会“の漢詩と写真集をもらったことや宴席での”白揚寮寮歌“や当時の流行歌を歌ったこと、そして、当時の寮生活を懐かしく語ったことを思い出しました。

(奇しくもこの漢詩「卞仲謀八老会」を詠った韓維も82歳で亡くなっています)

 

白揚寮寮歌

 1962(S37)私は一つ上の兄が東京の新大久保にある上杉藩の屋敷跡の米沢興譲館高校の学生寮「東京興譲館」に入っていたのを利用し、その年の高校三年の夏休みの時、兄の部屋に転がり込み、3週間の新宿の代々木ゼミナールの大学受験対策コースに通いました。(東京興譲館は移転し現在は調布市にあります)

そして、翌年の1963(S38)年大学受験し、一期校は落ちましたが二期校の山形大学に入学しました。

 入学後の1年間は文理・教育学部キャンパスで教養科目を履修することになっていました。

 私は東京のど真ん中でありながら、大きな木々に囲まれた庭を持ち、同郷の学生が生活する東京興譲館は米沢の高校生活の延長のような気持ちになり、安心して予備校に通ったことが忘れられず、山形大学学寮に申し込みましたが親の収入の関係で不許可になりました。

 

 大学2年に米沢市の山形大学工学部に移り、新学期が始まると同じクラスで寮生の友人から工学部白揚寮は5~6月になると毎年数人の退寮する人が出る”という話を聞き、それならばぜひ入りたいので自治会に斡旋して欲しいとお願いしました。

すると7月に入寮許可の通知がきて白揚寮中南寮に入寮することができました。

【白揚寮の概要と生活】

白揚寮は六つの小寮から成り、小寮一つは相部屋は15~20室30~40人で総人数が180~240人でした。

白揚寮は大正時代に建てられた木造平屋で六つの小寮と工学部の校舎まで屋根付きの渡り廊下で続いておりました。(部屋数や人数や建設時期は記憶があいまいなのでおおざっぱな値です)

① 北寮、② 中北寮、③ 中寮、④ 中南寮、⑤ 南寮、⑥ 新南寮

私は中南寮でした。冬は火鉢で暖を取り、寝るときは炭のあんかや豆炭あんかや湯たんぽなどどれかを布団に入れて暖を取りました。(時期は不明確ですが数年後には電気あんか使われるようになりました)

部屋はだいぶ傷んでおり、隙間風や吹雪になると雪混じりの風が部屋に入ってきました。

このようなわずか2年間の寮生活でしたが、楽しかったことを思い出しました。

また、旧制一高の“ああ玉杯に花うけて---”や旧制三高の“紅もゆる丘の花----”など有名で、当時の若者のあこがれの寮歌がありましたが入寮して初めて旧制米沢高専にも寮歌あることを知りました。

【白揚寮の行事への参加】

① 5月米沢祭りの仮装行列に参加したこと

(初めてなので怖気づいてしまい、実験で使っている白衣とフラスコとピペットを持ち、ひげとメガネを付けただけの無難な格好で市内を練り歩いた記憶があります)

② 秋の寮対抗の合唱コンクールで“小さい秋を二部合唱で歌ったこと

(歌が不得意で足を引っ張ったのか入賞はしませんでしたが、参加でき楽しい思い出になりました)

③ 冬には付焼刃(つけやきば)で覚え、百人一首大会に出場したこと

(結果は1回戦で敗退しました。今思うと古典文学の会に入ることができたのはこの経験があったからかもしれません)

 

10月23日から11月6日までは秋から冬になる移行期間で季節は冬土用そして11月7日から冬(立冬)になります

              2026年10月と11月

2026年10月23日は旧暦の九月十三日で十三夜の月です。

生憎、非常に強い台風30号が22時沖縄地方の与那国島あたりを北北西に進んでおり千葉県北部は雨は降っていませんが、空は雲で覆われ十三夜の月は見えませんでした。

「二十四節気」

第十三節気  10/23~11/6(15日間)霜降(九月中)

(朝夕は冷え込み、山里では冷え込み初めて霜が降り始める頃)

「七十二候」

第五十二候  10/23~10/27(5日間)霜が降り始める

第五十三候  10/28~11/01 (5日間)小雨がしとしとと降る

第五十四候  11/02~11/06(5日間)もみじやつたの葉が黄ばんでくる

「冬土用」

10/20(冬土用入り)~11/6(立冬前日、冬土用明け)の18日間は秋から冬になる移行期間の第五の季節の土用で冬土用といわれています。

「二十四節気」

第十四節気  11/7~11/21(15日間)立冬(十月節)

 

52歳の志半ばで逝った幼友達の無念さを半導体に関するささやかなエピソードとともに思い出しました。

半導体関連語意2

半導体関連語意3

 1978(S53)年に日本初のマイコン日立ベーシックマスターやNECのPC8001が販売され、年を追うごとに半導体技術が進歩していき、それと共にマイコンも進化し、パーソナルコンピュータと呼ばれるようになり、国民に浸透していきます。

 1975(S50)年から1978(S53)年にかけて、私は石油化学工場管理課でエチレン装置の最適生産計画作成のため小型汎用コンピュータFACOM 230-25でLP(線形計画法)計算を行っており、現在であれば数秒で計算する百個余りの線形方程式の収束計算に当時は2時間かかっていました。

 

この頃からコンピュータ(CPU、IC半導体)は黎明期から発展期に入り、半導体の集積化が倍々ゲームで進歩するとともにコンピュータも急激に進歩を続けて行きます。

そんな中、1983(S58)年に世界経済に大きな影響を及ぼしている原油に異変がおきました。

これまで、安定した価格の戦略製品だった原油が1983年を境に先物取引所で取引され、日々価格が変動する一般商品(コモディティ商品)となったのです。

その結果、原油はメジャーやOPECの公式表示価格から一般商品価格として市場に委ねられようになり、価格が日々変動し、企業の製造活動は素早い対応を迫られていきました。

最適生産計画・省エネ技術もコンピュータの進歩が市場の日々の変化に対応するため、以前のように原料価格一定を条件にした装置の最適化は通用しなくなり、日々変わる原油価格に対応する最適生産が求められ、コンピュータの活用も一層高度化を迫られていきました。

また、1983(S58)年以前の品質管理(QC)活動や小集団活動も工場の行事的な活動から日常の安全・品質管理(日本規格JISから世界標準のISO等)へ変化・定着していきます。

今回、真空管、トランジスタ、IC、CPU、VLSI、UVLSIと変遷していく半導体の歴史を調べているうちに酸水素炎バーナーでクズ水晶が溶融され直径20㎝の石英ガラスの円柱棒になって行く60年前の光景が頭の中浮かんできました。

 

1978(S53)年頃だったと思うが私はふるさと山形県小国町にある東芝セラミックス(現在のクアーズテック)小国製造所石英課で技師として働いていた同学年の幼友達大戸君の案内で工場見学をしました。

百台にもおよぶ酸水素炎溶融炉が整然と並ぶ石英ガラス製造工場でブラジルなどから輸入したクズ水晶を溶融して石英ガラスインゴット(円柱棒の塊)を製造していると説明してくれました。

酸水素炎は10km離れた小国町と新潟県の境流れる荒川にある会社自前の赤芝ダムからの電気による水の電気分解で得た酸素と水素を使っていました。

私は今回調査するまで、半導体シリコンは超高純度の石英ガラスと思っていましたが間違いで、構造がまったく違う別物であることがわかりました。(半導体関連語意表2)

(詳細はわかりませんが、東芝セラミックスはその後まもなく、半導体シリコンインゴット製造設備を建設・製造したようです。)

「石英ガラスの製造」

石英ガラスはクズ水晶の表面の不純物を除去した後、 1,700∼2,000∘C 以上の高温で溶かして造られる二酸化ケイ素 (SiO2)からなる透明なガラスで耐熱容器や実験器具の材料となります。

「単結晶シリコンの製造」

1.クズ水晶から造る石英ガラス(SiO2)から「大規模製造設備」の化学精製工程を経て高純度99.999999999%(イレブンナイン)のケイ素(Si)単体の「多結晶シリコン」を造ります。

2.この「多結晶シリコン」を石英ガラス製のルツボの中で約1420∘Cで溶かし、そこに「種結晶」を浸して、温度と回転引き上げ精密制御しながらゆっくり引き上げて半導体材料「単結晶シリコン」を造ります。

 

私は1969(S44)年から山口県徳山市(現周南市)の出光石油化学徳山工場で働いていました。(出光石油化学は2004年に出光興産と合併)

小国工場見学から数年後の1982年、東芝セラミックスと徳山曹達の合弁会社「徳山セラミックス」を徳山市に建設すると大戸君が伝えてくれました。

「① 水素の確保」

  炭化水素からなる石油は石油製品や誘導品製造時に副産物の水素を大量に発生する。

「② 酸素の確保」

  空気を圧縮冷却して液化し、蒸留により沸点差で分離する深冷分離法による酸素製造装置で酸素(沸点 -183℃)、窒素(沸点 -196℃)、アルゴン(沸点 -186℃)を製造。酸素が容易に大量に供給可能になり製造コストが低下する。

 

徳山セラミックスのシリコンインゴット製造設備建設・製造のため、小国製造所の要員も出向する、そして私も知っている小国町の人も徳山市に来るらしいという話を伝え聞き、交流ができると期待しました。

しかし、1983年に私は東京の本社に転勤になり、交流する行動を起こすこともなく、立ち消えになってしまいました。

1992年4月に大戸君は神奈川県秦野市にある東芝セラミックス秦野事業所に転勤になり技術部品質管理課長になり、さらに飛躍しようとした1996年3月51歳の時、血液の病気を発症しました。

私は入院先の海老名総合病に見舞いに行きましたが元気そうだったので、退院したらまた会って、ふるさとの小国で過ごした話をしようと約束しました。しかし、1997年7月52歳の志半ばで帰らぬ人となりました。

私は会社が認めるような業績を挙げることはなく、可もなく不可もなく会社人生を終えましたが、もし、大戸君は生き抜いたならば、会社で半導体材料製造を38年間一筋に努めあげ、業績を挙げたかもしれないと思い、彼の無念さを半導体に関するささやなエピソードとともによみがえりました。

【参考】

1.「半導体」のしくみとビジネスがしっかりわかる教科書、田中瑞穂、森山悟士、(株)技術評論社、2025・4・30

2.「半導体」のことが一冊でまるごとわかる、井上伸雄・蔵本貴文著、ベレ出版、2021・11・25

3.よくわかる半導体動作原理、西久保靖彦著、(株)秀和システム、2022・12・1

4.「半導体業界」の動向とカラクリがよーくわかる本、セント・アンド・ホース著、(株)秀和システム、2024・2・1

5.2040年半導体の未来、小柴満信著、東洋経済新報社、2024・7・3

6.文春新書「半導体有事」、湯之上隆著、(株)文芸春秋、2023・4・20

 

鴨長明の生き方に影響を与えた五大災厄と平家の興亡

鴨長明は1155(久寿二)年、下鴨神社の惣官(長官)である正禰宜(しょうねぎ)長継の次男として生まれました。

 

1173(承安三)年、長明が19歳の時、父が38歳で亡くなります。

長明はそれ以前に結婚をしていたといわれていますが、父の死に大きなショックを受け、お坊ちゃま育ちの長明はどうしてよいかわからず、精神的に不安定になり自殺も考えたといいます。

 

父が亡くなった1173年(19歳)から、祖母の家を出て鴨川の河原に移り住み、さらに六条河原へと移るまでの約10数年の間に、長明は京都を襲った五つの大災害を体験しました。

 

1177(安元三)年  長明23歳 4月安元の大火と6月鹿ヶ谷事件

1180(治承四)年  長明26歳 四月治承の辻風

1180(治承四)年  長明26歳 五月平清盛のクーデターと以仁王(もちひとおう)の謀反

1180(治承四)年  長明26歳 平清盛による六月福原遷都、十一月京都還都

1181(養和元)年  長明27歳 閏二月平清盛、海外貿易と平家安定の夢半ばで死去

1181(養和元)年  長明27歳 七月養和の飢饉(1181七月~1182年五月)

1183(寿永七)年  長明29歳 京に攻め上る木曽義仲(七月二二日)と平家一門の都落ち(七月二五日)

1184(元暦元)年  長明30歳 義経軍による鵯越(ひよどりごえ)坂落としの奇襲(二月七日)

1185(元暦2)年  長明31歳 屋島の合戦と那須与一の扇の的(二月一九日)

1185(元暦2)年  長明31歳 壇ノ浦合戦で平氏壊滅(三月二四日)

2011年                   3月11日東日本大震災と1185七月九日元暦の大地震

1185(元暦2)年  長明31歳 七月九日 元暦の大地震と建礼門院の死去、六代の斬られ、平家絶滅

父が逝ってから三十年あまり、世間の生きにくさに悩み抜いた鴨長明は、1204(元久元)年、50歳の春に出家しました。そして、三千院や寂光院のある洛北の大原に隠棲します。

 

1208(承元二)年、54歳にしてようやく京都の南東にある日野に安住の地を見出します。

 

「どんな豪邸を建てようとも、壊れるときは壊れるし、燃えるときは燃えてしまう」そう達観した長明は、かつて住んだ祖母の家の千分の一ほどしかない約3メートル四方「方丈の庵(いおり)」を建て、そこを終の棲み処としました。

 

1212(建暦二)年、58歳の時、長明が19歳から31歳までの間に体験した五大災厄や無常観、そして人生の生き方などを、ようやくたどり着いた終の棲家「方丈庵」で綴った『方丈記』を完成させました。

 

そしてその4年後、1216(建保四)年(*閏6月は建保四年)6月8日62歳で生涯を閉じました。

 

1967年当時化学物質の分析はハサミとビュレットでデータ整理は手回し計算機とそろばんでした。2026年の今、半導体やコンピュータが世界を変えている。

1.半導体の分類

2.半導体の役割

3.半導体メモリの分類

59年前の1967(S42)年、私は研究テーマ遂行のための実験の一環として海水に微量に含むマグネシウムの濃度を測定していました。

現在は、進歩した分析技術とコンピュータを内臓した分析機器により数秒で定量分析ができますが、当時の微量マグネシウムの分析は濃度分析器の波長の面積を「ハサミ」で切り取り、天秤で重さを図る方法や指示薬を入れたキレート滴定法(EDTA法)を使いました。

しかし、いずれも手作業で数時間かかり、また、データ整理も手回し計算機やそろばんや計算尺を使って手作業で行っていました。

(学会発表用のデータ図表などは写真撮影・現像して映写用のスライドを作成し、学内発表用は大判用紙にマジックインキなどで手書き作成していました。

そして、1968年頃大学に電子計算機が設置され、卒業論文のデータ整理に利用しました。) 

 yaseta.hateblo.jp

そんな1967年のある日、日本のビジコン社の営業担当が研究室を訪れ、教授・助教授・学生の前で電子卓上計算機のデモストレーション始めました。四則計算や関数計算を一瞬で行う電子卓上計算機(電卓)を目の当たりに見た我々一同は、びっくりしたことを思い出しました。

値段ははっきり覚えていませんが、当時の初任給が1~2万円の時、100万~300万円したと思っています。高価だったので研究室の予算では到底買えるはずもなく、デモで終わりました。 

当時は出来事しか頭になく、後になって知ることになりましたが、1960年から1965年にかけて半導体「トランジスタ」の数十倍から数千倍に対応する半導体「IC(集積回路)」が世に出ると、年を追うごと倍々ゲームで集積化が進みます。

1965年世界で初めてIC使用の汎用コンピュータとして小・中・大型まで商品化されたのがIBM360シリーズでした。そして、1967年、デモでみたビジコンの電卓はICを使用したものでした。

*世界で最初にトランジスタ電卓(1964年)を商品化したのも、IC電卓(1966年)を世界で最初に商品化したのも早川(シャープ)株式会社でした。
しかし、その後、コンピュータの頭脳になるCPU(Central Processing Umit 中央演算装置)は日本のビジコン社がインテルに持ち込んだことが誕生のきっかけとなりました。
「CPUは現在MPU(Micro Processing Umit)ともいう」
1969年、プログラム制御の電卓用のICを日本のビジコンの嶋正利氏がインテルに提案し、製造を依頼しました。
インテルの技術者テッド・ホフはこの提案を演算・制御・記憶機能を結び付けた2cm角のチップに治めたIC(集積回路)、すなわち、コンュータの頭脳であるCPU「インテル4004」を開発したのです。
この話は1991年にNHKスペシャル「電子立国日本の自叙伝」の5回目の電卓戦争に放映され、私が見たことを思い出しました。(録画したビデオテープからコピーしたDVDを見ようとしたら破損しており、現在は見れない状態です。)

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1968年に富士通がIC使用のFACOM230シリーズが商品化され、1971年出光興産徳山製油所に中型汎用FACOM230-35、出光石油化学徳山工場に小型汎用のFACOM230-25が設置されました。

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私は1969年出光興産に入り、出光石油化学徳山工場エチレン装置で3年勤務した後、1972年工場管理室研究係技術計算担当となり、物性推算や流動・伝熱・蒸留・反応などのデータ解析などでFACOM230-25を使用しました。

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1972年頃の半導体と言えば、IC半導体(デジタル半導体)とその他個別半導体程度の分類で事足りたと思われます。しかし、その後、デジタル半導体の技術進歩とともにその他半導体も含め、種類も利用範囲も産業だけでなく、研究開発・軍事・教育・社会生活など多種多様な分野に拡大し、市場規模が巨大になりました。さらに、2023年頃からAI(人工知能)ツール「ChatGPT」が無料利用化され、瞬く間に世界中に広がりました。 

今後、AIの利用拡大が見込まれ、半導体の生産・販売力の強さが国の経済を左右するかつての石油と同様の戦略物資になりました。そして、現在、世界の主要な国々は半導体市場シェア獲得を目指して熾烈な競争を始めています。 

私は長年コンピュータに携わったといえ、利用分野のほんの一部を携わっただけでした。そして、定年後の2005年以降、インターネットやスマートフォンやAIなどの新技術とそれの利用技術が次々現れ、進歩が加速しており、概要すら理解できなくなってきました。

そんなこともあり、まずは概要を理解するための一歩として、種類や多様化した半導体についてまとめてみました。

 

歌川広重画の「傘に鶏に朝顔」と日の出の時間帯の呼称について

鶏に朝顔

日の出・日の入の時間帯の呼称

方向と時刻の図

朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生まるるならひ、朝顔の露に異ならず。

露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。

知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る。

 

方丈記の序章を読んでいた時、上記のくだりから、歌川(安藤)広重の作品「傘に鶏に朝顔」を思い出し、模倣絵「鶏に朝顔」を描いてみました。

 

そして、方丈記の序章の中に「朝(あした)」という時刻、広重画に添えられた万葉仮名の和歌に「暁(あかつき)」という時刻があります。

 

鳴(なけ)波(ば)古(こ)楚(そ)   別(わかれ)於(を)尾(お)志(し)女(め)

鶏(とり)野(の)音(ね)廼(の)   喜(き)挙(こ)江(え)奴(ぬ)里(さと)之(の) 

暁(あかつき)茂(も)加(か)奈(な)

 

また、方丈記の安元の大火の章で、「戌(いぬ)の時(とき)ばかり、都の東南(たつみ、巽)より火出で来て、西北(いぬゐ、乾)に至る」と火事が起こった時刻と方向を表現しています。

一方、平家物語の巻第七の北国下向の章で平家が木曽義仲追討のため「平家軍勢十万余騎、寿永二年四月十七日「辰の一点」に、都を立って北国へ‐‐‐‐」と平家軍の出発時刻を表現しています。

 

そこで、暁(あかつき)、朝(あした)、戌の時(とき)などの「時刻」と東南(たつみ)、西北(いぬゐ)などの「方向」について概略調べてみました。

 

【方丈記が成立した鎌倉時代およびそれ以前の時刻】

一日(二四時間)を十二時(一つの時は現在の二時間に相当)に分け、十二支に対応させた時刻表現「定時法」を採用し、朝廷が管理しました。(また、方向を表す場合も十二支を使いました)

・子(ね)の時 : 深夜二三時〜翌一時頃、卯(う)の時 : 朝五時〜七時頃、

・午(うま)の時 : 昼一一時〜一三時頃(中央の十二時が「正午」の語源です)

・酉(とり)の時 : 夕方一七時〜一九時頃

・さらに細かい単位 : 「刻(こく)」

一つの「時(現在の二時間に相当)」をさらに細かく表現する場合、「刻(現在の三十分に相当)」を用いました。

当時は、一つの「時」を四等分し、「子一つ(ねひとつ)、子の一点、現在の二三時三十分」、「子二つ(子の二点)、現在の午前一時」、「子三つ、子の三点、現在の午前一時三十分」と呼びました。

 

【室町時代後半から江戸時代の時刻】

室町時代後半から戦国時代にかけて、徐々に日の出・日の入りを基準とする「不定時法(六等分時刻法)」へと社会全体がシフトしていきました。

 

室町時代後半から戦国時代にかけて、生活の実態(日の出・日の入り)に合わせた「不定時法」に移行し、時刻を「鐘の数」で表現する習慣(九つから始まって四つまで減る数え方)も加わり、「不定時法(六等分時刻法)」が定着していきました。

 

江戸時代の浮世草子や歌舞伎でも「明け六つ」「暮れ六つ」といった表現がさかんに使われるようになりました。広重が「傘に鶏に朝顔」を作った46歳の時は江戸時代末期の1842年で明治維新の28年前でした。

 

「傘に鶏に朝顔」から31年後の明治6年(1873)に飛鳥から江戸時代まで使われた太陰太陽暦から太陽暦の採用とともに日付、時刻も制度が高くなり、定時法に変わります。

 

しかし、江戸時代以前の庶民の生活にとっては、時計が刻む時間よりも「日が昇ったら働き、日が沈んだら寝る」という自然のサイクルの方が圧倒的に実用的でした。

 

方丈記の作者「鴨長明」の人生

鴨長明の略歴

参考:徒然草の作者「吉田兼好」の人生

 鴨長明自身に関する記録は少なく、詳細な生きざまを語ることは難しいようです。

 それでも、『方丈記』、自家和歌集『無名抄』、青年期から老年期に千載和歌集や新古今和歌集に入選した和歌、下鴨神社関係、和歌・琵琶の師そして有名な和歌の先輩・同僚の資料などに断片的に見られる記録から学者・専門家の方々は自分の説を入れた鴨長明史(生涯)を発表しています。

 下記参考書から鴨長明の人生の概略をまとめてみました。

 

【幼少期】

鴨長明の父「長継(ながつぐ)」は、二十歳(はたち)にも満たない若さで、京都・下鴨神社の惣官(長官)である正禰宜(しょうねぎ)に就いていたといいます。

鴨長明は1155(久寿二)年、長継の次男として生まれたおり、父が17歳の時の子といわれています。

長明の祖父(鴨季継)が亡くなり、その妻(長明の父・長継の母、長明にとっての父方祖母)が家屋敷を相続・管理しており、長明がそこを引き継ぐ手はずになって住んでいました。

そして、この家で和歌や琵琶を学びながら平穏な少年期を過ごしました。

 

【青年期】

1173(承安三)年、長明が19歳の時、父が38歳で亡くなります。

 長明はそれ以前に結婚をしていたといわれていますが、父の死に大きなショックを受け、お坊ちゃま育ちの長明はどうしてよいかわからず、精神的に不安定になり自殺も考えたといいます。

 それが妻子との関係にも重大な亀裂を生じさせ、結果として一人身となったのではないかと推察されています。

 『方丈記』には、「父方の祖母の家に、久しい間住んでいたが、その後、縁は切れ、身は落ちぶれて、思い出が多く残る場所であったが、留まることができなくなった。

 30歳あまりにして、ようやく一軒の家を建てることにした」という趣旨のことが記されています。

 1184(元暦元)年、30歳で祖母の家を出て、下鴨神社に近い鴨川の河原に家を建てて転居しました。さらに、3年後の1187(文治三)年には、六条河原に家を建てて移り住んでいます。

 長明が生まれてから世の中は「保元・平治の乱」が起こり、動乱の時代に入っていました。

 父が亡くなった1173年(19歳)から、祖母の家を出て鴨川の河原に移り住み、さらに六条河原へと移るまでの約10数年の間に、長明は京都を襲った五つの大災害を体験しました。

1177(安元三)年         23歳[安元の大火]

1180(治承四)年         26歳[治承の辻風]

1180(治承四)年      26歳[平清盛による福原遷都6月と京都還都11月]

1181(養和元)年         27歳[養和の飢饉](1181年末~翌年)

1185(文治元)年         31歳[元暦の大地震]

 長明が58歳になってから、この若き日に体験した五大災厄の記憶を克明に綴ったのが『方丈記』なのです。

 

【心のささえとなった和歌と琵琶と筆】

 長明は父・長継の死後、極度に落ち込み、一時は世をはかなんだこともあったといいます。しかし、幼少期から神職の道よりも没頭していた和歌や琵琶、あるいは文筆の才  能が彼の心の支えとなり、長明を立ち直らせました。

 音楽では、琵琶の師である中原有安から「管弦の道において跡を継ぐべき者」として注目されていました。

 和歌の道でも才能を発揮し、20代後半には家集『鴨長明集』の元となる詠草をまとめ、33歳の時には『千載和歌集』に一首が選ばれました。

 その頃、祖母の家の十分の一ほどの大きさではありますが、六条河原に棲み処(すみか)を構えました。そして、俊恵(しゅんえ)法師の和歌の会所である京都白川の僧坊「歌林苑(かりんえん)」の例会に出席し、日夜研究に努めました。

 このように、従五位下(じゅごいのげ)の位を持つ「鴨県主(かものあがたぬし)」としての長明の生計は、一応の保証がされていたようです。

 しかし、37歳頃から45歳までの約9年間、吉野や熊野に籠もっていたのか、あるいは東国に旅していたのか、確かな資料はなく、長明の消息は不明となっています。

 再び歴史の表舞台に現れるのは1200(正治二)年のことです。後鳥羽院の当座歌会に出席するようになり、その才能が後鳥羽院に知れ渡りました(当時の歌が三首現存しています)。

 翌年7月、宮中に新設された「和歌所」の寄人(よりうど=職員)に、8月になってから追加で抜擢されました。

 11月には和歌所の藤原俊成、定家、慈円、藤原良経など名だたる歌人たちに『新古今和歌集』編纂の命が下ります。

 長明は、こうした雲の上の存在である大歌人たちに交じって仕事ができることを深く喜び、熱心に働いたといわれています。

 

 後鳥羽院は長明を大いに気に入り、彼の貧しい暮らしを不憫に思って、下鴨神社の摂社である「河合(かわい)の社(やしろ)」の禰宜に欠員が出た際、長明をそこに充てようとしました。

 それを聞いた長明は、上皇の厚意に痛く感激しました。

 しかし、当時の惣官であった鴨祐兼(すけかね)は、わが子である祐頼(すけより)をその職に就けようとしていたため、上皇の案に猛反対しました。

 「祐頼は従五位上で、まだ20代ですが日夜精勤して社に奉公しております。それに対し、長明は従五位下で、40代後半の今に至るまで社への奉公を怠っております」と祐兼は上皇に訴え、案の撤回を求めました。

 若い上皇も下鴨神社全体の秩序を乱すことを避け、代わりに別の氏社(うじやしろ)を官社に格上げして長明の生活を保障しようとしました。

 ところが、この名誉ある配慮を長明は辞退してしまいます。そればかりか、和歌所にも出仕しなくなり、居場所すら誰にも知らせず、姿を消してしまいました。

 

【出家と終の栖「方丈庵」】

 父が逝ってから三十年あまり、世間の生きにくさに悩み抜いた鴨長明は、1204(元久元)年、50歳の春に出家しました。そして、三千院や寂光院のある洛北の大原に隠棲します。

 しかし、当時の大原は動乱の影響を受けて俗化しており、静かな修行の地としては満足のいくものではありませんでした。

 また、後鳥羽院の恩愛が結果として仇となり、下鴨神社との関係も気まずく、生活も困窮しました。

 そんな時、法然上人の弟子である如蓮房禅寂(にょれんぼうぜんじゃく)、俗名・日野長親(ひの ながちか)に出会います。

 長親は、京都の南東にある日野に法界寺(ほうかいじ)を建てた一族の出身でした。長明はその誘いに応じて日野を訪れたところ、その地をたいそう気に入り、1208(承元二)年、54歳にしてようやく安住の地を見出すことができたのです。

 「どんな豪邸を建てようとも、壊れるときは壊れるし、燃えるときは燃えてしまう」そう達観した長明は、かつて住んだ祖母の家の千分の一ほどしかない「方丈(約3メートル四方)」の移動式の庵(いおり)を建て、そこを終の棲み処としました。

 1212(建暦二)年、58歳の時、長明が19歳から31歳までの間に体験した五大災厄や無常観、そして人生の生き方など、ようやくたどり着いた終の棲家「方丈の庵」で綴った『方丈記』を完成させました。

 そしてその4年後、1216(建保四)年(*閏6月は建保四年)6月8日鴨長明は62歳でその波乱の生涯を閉じました。

 

【参考】

1・新編日本古典文学全集44「方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄」

校註・訳神田秀夫、小学館、1995・3・10

2・「方丈記全注釈」、簗瀬一雄、(株)角川書店、1971・8・10

3・「方丈記鴨長明」、浅見和彦、校註・訳、(株)筑摩書房、2011・11・10

4・新訂「方丈記」、校註・市古貞治、岩波文庫、第54刷、2025・7・4