陰暦二十四節気の「白露」と「秋分」の1ヶ月を「仲秋」といい、この間の満月(2024/9/18)を「中秋の名月」といいます。

陰暦令和六年八月の絵

令和六年八月の暦

8月26日(月)に日本の南にいた台風10号は動き遅く、九州の熊本付近に上陸し、6日間にわたり各地に大雨を降らせ、被害をもたらし、9月1日昼過ぎ、紀伊半島付近で熱帯低圧に変わりました。

 

西暦では9月1日の今日から秋に入ります。

陰暦では今日は陰暦令和6年7月30日ですが、陰暦の季節を知る指標である二十四節気では、まだ「7月中」の第14節気「処暑」(西暦8月22日~9月6日)終わりです。

しかし、立秋から1ヵ月経とうとしており、後5日の西暦9月7日(陰暦8月5日)には陰暦では秋も三分一に達します。

(参考:陰暦の秋は陰暦7月(七月節の立秋、西暦では8月)から陰暦9月(九月中の霜降、西暦では10月)までの3ヶ月です。西暦の秋(現在の感覚の季節)は西暦9月から西暦11月までの3ヶ月です。)

 

草花に朝露が宿り、秋が感じられるようになる「8月節」の第15節気「白露」(西暦9月7日~9月21日)に入るのは西暦9月7日からになります。

 

白露(8月節、西暦9月7日~9月21日)の初日(西暦9月7日)から秋分(8月中、西暦9月22日~10月7日)の最終日(西暦10月7日)までの1ヵ月間を「仲秋」といい、この間の満月(西暦9月18日、陰暦8月16日)を「中秋の名月」といいます。

国立天文台暦計算室のHPによると、仲秋(8月節白露と8月中秋分)は陰暦8月を指す言葉であり、中秋は秋(7,8,9月)全体の真ん中を指します。したがって、初秋、仲秋、晩秋を含めた秋全体の真ん中の満月ということで「中秋の名月」が正しいそうです。)

 

秋分の日の西暦9月22日(陰暦8月20日)は昼と夜の長さが同じになる秋分の日です。この日を境に昼の長さが最も短くなる冬至の日(西暦12月21日)まで日毎に昼の長さ短くなっていきます。

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NHK大河ドラマ「光るの君へ」後半の表舞台となる後宮ついて

図01 内裏(皇居)内の後宮

【2024年8月25日のNHK大河ドラマ「光るの君へ」第32回】
藤原道長(塚本佑)は一条天皇(塩野瑛久)の中宮として娘の彰子(見上愛)を入内させました。
しかし、一条天皇は亡き中宮定子(高畑充希)への思いが消えず彰子に気にかけてくれないことを道長は悩みます。

一条天皇が彰子の暮らす藤壺(飛香 舎、ひぎょうしゃ)に通ってもらう手段として、道長はまひろ(後の紫式部吉高由里子)が書いた源氏物語の始まりの段を贈りました。

道長のもくろみが成功し、一条天皇源氏物語に興味を示したので、まひろは道長の命により中宮彰子付の女房として藤壺へあがり、源氏物語の続きを執筆することになりました。

ということで、これから後宮はドラマの表舞台となるため後宮の概要について調べたことを載せてみました。

 

後宮について】

平安京における図01 内裏(皇居)と後宮の位置は下部の図02 大内裏の地図、図03 平安京の地図を参照)
後宮は皇后や妃などが起居する奥御殿またはそこに住む皇后・妃・女官などをいいます。

天皇が継嗣を得る大義名分により、正妻の皇后の下に、妃(ひ)は皇女、夫人(ぶにん)は三位以上の娘、嬪(ひん)は五位以上の娘を選ぶという妾(めかけ、側室)の制度を定めました。
律令には側室という名称はなく、妾は当時も一般的に用いられ、天皇の側室についても「妾御息所(めかけみやすんどころ)」と呼ばれました。

しかし、妃は醍醐天皇の頃(920年頃)、夫人は嵯峨天皇の頃(820年頃)、嬪は文武天皇の頃(850年頃)あっただけであまり採用されなかったといいます。

正妻である皇后は古来から慣習として皇女でなければならないとされていました。
しかし、飛鳥時代700年頃、藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人となり、聖武天皇(724年)の生母になったため、皇太后に準ずる「中宮」とする「中宮職」を定めました。

このように側近の公卿の娘が夫人になり、天皇自身が身近で奉仕する官女を寵愛するなど時代ととも妾御息所も変化していきます。
そして、平安時代になると天皇の正妻は皇女でなくても皇后になることができ、中宮天皇の正妻であり、皇后に準ずる地位を得ることになります。

平安京後宮としての皇后や妃などはじめ内侍司以下の官女そして内裏の北側に彼女たちが住む七殿五舎の御殿が配置されました。(図01内裏(皇居)参照)
❶承香 (しょうきょう)殿、➋常寧(じょうねい)殿、
貞観 (じょうがん)殿=御匣(みくしげ)殿、❹麗景(れいけい)殿、
❺宣耀 (せんよう)殿、❻弘徽 (こき)殿、❼登華(とうか)殿、
➀昭陽(しょうよう、梨壺)舎、②淑景(しげい、桐壺)舎、
③飛香 (ひぎょう、藤壺)舎、④凝華 (ぎょうか、梅壺)舎、
⑤襲芳 (しほう、雷鳴壺、かんなりつぼ)舎

女御(にょうご)、更衣(こうい)は平安時代の初めの桓武天皇(781~805)の頃から採用されました。延喜式によると、女御は夫人の下で、待遇は嬪と同様でしたが、しだいに地位がのぼり、摂関・大臣の娘を女御として、それから皇后にあがるようになりました。ただ、女御が大臣の娘の場合、皇子を生んでも権力・後ろだてがないと容易に皇后になれませんでした。

女御は、宣旨を下して補せられ、その上位階を賜ります。人員は幾人と定まっていないので、一時期、女御が多く居たこともありました。
また、女御は宣耀殿、弘徽殿、淑景舎(桐壺)、飛香 舎(藤壺)、凝華舎 (梅壺)などの御殿の名称をつけて宣耀殿女御、桐壺女御などと呼ばれ、また父の私第(私邸)の名称をとって堀河女御、高倉女御などと呼ばれました。
(襲芳舎 (しほうしゃ、雷鳴壺、かんなりつぼ)を除く御殿4舎は丸い形の庭に植えられた花や木の名前が御殿の名称になった)

更衣は天皇の御衣を御召し代えたり、御寝所に仕えるようになり、初めの頃は定員は12名でしたがその後、数名となり、その中に寵愛され、妾御息所(めかけみやすんどころ)になる更衣が出てきました。そして、更衣は女御の次で四位か五位の位階が与えられました。

御息所(みやすんどころ)は天皇が休憩する便殿(御座所)をいいますが、そこに伺候する女御や更衣を妾御息所(めかけみやすんどころ)または御息所また後宮を御息所とも呼ぶようになりました。

藤原道長の娘である「彰子」は、一条天皇の「妾御息所」から中宮へと昇進しました。
御匣殿(みくしげどの)は貞観殿の別名で、ここの御装束裁縫役の官女の長の御匣殿別当を略して御匣殿と呼ぶようになりました。

冷泉天皇の970年頃に公卿の娘が入内し、御匣殿別当になり、女御になったといいます。
内侍所(ないしどころ)は御温殿(うんめいでん)の中の神璽が鎮座された賢所(かしこどころ)のことで、内侍が常に詰めていたことから内侍所と呼ばれるようになりました。

薬子の変(薬子、くすこ:藤原式家 藤原種継の娘)
平城上皇(へいぜいじょうこう)と嵯峨天皇の間に二所朝廷といわれる対立が起こり、810年平城上皇重祚天皇に復位)を目指し挙兵した。平城上皇の寵愛を受けていた妾御息所の尚侍(ないしのかみ) 藤原薬子と兄の仲成が助長するも敗北した。(北家が飛躍しますが858年の掌握まで権力争いは続きます。)

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【用語】
[女房(にょうぼう)] 御匣(みくしげ)殿、尚侍(ないしのかみ)以下、命婦、女蔵人などの総称。
[上臈(じょうろう)] 御匣(みくしげ)殿、尚侍(ないしのかみ)、二位、三位の典侍(ないしのすけ)で禁色(きんじき、赤または青の装束)を許された大臣の娘あるいは孫娘などをいう。
[中臈(ちゅうろう)] 四、五位の女官など
[下臈(げろう)] 摂関家の家司(けいし:役人)の娘、賀茂、日吉神社の家の娘。
[命婦(みょうぶ)] 大宝律令では五位以上のを持っている婦人を内命婦(ないみょうぶ)、五位以上のを持っている官人の妻を外命婦(げみょうぶ)と呼ぶ。
[女蔵人(にょくろうど)] 下臈の女房のことで、御匣殿の御装束や裁縫など種々の御用を務めた。
皇后宮、東宮にも女蔵人がいた。
[采女(うねめ)・女嬬(にょじゅ)] 郡司および諸氏の容姿端麗な娘を選び、朝廷に出仕させた。
上古は天皇の近くに仕えていたが、大宝律令以後女官十二司の下に配し、女嬬とした。

図02 大内裏の地図

図03 平安京の地図



【参考】
1.「知っ得 後宮のすべて」国文学編集部、(株)学燈社、2008・1・10
2.「日本の歴史2 古代国家の成立」直木孝次郎、中央公論社、昭和40年3月15日
3.「日本の歴史3 奈良の都」青木和夫、中央公論社、昭和40年4月15日
4.「日本の歴史4 平安京北山茂夫中央公論社、昭和40年5月15日
5.「日本の歴史5 王朝の貴族」土田直鎮、中央公論社、昭和40年6月15日
6.「いっき学びなおす 日本史 古代・中世・近世 教養編」安藤達朗東洋経済新聞社、2016・3・31
7.「地図でスッと頭に入る平安時代繁田信一昭文社、2021・10・1

夏から秋に替わる19日間の移行期間である「土用」における「丑の日」の計算について

表1 五行説の季節(四季+土用)

表2 西暦年月日から干支年月日への変換式表

表3 土用の丑の日の計算

2024年8月7日「立秋」の今日から「秋」が始まり、昨日までの「暑中見舞い」から「残暑見舞い」に替わります。
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昨日まで「大暑」で酷暑が続き、今日から「秋」といっても、まだ、暑さは続き、とうてい「秋」とは思えません。

太陰暦の欠点である日付のズレを補うために古代中国ではかなり正確に二十四節気を組み込んだ太陰暦太陽暦を組み合わせた太陰太陽暦を発明し、季節を設定していました。

季節が変化する説明図にあるように、太陽が黄道春分点(0度)、立夏点(45度)、夏至点(90度)を通り、立秋点(135度)に達した日時が「立秋」と決め、秋は「立秋」(旧暦7月、西暦8月)」から秋分点(180度)を通り、「立冬(225度)」に到達前の「霜降点(210度)(旧暦9月、西暦10月)の終わり」までと決めたので、現在の気象観測や天体観測のからの季節より約1ヵ月早い秋の訪れとなります。(現在は二十四節気点到達までの日付時間を秒単位で予測できますが日本の古代や近世の予測は日付、概ねの時間まででした。)

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徒然草の第155段に「春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよおし、夏より既に秋は通(かよ)ひ、秋はすなわち寒くなり、‐‐‐‐‐‐‐、木の葉の落つるも、まず落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざし つはる に耐えずして落つるなり。‐‐‐‐‐‐‐」とあります。(「つはる」は、きざしだした兆候が進むことで、妊娠の「つわり」同じ意)
このように、実際はいきなり、夏から秋になるわけはなく、気温が上がったり下がったりしながら次第に涼しくなり、秋になっていきます。

このように突然秋が来るわけででなく、太陽が立秋点に到達する秋になるまで、すなわち夏から秋へ変化する季節の移行期間を古代中国思想の五行説では第五の季節「土用」を採用しています。

すなわち、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという五行説では四季にはそれぞれ季節の土用という移行期間の季節があり、1年は「春(木)・夏(火)・秋(金)・冬(水)・土用(土)」の5つの季節から成るとしています。
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したがって、土用も四季ごと4回あり、季節が始まる(立つ)、立春立夏立秋立冬の始まる前のそれぞれの移行期間18~19日間が土用であると説いています。

立秋の前日(西暦8月6日)を土用明けとする西暦7月19日~8月6日の約19日間の期間は夏土用と呼ばれ、夏から秋(立秋)になる移行期間です。
夏土用の期間は最も暑い「大暑」であるので、土用期間の大暑の期間の丑の日にうなぎを食べる慣習があります。

土用の丑の日の計算】
2024年の夏土用の丑の日を算出してみました。
① 2024年8月7日は立秋、その前日は土用の明け、この日から19日前の日が「土用の入り」になります。
② 土用の入りの7月19日の干支日付を「西暦日付から六十年干支日付への変換式」から求めます。

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③ 変換結果は表2の7月19日の六十干支日は甲申(きのえさる)となるので、土用の入りは十二支の干支は「申(さる)」となります。
④ この十二支の干支「申(さる)の日」から土用明けまでの19日間の日付と干支は表3になり、7月24日が丑の日で、8月5日が二の丑の日と算出されます。
⑤ 変換式で7月24日と立秋の8月7日の干支日(干支)を確認したのが表2です。

 

陰暦令和六年七月(ふみづき、文月)大(西暦2024年8月)の太陰太陽暦カレンダー

陰暦七月の絵

陰暦七月の暦

陰暦令和六年七月(ふみづき)は「新月」の西暦2024年8月4日(陰暦七月一日)から始まり、「満月」の西暦2024年8月20日(陰暦七月十七日)を経て、次の「新月の前日」である西暦9月2日(陰暦七月三十日)までの30日間(大の月)になります。

陰暦七月(西暦8月)である「ふみづき」の由来は七夕に託して文をしたためる月、または稲が穂を含む「含み月(ふくみづき)」、「穂見月(ほみづき)」が転じて文月(ふみづき)などの説があります。

月の満ち欠けによ太陰暦は1年と太陽の運行による1年との日付のズレが生じていますので、太陽の運行から求めた二十四節気を組み合わせ、補完した太陰太陽暦として実用していました。
徒然草の第一六一段には“桜の盛りは立春から数えて七十五日はだいたい狂わない”と書いています。)

太陰太陽暦の仕組み】
①    太陰暦の7月 西暦8月4日 ~ 9月2日(陰暦七月一日~陰暦七月三十日)
         「新月」から「次の新月の前日」までの30日間
②    太陽の運行から求めた7月 

         西暦8月7日 ~ 9月6日(陰暦七月四日~陰暦八月四日)
          「立秋」15日間と「処暑」の16日の31日間

2024年7月22日から本日の8月6日までの16日間(陰暦六月十七日~七月三日)が、六月中の第十二節気「大暑」でした。そして、明日の2024年8月7日は第十三節気「立秋」(七月節)が始まり、陰暦では季節は秋となります。

古代日本であれば大暑が終わり、陰暦7月(現在の8月)に入ると秋の気配を感じたかも知れませんが、現代は地球温暖化の影響でこのような酷暑なっているのかわかりませんが、本日の8月6日まで、度々気温30度~40度の酷暑日が続き、明日の8月7日から秋(立秋)になるとはとても思えません。

五行説の1年は「四季+土用」の5つの季節を持ちます。1年は四季がありますので、土用も4回あり、季節が始まる(立つ)、立春立夏立秋立冬の始まる前の変化(移行)期間の18~19日間が土用であると説いています。

西暦7月19日を土用の入りとして立秋の前日の西暦8月6日を土用明けとする19日間の期間は夏土用と呼ばれ、この移行期間を終える8月7日から陰暦では秋(立秋)に入ることになります。

残暑見舞いは「立秋」が始まる西暦8月7日(陰暦七月四日)から「処暑」の最後(白露の前日)の西暦9月6日(陰暦八月四日までとされています。

西暦8月31日は二百十日立春から数えて210日目)で、この頃から台風が多くなり、注意が必要になってきます。

七月節(16日間)
二十四節気
第十三節気「立秋」(陰暦七月四日~七月十八日、西暦8月7日~8月21日、15日間)

七十二候
第三十七候「涼風(すずかぜ)至る」(陰暦七月四日~七月八日、西暦8月7日~8月11日、5日間)
第三十八候「寒蝉(ひぐらし)鳴く」(陰暦七月九日~七月十三日、西暦8月12日~8月16日、5日間)
第三十九候「深き霧まとう」(陰暦七月十四日~七月十八日、西暦8月17日~8月21日、5日間)

六月中(16日間)
二十四節気
第十四節気「処暑」(陰暦七月十九日~八月四日、西暦8月22日~9月6日、16日間)

七十二候
第四十候「綿の柎(はなしべ)開く」(陰暦七月十九日~七月二十四日、西暦8月22日~8月27日、6日間)
第四十一候「天地始めて寒し」(陰暦七月二十五日~七月二十九日、西暦8月28日~9月1日、5日間)
第四十二候「禾(こくもの)乃(すなわ)ち実る」(陰暦七月三十日~八月四日、西暦9月2日~9月6日、5日間)

 

陰暦令和六年六月(水無月)小(西暦2024年7月)の太陰太陽暦カレンダー

陰暦六月の絵

陰暦令和六年六月(水無月)は西暦2024年7月6日(陰暦六月一日)から始まり、西暦8月3日(陰暦六月二十九日)まで29日間の小の月になります。
そして、二十四節気第11節気「小暑」の六月節と第12節気「大暑」の六月中にかけ夏本番を迎えます。

陰暦六月(西暦7月)はじりじりと照り付ける酷暑が続き、水が枯れ果てることことから水無月(みなづき)といいます。

暑中見舞いは小暑が始まる陰暦六月一日(西暦7月6日)から大暑の終わる陰暦七月三日(西暦8月6日)の立秋の前日までとされています。

六月節(16日間)
二十四節気
第十一節気「小暑」(陰暦六月一日~六月十六日、西暦7月6日~7月21日、16日間)

七十二候
第三十一候「温風(あつかぜ)至る」(陰暦六月一日~六月六日、西暦7月6日~7月11日、6日間)
第三十二候「蓮(はす)はじめて咲く」(陰暦六月七日~六月十一日、西暦7月12日~7月16日、5日間)
第三十三候「鷹技を習う」(陰暦六月十二日~六月十六日、西暦7月17日~7月21日、5日間)

六月中(16日間)
二十四節気
第十二節気「大暑」(陰暦六月十七日~七月三日、西暦7月22日~8月6日、16日間)

七十二候
第三十四候「桐はじめて花を結ぶ」(陰暦六月十七日~六月二十一日、西暦7月22日~7月26日、5日間)
第三十五候「土潤って蒸し暑し」(陰暦六月二十二日~六月二十七日、西暦7月27日~8月1日、6日間)
第三十六候「大雨時々降る」(陰暦六月二十八日~七月三日、西暦8月2日~8月6日、5日間)

 

律令上の貴族と一般貴族の貴族内および貴族と庶民の間の俸給・昇進の大いなる格差

位階俸禄表

平安貴族の年俸表

公卿の俸禄表

国政の最高機関の組織

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平安時代の貴族の収入】
中世ヨーロッパ貴族は自分の領地から年貢を取り立て生計を立てていたのに対し、平安貴族は自身が所有している荘園からの年貢は少なく、朝廷から支給される高額な俸禄(俸給)によって生計を立てていました。
従って、中世ヨーロッパ貴族が個人事業者とすれば、平安貴族は律令制に基づいて天皇が任命したサラリーマン(官人、官僚)ということになります。
(*律令上の貴族は従五位下以上、正六位上以下の官人は一般貴族と庶民からなる)

【蔭位制(おんいせい)について】
飛鳥時代の終わり頃、藤原不比等は大宝・養老律令編纂にあたり、貴族階級の血統と権威を維持し、政治支配の基盤を維持するため、制定したのが蔭位制でした。
それは貴族の子や孫が仕官する場合は親の官位に応じて最初から官位が与えられるというものである。
貴族は俸禄など特別優遇を受けるようになっている。
官位が一位の嫡子が仕官する場合は最初から従五位下、嫡孫の場合は正六位上が与えられる。
官位が二位、三位の子は六位、孫は七位が与えられる。
官位が四位、五位の子は七位、孫は八位が与えられる。
律令上の貴族から外れ、蔭位を受けない六位以下の一般貴族は大学課程を終了後、庶民と同様に官人登用試験を受け合格すれば初位(最高成績で八位)が与えられる。

律令上の貴族と一般貴族の貴族内および貴族と庶民の間の俸給・昇進の格差】
平安時代中期、律令上の貴族の従五位下と一般貴族の正六位上の境は1位階ですが、年俸(俸禄)には桁違いの10倍以上の差がありました。
摂関家の子息は最初から従五位下与えられ、親が五位以上子息には八位以上の位階があたえられます。

正六位上から従五位下への昇進の壁は大きく、よほどの業績や縁故がない限り、昇進は困難でした。
当時としては老人扱いされた40歳頃にようやく、昇進するのが多かったといいます。
紫式部の父藤原為時正六位上から従五位下に昇進したのは40歳以降、清少納言の父清原元輔従五位下になったのは60歳過ぎてからと言われています。

一般貴族の六位以下の子息は蔭位を受けられず、庶民と同様に、官人登用試験を受け合格しなければ官位を得られませんが、貴族の官人の子の場合、試験を受けなくても、世襲が許され、父の下で一定の実務経験を積むことにより、それなりの官位が与えられ、官人になることができました。
また、一般貴族は無位でも官人の下で官司(官庁)の職を得ることは可能でした。庶民から見れば、一般貴族でさえ優遇されていたことがうかがえます。
能力と功績次第で昇進できますが官人になっても「正六位上」に昇進するまで初位、八位、七位、六位とそれぞれ中分類で4位階さらに小分類にすると計16位階になり、昇進は至難の業でした。

政権を失い、財政が縮小した鎌倉時代の朝廷においても蔭位制は続けられました。
吉田兼好は1301年18歳で六位蔵人として朝廷に出仕、24歳で従五位上左兵衛佐まで昇進しています。

(父 卜部兼顕(うらべかねあき)は1302年に神祇官の次官(すけ)である神祇 権大副(ごんのだいふく)(正四位下)を受けている)       (参考)「徒然草歴史学五味文彦

官位相当表では神祇官の次官(すけ)の大副(たいふ)は従五位下となっている。

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【まとめ】
平安時代貴族(律令上の貴族)は、朝廷からの高額な俸禄を基盤としたサラリーマン的な側面と荘園からの年貢収入による個人事業主的側面も併せ持っていた。
2蔭位制は、貴族階級の血統と権威を維持し、政治支配の基盤を維持するために制定された。
3蔭位制による俸禄体系と昇進制度は貴族内、貴族と庶民の間で大きな格差を生み出した。

 

陰暦令和六年五月(皐月)大(西暦2024年6月)の太陰太陽暦カレンダー

陰暦五月の絵

陰暦令和六年五月の暦

西暦2024年6月5日(陰暦4月29日)から始まり、6月20日(陰暦5月15日)までの二十四節気第九節気「芒種」は五月節にあたります。

そして西暦2024年6月21日(陰暦5月16日)から始まり、7月5日(陰暦5月30日)までの二十四節気第十節気「夏至」は五月中にあたります。

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五月節:第二十四節気第九節気「芒種」(陰暦4月29日~5月15日、西暦6月5日~6月20日
七十二候第二十五候「かまきり生ず」(陰暦4月29日~5月4日、西暦6月5日~6月9日)
第二十六候「腐れたる草蛍となる」(陰暦5月5日~5月10日、西暦6月10日~6月15日)
第二十七候「梅の実黄ばむ」(陰暦5月11日~5月15日、西暦6月16日~6月20日

芒種の第26候の頃(陰暦5月5日、西暦6月10日)から小暑の第31候の終わり頃(陰暦6月6日、西暦7月11日)の約30日間は梅雨の時期となります。

 

「腐れたる草蛍となる」は雨で蒸された草の中から、蛍が飛び交い、淡い光が放ち始める時期という意味である。

 

五月中:二十四節気第十節気「夏至」(陰暦5月16日~5月30日、西暦6月21日~7月5日)
七十二候第二十八候「乃東枯る」(陰暦5月16日~5月20日、西暦6月21日~6月25日)
第二十九候「菖蒲(あやめ)咲く」(陰暦5月21日~5月25日、西暦6月26日~6月30日)
第三十候「半夏(はんげ)生ず」(陰暦5月26日~5月30日、西暦7月1日~7月5日)

 

乃東は「だいとう、または、なつかれくさ」と読み、漢方では利尿薬として使われる夏枯草(かこそう)、一般には靫草(うつぼぐさ)と呼ばれる。シソ科の多年草で日当たりの良い山野に自生する。

 

半夏(はんげ)はサトイモ科のカラスビシャクのことで、半夏の塊茎を乾燥したものが漢方薬として、吐き気、嘔吐、咳嗽(せき)、不眠などに用いらる。
江戸時代に中国流から日本流に改正されて以来、夏至の第28候「乃東枯る(なつかれくさかるる)」陰暦5月16日から5月20日(6月21日~6月25日)頃までに田植えを終えるめやすとされていました。

 

陰暦の5月は新月を迎える陰暦5月1日(西暦6月6日)から始まり、次の新月の前日の陰暦5月30日(西暦7月5日)で終わる大の月になります。