

鴨長明自身に関する記録は少なく、詳細な生きざまを語ることは難しいようです。
それでも、『方丈記』、自家和歌集『無名抄』、青年期から老年期に千載和歌集や新古今和歌集に入選した和歌、下鴨神社関係、和歌・琵琶の師そして有名な和歌の先輩・同僚の資料などに断片的に見られる記録から学者・専門家の方々は自分の説を入れた鴨長明史(生涯)を発表しています。
下記参考書から鴨長明の人生の概略をまとめてみました。
【幼少期】
鴨長明の父「長継(ながつぐ)」は、二十歳(はたち)にも満たない若さで、京都・下鴨神社の惣官(長官)である正禰宜(しょうねぎ)に就いていたといいます。
鴨長明は1155(久寿二)年、長継の次男として生まれたおり、父が17歳の時の子といわれています。
長明の祖父(鴨季継)が亡くなり、その妻(長明の父・長継の母、長明にとっての父方祖母)が家屋敷を相続・管理しており、長明がそこを引き継ぐ手はずになって住んでいました。
そして、この家で和歌や琵琶を学びながら平穏な少年期を過ごしました。
【青年期】
1173(承安三)年、長明が19歳の時、父が38歳で亡くなります。
長明はそれ以前に結婚をしていたといわれていますが、父の死に大きなショックを受け、お坊ちゃま育ちの長明はどうしてよいかわからず、精神的に不安定になり自殺も考えたといいます。
それが妻子との関係にも重大な亀裂を生じさせ、結果として一人身となったのではないかと推察されています。
『方丈記』には、「父方の祖母の家に、久しい間住んでいたが、その後、縁は切れ、身は落ちぶれて、思い出が多く残る場所であったが、留まることができなくなった。
30歳あまりにして、ようやく一軒の家を建てることにした」という趣旨のことが記されています。
1184(元暦元)年、30歳で祖母の家を出て、下鴨神社に近い鴨川の河原に家を建てて転居しました。さらに、3年後の1187(文治三)年には、六条河原に家を建てて移り住んでいます。
長明が生まれてから世の中は「保元・平治の乱」が起こり、動乱の時代に入っていました。
父が亡くなった1173年(19歳)から、祖母の家を出て鴨川の河原に移り住み、さらに六条河原へと移るまでの約10数年の間に、長明は京都を襲った五つの大災害を体験しました。
1177(安元三)年 23歳[安元の大火]
1180(治承四)年 26歳[治承の辻風]
1180(治承四)年 26歳[福原遷都6月と11月京都還都]
1181(養和元)年末~翌年 27歳[養和の飢饉]
1185(文治元)年 31歳[元暦の大地震]
長明が58歳になってから、この若き日に体験した五大災厄の記憶を克明に綴ったのが『方丈記』なのです。
【心のささえとなった和歌と琵琶と筆】
長明は父・長継の死後、極度に落ち込み、一時は世をはかなんだこともあったといいます。しかし、幼少期から神職の道よりも没頭していた和歌や琵琶、あるいは文筆の才 能が彼の心の支えとなり、長明を立ち直らせました。
音楽では、琵琶の師である中原有安から「管弦の道において跡を継ぐべき者」として注目されていました。
和歌の道でも才能を発揮し、20代後半には家集『鴨長明集』の元となる詠草をまとめ、33歳の時には『千載和歌集』に一首が選ばれました。
その頃、祖母の家の十分の一ほどの大きさではありますが、六条河原に棲み処(すみか)を構えました。そして、俊恵(しゅんえ)法師の和歌の会所である京都白川の僧坊「歌林苑(かりんえん)」の例会に出席し、日夜研究に努めました。
このように、従五位下(じゅごいのげ)の位を持つ「鴨県主(かものあがたぬし)」としての長明の生計は、一応の保証がされていたようです。
しかし、37歳頃から45歳までの約9年間、吉野や熊野に籠もっていたのか、あるいは東国に旅していたのか、確かな資料はなく、長明の消息は不明となっています。
再び歴史の表舞台に現れるのは1200(正治二)年のことです。後鳥羽院の当座歌会に出席するようになり、その才能が後鳥羽院に知れ渡りました(当時の歌が三首現存しています)。
翌年7月、宮中に新設された「和歌所」の寄人(よりうど=職員)に、8月になってから追加で抜擢されました。
11月には和歌所の藤原俊成、定家、慈円、藤原良経など名だたる歌人たちに『新古今和歌集』編纂の命が下ります。
長明は、こうした雲の上の存在である大歌人たちに交じって仕事ができることを深く喜び、熱心に働いたといわれています。
後鳥羽院は長明を大いに気に入り、彼の貧しい暮らしを不憫に思って、下鴨神社の摂社である「河合(かわい)の社(やしろ)」の禰宜に欠員が出た際、長明をそこに充てようとしました。
それを聞いた長明は、上皇の厚意に痛く感激しました。
しかし、当時の惣官であった鴨祐兼(すけかね)は、わが子である祐頼(すけより)をその職に就けようとしていたため、上皇の案に猛反対しました。
「祐頼は従五位上で、まだ20代ですが日夜精勤して社に奉公しております。それに対し、長明は従五位下で、40代後半の今に至るまで社への奉公を怠っております」と祐兼は上皇に訴え、案の撤回を求めました。
若い上皇も下鴨神社全体の秩序を乱すことを避け、代わりに別の氏社(うじやしろ)を官社に格上げして長明の生活を保障しようとしました。
ところが、この名誉ある配慮を長明は辞退してしまいます。そればかりか、和歌所にも出仕しなくなり、居場所すら誰にも知らせず、姿を消してしまいました。
【出家と終の栖「方丈庵」】
父が逝ってから三十年あまり、世間の生きにくさに悩み抜いた鴨長明は、1204(元久元)年、50歳の春に出家しました。そして、三千院や寂光院のある洛北の大原に隠棲します。
しかし、当時の大原は動乱の影響を受けて俗化しており、静かな修行の地としては満足のいくものではありませんでした。
また、後鳥羽院の恩愛が結果として仇となり、下鴨神社との関係も気まずく、生活も困窮しました。
そんな時、法然上人の弟子である如蓮房禅寂(にょれんぼうぜんじゃく)、俗名・日野長親(ひの ながちか)に出会います。
長親は、京都の南東にある日野に法界寺(ほうかいじ)を建てた一族の出身でした。長明はその誘いに応じて日野を訪れたところ、その地をたいそう気に入り、1208(承元二)年、54歳にしてようやく安住の地を見出すことができたのです。
「どんな豪邸を建てようとも、壊れるときは壊れるし、燃えるときは燃えてしまう」そう達観した長明は、かつて住んだ祖母の家の千分の一ほどしかない「方丈(約3メートル四方)」の移動式の庵(いおり)を建て、そこを終の棲み処としました。
1212(建暦二)年、58歳の時、長明が19歳から31歳までの間に体験した五大災厄や無常観、そして人生の生き方など、ようやくたどり着いた終の棲家「方丈の庵」で綴った『方丈記』を完成させました。
そしてその4年後、1216(建保四)年(*閏6月は建保四年)6月8日鴨長明は62歳でその波乱の生涯を閉じました。
【参考】
1・新編日本古典文学全集44「方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄」
校註・訳神田秀夫、小学館、1995・3・10
2・「方丈記全注釈」、簗瀬一雄、(株)角川書店、1971・8・10
3・「方丈記鴨長明」、浅見和彦、校註・訳、(株)筑摩書房、2011・11・10
4・新訂「方丈記」、校註・市古貞治、岩波文庫、第54刷、2025・7・4









