新暦と旧暦の季節の2か月ズレは古代飛鳥時代の人々の季節の感じ方によるものか?。

陰暦令和六年十一月の絵

陰暦令和六年十一月の暦

冬の分類
分類       秋         冬
気象学的季節   9月~11月     12月~2月
天文学的季節   秋分冬至     冬至春分
太陰暦の季節   七月~九月     十月~十二月
太陰太陽暦の季節 七月節~九月中   十月節~十二月中
節月区切り    立秋初日~立冬前日 立冬初日~立春前日

太陽歴の本日の西暦2024年12月1日は陰暦11月1日で太陰太陽暦では“初冬(陰暦の日付的「十月」および二十四節気の季節的「十月節・十月中」)”の初冬の終わりに近い十月中です。

そして太陽暦の12月7日(陰暦11月7日)には“仲冬(陰暦の日付「十一月」および二十四節気の季節「十一月節・十一月中」)“に入り、太陰太陽暦では本格的な冬の到来となります。

太陽暦太陰太陽暦の季節が2か月早い理由について】
現在、一般に気象学的な冬は“初冬(12月)、仲冬(1月)、晩冬(2月)”とされていますが、太陽太陰暦の冬は“初冬(陰暦の日付的「十月」および二十四節気の季節的「十月節・十月中」)、仲冬(日付的「十一月」および季節的「十一月節・十一月中」)、晩冬(日付的「十二月」、季節的「十二月節、十二月中」)”と気象学的季節より2か月早い季節になっています。

この原因は暦の基本となる太陰暦の1年と太陽暦の1年が異なるためと私は思っていましたが私の大きな誤解でした。太陰太陽暦を創設したことで季節のズレを補っていたのです。

太陰太陽暦による季節のズレの補完】
太陰太陽暦の主体となる太陰暦は月の満ち欠けによる日の数え方のため太陽の運行による日の数え方と比べ、日付にズレで生じ、気象学的季節にもズレが生じます。

しかし、太陰暦の気象学的季節ズレを補うため、太陽の運行による日の数え方に対応する二十四節気および七十二候を取り入れ、太陰暦の日付にこれら季節を対応させ補完したのが太陰太陽暦なのです。
(確定はしていないが、太陰太陽暦飛鳥時代(6世紀後半~8世紀)に伝来した暦法二十四節気や七十二候は採用されていたようです。)

しかし、太陰太陽暦(旧暦)年の基本である太陰暦太陽暦の1年より約11日少なく、3年(約33日)で約1カ月のズレとなり、このまま運用すると太陽暦の日付の差が増々拡大し、暦そのものに支障をきたします。
そこで、太陰太陽暦の3年に一回閏月を挿入した1年13カ月の閏年を作り、太陽暦の日付に近づけ調整してきました。

こうして運用上は大きな問題なく太陰太陽暦が伝来した飛鳥時代から千年以上使われてきたのです。

上記に述べたように、二十四節気・閏月方式により旧暦(太陰太陽暦)で季節を確認することは太陽暦のそれと大きく変わりません。とすると、新暦と旧暦の季節に2か月のズレがあるのは太陽暦太陰太陽暦の違いから生じるものでないことはわかりましが、伝来した暦法の季節の分類の基準をそのまま採用したからか、あるいは飛鳥時代当時の人々が奈良地方の気象を肌身に感じて分類した季節基準なのか、原因はわかりませんでした。(数日の調査では確定が困難でした)

 

本日2024/11/6は旧暦では秋が終わり、明日11/7から冬が始まります。

陰暦十月の絵

陰暦十月の暦

太陽歴の本日2024年11月6日は太陰太陽暦(旧暦)では九月中「第十八節気 霜降」の最後の日の十月七日で秋は終わります。
明日の西暦11月7日(陰暦十月八日)からは十月節「第十九節気 立冬」で、この日から冬が始まります。

太陰太陽暦太陰暦(月の満ち欠け)の月で区切る場合は「正月~三月」を春、「四月~六月」を夏、「七月~九月」を秋、「十月~十二月」を冬となりますが、季節を知る太陽の運行すなわち「節月」で区切る場合は立春立夏立秋立冬が季節の始まりとなります。

太陰太陽暦太陽暦では約1か月のずれがありますので、旧暦の季節は西暦に置き換えると「2月~4月」が春、「5月~7月が夏、8月~10月が秋、11月~1月が冬と呼んでいたことになります。

分類                       春                  夏                   秋                    冬
暦月区切り        正月~三月    四月~六月    七月~九月    十月~十二月
現代対応           2月~4月    5月~7月    8月~10月     11月~1月    
節月区切り        立春穀雨    立夏大暑    立秋霜降     立冬大寒
気象学的季節     3月~5月        6月~8月        9月~11月      12月~2月
天文学的季節    春分芒種     夏至~白露    秋分~大雪     冬至啓蟄
(参考:国立天文台 暦要項)

 

朝廷の分裂・倒幕運動・鎌倉幕府滅亡そして新たな武家政権誕生という激動の時代を生きた吉田兼好

天皇・将軍・執権の年表

徒然草は序段および243段から成り、内容は聖徳太子のお墓の話の622年頃の飛鳥時代から兼好より約18年先輩で歌人漢詩文章博士(もんじょうはかせ)平惟継(これつぐ)の話の1342年頃の鎌倉時代末期までの約720年の間の話題を綴っています。

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吉田兼好はどういういきさつで朝廷に出仕、出家隠遁し、どのように徒然草を執筆し、また歌人として活動したのかはっきりしていません。しかし、実際に『徒然草』、『兼好自撰集』を作り、『続後拾遺和歌集』、『続千載和歌集』などに入集和歌を残しており、研究者によって推定時期が異なる場合がありますが、およその経歴や執筆に関することがらが推定されています。

幾つかの資料から吉田兼好の経歴と生きた時代の超概略を記述します。

吉田兼好の家系と朝廷勤務】
卜部(うらべ)氏は古代から続く神祇官の家系で、一条天皇(986~1011)から「兼」の字を賜わって以来、通り名となり、中世に吉田神社の社家を世襲しました。(参考1)

兼好の父、卜部兼顕(うらべかねあき)は、1286(弘安9年)の後宇多天皇行幸の際、春日社の宮主として卜筮(ぼくぜい)を司(つかさど)る職に就き、1302年に「正四位下(しょうしいげ)」「神祇権大副(じんぎごんのだいふく)」に任ぜられました。(参考2)。

長男の卜部兼清は出家し、慈遍と改名、天台宗の高僧となり、次男の卜部兼雄は春日社の宮主を継承し、1311(応長元年)年「正六位上(しょうろくいじょう)」「神祇官宮主(じんぎかんきゅうしゅ)」に任ぜられ、その後、「従五位下(じゅごいげ)」を授与されています(参考2)。

吉田兼好(かねよし)は父卜部兼顕(かねあき)が吉田神社の社務職の頃、三男として1283年(弘安六年)に生まれ、1301年18歳の頃、六位蔵人の官位官職を得て後二条天皇の朝廷に出仕しました。。
(内裏の蔵人を勤めた時期は兼好の見聞記事(45段)から後二条天皇の即位、土御門定実(さだざね)が太政大臣となった1301年(正安3年)頃と推定されています。)(参考3)

兼好は宮廷生活の間、大覚寺で主催の定期歌道会の師範を務め、また、二条為世(ためよ)の門下になり、和歌を学んだり、有職故実(ゆうそくこじつ)の知識を吸収したり、和・漢・仏にわたる広い教養を得たり、恋愛の経験もしたといいます。

吉田兼好出家後の経歴】
1313年までに四位蔵人兼左兵衛佐で朝廷を退職し、出家・東山に籠居した(参考3)、となってますが、別の資料では1311年(28歳)に退職(参考1)したと推定されています。

1313年(30歳)六条三位家から小野庄(京都市山科区山科)の水田一町を購入。
1314年(31歳)修学院に籠居。
1318年金沢(横浜市金沢区)下向。
1320年(38歳)比叡山の近くの横川(よかわ)に籠居。
1322年小野庄を柳殿(尼衆寺)に塔頭用に売寄進。寄進状には自ら「沙弥兼好」と署名。
塔頭(たっちゅう) : 本寺の境内にある小寺。わきでら。
1323年(41歳)横川から下山、京の双ヶ岡(ならびがおか)へ移り住み、歌人になる。
1317~1331年の14年にわたり徒然草を執筆するも注目されず。
1352年 吉田兼好死去(69歳)

徒然草が武士で歌人今川了俊の弟子「正徹(しょうてつ)」によって世に出るのは死去してから79年後の1431年の室町時代でした。

遁世者「兼好」は政治には関心がなく、徒然草の章段には政治にかかわることをまったく言及することはありません。かといって、世間と断絶したわけでなく、修行後、京に移り住み、二条流和歌の宗家や朝廷にも出入し・交流しており、情報は把握していたと思われます。

そのため、上段に示した年表を見ると徒然草の章段のさりげない話のなかに、朝廷の分裂・倒幕運動・鎌倉幕府滅亡そして新たな武家政権誕生と大きな事件と関連した政治的な影響が如実に表れており、吉田兼好の生きた時代は激動の時期だったのです。

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【参考】
1.「徒然草諸注集成」、田辺爵、右文書院
2.「徒然草歴史学五味文彦、朝日選書557、朝日新聞社、1997・5・25
3.「新編 日本古典文学全集 44 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄神田秀夫 永積安明 安良岡康作、
小学館、1995・3・10

 

徒然草は飛鳥時代から鎌倉時代末期までの約700年間の普遍的なテーマを綴っています

徒然草関係年表-1

徒然草関係年表-2

徒然草関係年表-3

徒然草」は、鎌倉時代末期の歌人・随筆家である吉田兼好が著した随筆です。

兼好は若くして朝廷の官職を辞し、隠遁生活を送りながら、自然や風俗、生活、思想など、様々なテーマを240段余りにわたって書き綴ったのが「徒然草」です。

さりげない話の中に鎌倉末期の社会の様相と時代の転換を引き起こした人物の名言や日常のふるまいが表現されていたりしています。

兼好が生きている鎌倉末期について、現在の世は昔の政治を忘れ、贅沢と華美に浸っていると批判し、「何事も古き世のみぞ慕わしき」と古代を賞賛し、特に、901~958年(平安時代)「いにしえの聖の御代」として重要視していたようです。

武士に政権を奪われ、財政が5分1に縮小した朝廷に仕えた兼好は宮廷生活の経験を語り、貴族文化が栄えた平安時代の朝廷の生活を憧れをもっていることがわかります。

醍醐天皇村上天皇は摂政・関白を置かず、天皇親政により律令体制の維持をはかったので、後世、天皇政治の理想とされ、「延喜・天暦の治」と呼ばれました。

徒然草関係年表をみると徒然草の各章段は飛鳥時代から鎌倉時代末期までの約700年間に起きたことがらを綴っていることがわかります。

【参考】
1.「徒然草歴史学五味文彦、朝日選書557、朝日新聞社、1997・5・25
2.「新編 日本古典文学全集 44 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄神田秀夫 永積安明 安良岡康作、
小学館、1995・3・10
3.「徒然草諸注集成」、田辺爵、右文書院

 

2024/10/23から11/6の第十八節気九月中「霜降」が終わると陰暦の季節は冬になります。

陰暦令和六年九月の絵

令和六年九月の暦

本日2024年10月3日は新月で陰暦の九月一日です。

陰暦九月の今月は小の月で2024/10/3~10/31(陰暦九月一日~九月二九日)となり、秋の最後の1ヵ月「晩秋」となります。
第十七節気「寒露」の九月節、2024/10/8~10/22(陰暦九月六日~九月二〇日)
第十八節気「霜降」の九月中、2024/10/23~11/6(陰暦九月二一日~十月六日)

霜降」が終わると2024年11月7日(陰暦十一月七日)から十九節気「立冬」の十月節2024年11月7日~11月21日(陰暦十月七日~十月二一日)となり、陰暦の季節は「冬」(2024年11月22日~2025年2月2日、令和六陰暦十一月~令和七年陰暦一月)を迎えることになります。

【陰暦は日付を表す暦と季節を表すの指標の二本立て】
陰暦の月の運行の1年は354日、太陽の運行の1年は365日なので陰暦の暦の1ヵ月は太陽の運行からズレていき、季節もズレていきます。

そこで陰暦の1年12ヵ月において季節を知る指標として太陽の運行から求めた二十四節気の2節気を1ヵ月とし、前半の節気を「節」、後半の節気は中気または「中」として12ヵ月としました。

その結果、陰暦の1ヵ月は新月から次の新月の前日の「約29.5日(大30日、小29日)」と陰暦の季節の指標の1ヵ月の「節」約15日と「中」約15日の二本立てとなり、正式名として太陰太陽暦と名付けられました。

当然、二本立ての太陰太陽暦は日付を表す「陰暦の大30日または小29日の1ヵ月」と季節を表す「季節の指標の節と中の1ヵ月」はズレることになります。

昼と夜が同じ長さになる日を春分(黄経0度)、秋分(黄経180度)に決め、昼が最も長い日を夏至(黄経90度)、昼が最も長い日を冬至(黄経270度)という四つの節気を含む「四季」は2節気を1ヵ月としたそれぞれ6節気3カ月となります。

陰暦の一月一日は毎年ズレますので陰暦一月一日を含む二十四節気の最初の節気を1年の始まりの季節とし、立春と定めました。
2024年2月10日は陰暦一月一日(新月)で陰暦では令和六年が始まりましたが、令和六年の春は第一節気の一月節「立春」の2024年2月4日から始まりました。

陰暦の秋は第十三節気七月節の2024年8月7日「立秋」から始まり、2024年第十八節気九月中の2024年11月6日「霜降」までの3ヵ月間(西暦では8月~10月)の六つ節気、

すなわち、陰暦七月(西暦8月)~九月(西暦10月)までの3ヵ月間をいいます。

 

後宮の官女組織「後宮十二司」と官女(女官)について

平安中期の後宮十二司

後宮制度について】

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後宮十二司と官女(女官)】

後宮の皇后・中宮・妾御息所(めかけみやすんどころ)に奉仕する女性達は大宝・養老律令により、十二司の官女と命婦、乳母、采女などを含む官女組織として規定されました。

 

律令政治から摂関政治へと変化していく過程で、後宮の官女組織も変化していき、官女もいつしか女官と呼ばれるようになり、官位を持つ女官、無位の女官そのほか種々の雑役する女性達の名称も、役割も変化していきました。

 

後宮十二司】

後宮に仕える女官が所属する所(ところ)。時代の変化により一司が統合、五司が廃止されていきます。

内侍司(ないしのつかさ) ⇨  内侍所(ないしどころ)

②蔵司(くらのつかさ) ③書司(ふみのつかさ)

④薬司(くすりのつかさ) ⑤兵司(つわもののつかさ) ⑥闤司(みかどのつかさ)

⑦殿司(とのものつかさ) ⑧掃司(かにもりのつかさ)

⑨水司(もいとりのつかさ)⑩膳司(かしわでのつかさ)

⑪酒司(みきのつかさ) ⑫縫司(ぬいのつかさ)

 

[内侍司(ないしのつかさ)]     ⇨  (内侍所(ないしどころ))

天皇の日常生活や奏請(天皇に奏上して裁可を請う)や宣伝や礼式を行う役所。

「内侍所」は温明殿(おんめいでん)の中の神璽が鎮座しているところで「賢所(かしこどころ)」のことである。内侍が常に勤めていたので内侍所と呼ばれるようになった。

 

[尚侍(ないしのかみ)] の位階はもと従五位であったが平城天皇が尚侍(ないしのかみ)薬子(くすこ)を寵愛し、従三位にあげ、御寝所に伺候させた。品位がのぼり、大臣の娘が尚侍になるようになり、後に右大臣師輔の娘が尚侍となって村上天皇の寵愛を受けた。また道長の娘嬉子(きし)も尚侍となって東宮の妃となった。

 

[東豎子(あずまわらわ)] 尚侍司に所属。姫松ともいう。行幸のときに馬に乗って御供した。枕草子にも書かれている。

 

②[蔵司(くらのつかさ)]:

神璽(しんじ)・関契(かんけい)・御装束などを保管・貯蔵する役所。

[神璽しんじ)] 古くは皇位のしるしの鏡と剣であったが後に勾玉を加え「三種の神器」となる。

1.八咫鏡(やたのかがみ)、2.天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、3.八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。

 

[尚蔵] くらのかみ。律令では尚蔵(くらのかみ)の位階は、正三位、尚膳(かしわでのかみ)、尚縫(ぬいのかみ)は、正四位であった。これに対し、尚侍(ないしのかみ)は従五位と低かったが、平城天皇の頃から内侍司の権威がしだいに上り、やがて蔵司の地位と同等になり、蔵司の本務を掌る尚蔵(くらのかみ)の任務を尚侍(ないしのかみ)が代行するようになった。

 

宇多天皇時代(887~896)、神璽を保管する賢所が温明殿に移動、尚侍は別格として、内侍司典侍(ないしのすけ)以下の女官が温明殿に移り、守護するようになると賢所は「内侍所」と呼ばれるようになった。

「蔵司(くらのつかさ)」は村上天皇時代(946~966)の頃までに姿を消してしまった。

 

➂[書司(ふみのつかさ)]

尚書、典書および女嬬とともに書物、紙、墨などを掌る。

 

➃[薬司(くすりのつかさ)]

尚薬(くすりのかみ)、典薬(くすりのすけ)および女嬬とともに医薬を供する役で平安時代には典薬寮の所管になった。

 

⑤[兵司(つわもののつかさ)]

尚兵(つわもののかみ)、典兵(つわもののすけ)、女嬬(にょじゅ)などとともに兵庫寮から必要な兵器を出して供することを掌る。

 

⑥[闤司(みかどのつかさ)]

闤(みかど)は御門(みかど)、宮中の門のことをいい、尚闤(みかどのかみ)、典闤(みかどのすけ)、女嬬などともに門の鍵を預かり、出し入れを掌る。

 

⑦[殿司(とのものつかさ)]:

主殿司(とのものつかさ)とも書き、尚殿(とのものかみ)、典殿(とのものすけ)、女嬬(にょじゅ)とともに燈火や薪・炭などを掌る。村上天皇時代(946~966)の頃に男官の主殿寮に置かれるようになる。

 

⑧[掃司(かにもりのつかさ)]

尚掃(かにもりのかみ)、典掃(かにもりのすけ)、女嬬とともに後宮の殿舎の維持・管理や朝夕の格子の上げ下げや清掃を行う。

 

⑨[水司(もいとりのつかさ)]:

尚水(もいとりのかみ)、典水(もいとりのすけ)、女嬬六人とともに漿水(しょうすい、水・飲物)や雑粥を掌る。

 

⑩[膳司(かしわでのつかさ)]:

膳司の役目は内膳司の御厨子所(みずしどころ)で調理された料理を配膳する。

宮内省の被官(下部組織)の大膳職(外廷の食膳)の被官の司として内膳司(内廷の食事)その中に台所の御厨子所がある。

平安時代中期に膳司の役目はすべて御膳宿に移ると尚膳(かしわでのかみ)、典膳(かしわでのすけ)、掾膳(かしわでのじょう)はなくなった。

 

⑪[酒司(みきのつかさ)]:尚酒(みきのかみ)、典酒(みきのすけ)造酒司(みきのつかさ)]とともに御酒を造る役。

 

⑫[縫司(ぬいのつかさ)]:

尚縫は後宮でも地位が高く、権力もあったが、縫殿寮に改組された。

 

【用語】

[官人(かんじん)]:朝廷における官職に就いている者の総称。

[官女(かんにょ)]:宮中や貴人の家に仕える女性の総称。男性の官人と区別するための設けられた。

[女官(にょかん)]:後宮に仕える女性官人の総称で「官女」とほぼ同義。「女官」がより正式な呼称として定着していく。

[上臈(じょうろう)]:御匣(みくしげ)殿、尚侍、二位、三位の典侍で禁色(きんじき、赤または青の装束)を許された大臣の娘あるいは孫娘などをいう。

[中臈(ちゅうろう)]:四、五位の女官など

[下臈(げろう)]:摂関家の家司(けいし:役人)の娘、賀茂、日吉神社の家の娘。

[命婦(みょうぶ)]:大宝律令では五位以上のを持っている婦人を内命婦(ないみょうぶ)、五位以上のを持っている官人の妻を外命婦(げみょうぶ)と呼ぶ。

[女蔵人(にょくろうど)]:下臈の女房のことで、御匣殿の御装束や裁縫など種々の御用を務めた。皇后宮、東宮にも女蔵人がいた。

[女房(にょうぼう)]:御匣(みくしげ)殿、尚侍以下、命婦、女蔵人などの総称。

[采女(うねめ)]:大宝律令以前、郡司および諸氏の容姿端麗な娘を選び、朝廷に出仕させた。天皇の近くにも仕えていた。

[女嬬(にょじゅ)]:大宝律令以後、采女(うねめ)は、女官十二司の下に配し、女嬬(にょじゅ)と改名した。水司(もいとりのつかさ)、膳司(かしわでのつかさ)の無位の官女は采女(うねめ)と呼ばれた。

[得選(とくせん)]:御厨子所(みずしどころ)の女官。采女と区別(特別)してよぶようになった。

[刀自(とじ)]:刀自は老女の名称であったがやがて御厨子所(みずしどころ)や御膳宿(ごぜんやど)などの御用を務める女官を呼ぶようになった。

[わらわ(童女)]:皇后のわらわなど、小間使い(こまづかい)のようなもの。

[雑仕(ぞうし)]:雑役を担う女。

[下仕(しもつかへ)]:これも雑仕(ぞうし)と同様雑役をする女。

[半物(はしたもの)]:または「はした」ともいう。召つかいの中でも身分が高くもなくあまり賤しいものでない、中ほどの女をいったようだ。

[長女(おさめ)]:身分の低いもので、下女の長。

[樋洗(ひすまし)]:便器を洗う下女

[厠人(みかわやうど)]:樋洗(ひすまし)と同じように便器を取り扱う下女。

 

【参考】

1.「官職要解」講談社学術文庫、和田英松、(株)講談社、1983・11・10

2.「知っ得 後宮のすべて」国文学編集部、(株)学燈社、2008・1・10

3.「日本の歴史2 古代国家の成立」直木孝次郎、中央公論社、昭和40年3月15日

4.「日本の歴史3 奈良の都」青木和夫、中央公論社、昭和40年4月15日

5.「日本の歴史4 平安京北山茂夫中央公論社、昭和40年5月15日

6.「日本の歴史5 王朝の貴族」土田直鎮、中央公論社、昭和40年6月15日

 

陰暦二十四節気の「白露」と「秋分」の1ヶ月を「仲秋」といい、この間の満月(2024/9/18)を「中秋の名月」といいます。

陰暦令和六年八月の絵

令和六年八月の暦

8月26日(月)に日本の南にいた台風10号は動き遅く、九州の熊本付近に上陸し、6日間にわたり各地に大雨を降らせ、被害をもたらし、9月1日昼過ぎ、紀伊半島付近で熱帯低圧に変わりました。

 

西暦では9月1日の今日から秋に入ります。

陰暦では今日は陰暦令和6年7月30日ですが、陰暦の季節を知る指標である二十四節気では、まだ「7月中」の第14節気「処暑」(西暦8月22日~9月6日)終わりです。

しかし、立秋から1ヵ月経とうとしており、後5日の西暦9月7日(陰暦8月5日)には陰暦では秋も三分一に達します。

(参考:陰暦の秋は陰暦7月(七月節の立秋、西暦では8月)から陰暦9月(九月中の霜降、西暦では10月)までの3ヶ月です。西暦の秋(現在の感覚の季節)は西暦9月から西暦11月までの3ヶ月です。)

 

草花に朝露が宿り、秋が感じられるようになる「8月節」の第15節気「白露」(西暦9月7日~9月21日)に入るのは西暦9月7日からになります。

 

白露(8月節、西暦9月7日~9月21日)の初日(西暦9月7日)から秋分(8月中、西暦9月22日~10月7日)の最終日(西暦10月7日)までの1ヵ月間を「仲秋」といい、この間の満月(西暦9月18日、陰暦8月16日)を「中秋の名月」といいます。

国立天文台暦計算室のHPによると、仲秋(8月節白露と8月中秋分)は陰暦8月を指す言葉であり、中秋は陰暦の秋(七,八,九月)全体の真ん中を指します。したがって、初秋、仲秋、晩秋を含めた秋全体の真ん中の満月ということで「中秋の名月」が正しいそうです。)

 

秋分の日の西暦9月22日(陰暦8月20日)は昼と夜の長さが同じになる秋分の日です。この日を境に昼の長さが最も短くなる冬至の日(西暦12月21日)まで日毎に昼の長さ短くなっていきます。

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