陰暦令和六年六月(水無月)小(西暦2024年7月)の太陰太陽暦カレンダー

陰暦六月の絵

陰暦令和六年六月(水無月)は西暦2024年7月6日(陰暦六月一日)から始まり、西暦8月3日(陰暦六月二十九日)まで29日間の小の月になります。
そして、二十四節気第11節気「小暑」の六月節と第12節気「大暑」の六月中にかけ夏本番を迎えます。

陰暦六月(西暦7月)はじりじりと照り付ける酷暑が続き、水が枯れ果てることことから水無月(みなづき)といいます。

暑中見舞いは小暑が始まる陰暦六月一日(西暦7月6日)から大暑の終わる陰暦七月三日(西暦8月6日)の立秋の前日までとされています。

六月節(16日間)
二十四節気
第十一節気「小暑」(陰暦六月一日~六月十六日、西暦7月6日~7月21日、16日間)

七十二候
第三十一候「温風(あつかぜ)至る」(陰暦六月一日~六月六日、西暦7月6日~7月11日、6日間)
第三十二候「蓮(はす)はじめて咲く」(陰暦六月七日~六月十一日、西暦7月12日~7月16日、5日間)
第三十三候「鷹技を習う」(陰暦六月十二日~六月十六日、西暦7月17日~7月21日、5日間)

六月中(16日間)
二十四節気
第十二節気「大暑」(陰暦六月十七日~七月三日、西暦7月22日~8月6日、16日間)

七十二候
第三十四候「桐はじめて花を結ぶ」(陰暦六月十七日~六月二十一日、西暦7月22日~7月26日、5日間)
第三十五候「土潤って蒸し暑し」(陰暦六月二十二日~六月二十七日、西暦7月27日~8月1日、6日間)
第三十六候「大雨時々降る」(陰暦六月二十八日~七月三日、西暦8月2日~8月6日、5日間)

 

律令上の貴族と一般貴族の貴族内および貴族と庶民の間の俸給・昇進の大いなる格差

位階俸禄表

平安貴族の年俸表

公卿の俸禄表

国政の最高機関の組織

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平安時代の貴族の収入】
中世ヨーロッパ貴族は自分の領地から年貢を取り立て生計を立てていたのに対し、平安貴族は自身が所有している荘園からの年貢は少なく、朝廷から支給される高額な俸禄(俸給)によって生計を立てていました。
従って、中世ヨーロッパ貴族が個人事業者とすれば、平安貴族は律令制に基づいて天皇が任命したサラリーマン(官人、官僚)ということになります。
(*律令上の貴族は従五位下以上、正六位上以下の官人は一般貴族と庶民からなる)

【蔭位制(おんいせい)について】
飛鳥時代の終わり頃、藤原不比等は大宝・養老律令編纂にあたり、貴族階級の血統と権威を維持し、政治支配の基盤を維持するため、制定したのが蔭位制でした。
それは貴族の子や孫が仕官する場合は親の官位に応じて最初から官位が与えられるというものである。
貴族は俸禄など特別優遇を受けるようになっている。
官位が一位の嫡子が仕官する場合は最初から従五位下、嫡孫の場合は正六位上が与えられる。
官位が二位、三位の子は六位、孫は七位が与えられる。
官位が四位、五位の子は七位、孫は八位が与えられる。
律令上の貴族から外れ、蔭位を受けない六位以下の一般貴族は大学課程を終了後、庶民と同様に官人登用試験を受け合格すれば初位(最高成績で八位)が与えられる。

律令上の貴族と一般貴族の貴族内および貴族と庶民の間の俸給・昇進の格差】
平安時代中期、律令上の貴族の従五位下と一般貴族の正六位上の境は1位階ですが、年俸(俸禄)には桁違いの10倍以上の差がありました。
摂関家の子息は最初から従五位下与えられ、親が五位以上子息には八位以上の位階があたえられます。

正六位上から従五位下への昇進の壁は大きく、よほどの業績や縁故がない限り、昇進は困難でした。
当時としては老人扱いされた40歳頃にようやく、昇進するのが多かったといいます。
紫式部の父藤原為時正六位上から従五位下に昇進したのは40歳以降、清少納言の父清原元輔従五位下になったのは60歳過ぎてからと言われています。

一般貴族の六位以下の子息は蔭位を受けられず、庶民と同様に、官人登用試験を受け合格しなければ官位を得られませんが、貴族の官人の子の場合、試験を受けなくても、世襲が許され、父の下で一定の実務経験を積むことにより、それなりの官位が与えられ、官人になることができました。
また、一般貴族は無位でも官人の下で官司(官庁)の職を得ることは可能でした。庶民から見れば、一般貴族でさえ優遇されていたことがうかがえます。
能力と功績次第で昇進できますが官人になっても「正六位上」に昇進するまで初位、八位、七位、六位とそれぞれ中分類で4位階さらに小分類にすると計16位階になり、昇進は至難の業でした。

政権を失い、財政が縮小した鎌倉時代の朝廷においても蔭位制は続けられました。
吉田兼好は1301年18歳で六位蔵人として朝廷に出仕、24歳で従五位上左兵衛佐まで昇進しています。

(父 卜部兼顕(うらべかねあき)は1302年に神祇官の次官(すけ)である神祇 権大副(ごんのだいふく)(正四位下)を受けている)       (参考)「徒然草歴史学五味文彦

官位相当表では神祇官の次官(すけ)の大副(たいふ)は従五位下となっている。

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【まとめ】
平安時代貴族(律令上の貴族)は、朝廷からの高額な俸禄を基盤としたサラリーマン的な側面と荘園からの年貢収入による個人事業主的側面も併せ持っていた。
2蔭位制は、貴族階級の血統と権威を維持し、政治支配の基盤を維持するために制定された。
3蔭位制による俸禄体系と昇進制度は貴族内、貴族と庶民の間で大きな格差を生み出した。

 

陰暦令和六年五月(皐月)大(西暦2024年6月)の太陰太陽暦カレンダー

陰暦五月の絵

陰暦令和六年五月の暦

西暦2024年6月5日(陰暦4月29日)から始まり、6月20日(陰暦5月15日)までの二十四節気第九節気「芒種」は五月節にあたります。

そして西暦2024年6月21日(陰暦5月16日)から始まり、7月5日(陰暦5月30日)までの二十四節気第十節気「夏至」は五月中にあたります。

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五月節:第二十四節気第九節気「芒種」(陰暦4月29日~5月15日、西暦6月5日~6月20日
七十二候第二十五候「かまきり生ず」(陰暦4月29日~5月4日、西暦6月5日~6月9日)
第二十六候「腐れたる草蛍となる」(陰暦5月5日~5月10日、西暦6月10日~6月15日)
第二十七候「梅の実黄ばむ」(陰暦5月11日~5月15日、西暦6月16日~6月20日

芒種の第26候の頃(陰暦5月5日、西暦6月10日)から小暑の第31候の終わり頃(陰暦6月6日、西暦7月11日)の約30日間は梅雨の時期となります。

 

「腐れたる草蛍となる」は雨で蒸された草の中から、蛍が飛び交い、淡い光が放ち始める時期という意味である。

 

五月中:二十四節気第十節気「夏至」(陰暦5月16日~5月30日、西暦6月21日~7月5日)
七十二候第二十八候「乃東枯る」(陰暦5月16日~5月20日、西暦6月21日~6月25日)
第二十九候「菖蒲(あやめ)咲く」(陰暦5月21日~5月25日、西暦6月26日~6月30日)
第三十候「半夏(はんげ)生ず」(陰暦5月26日~5月30日、西暦7月1日~7月5日)

 

乃東は「だいとう、または、なつかれくさ」と読み、漢方では利尿薬として使われる夏枯草(かこそう)、一般には靫草(うつぼぐさ)と呼ばれる。シソ科の多年草で日当たりの良い山野に自生する。

 

半夏(はんげ)はサトイモ科のカラスビシャクのことで、半夏の塊茎を乾燥したものが漢方薬として、吐き気、嘔吐、咳嗽(せき)、不眠などに用いらる。
江戸時代に中国流から日本流に改正されて以来、夏至の第28候「乃東枯る(なつかれくさかるる)」陰暦5月16日から5月20日(6月21日~6月25日)頃までに田植えを終えるめやすとされていました。

 

陰暦の5月は新月を迎える陰暦5月1日(西暦6月6日)から始まり、次の新月の前日の陰暦5月30日(西暦7月5日)で終わる大の月になります。

 

天皇の座を奪う野望を抱かず陰で支える藤原不比等の戦略はその後400年続く藤原氏繁栄の礎となる。

二官八省五衛府

645年大化改新乙巳の変
専横きわめる蘇我入鹿(そがのいるか)から政権奪回のため中大兄皇子
藤原氏の祖 中臣鎌足蘇我入鹿と父蝦夷(えみし)の暗殺を
実行、孝徳天皇を擁立し大化の改新を為す。

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672年壬申の乱
 大友皇子中大兄皇子(38代天智天皇)の子
 大海人皇子中大兄皇子(38代天智天皇)の弟
 天智天皇の子と弟の天皇の座を巡る争い
 大友皇子(39弘文天皇 諡)壬申の乱で敗北し自殺
 大海人皇子673年40代天武天皇み即位
 藤原不比等の父(中臣鎌足)が大友皇子方だったため不遇


40天武天皇(在位673年~687年)―鸕野讚良(うののさらら)皇后
 ↓687年天武天皇崩御のため鸕野讚良皇后が
 ↓690年41持統天皇に即位
 ↓藤原不比等持統天皇に重用され律令の実質的編纂の中心者になる。
 ↓660年百済は唐に滅ぼさた。663年倭・百済連合軍が百済復興のための合戦
  白村江(はくすきのえ)の役で唐・新羅連合軍に大敗した。
  それ以後、唐に見下され、侵略の危機が高まり「律令国家を造り、国の
  安定を図る」ことが最大の課題になっていた。
 ↓(律は刑罰について定めた法令)
 ↓(令は政治の仕組みを定めた憲法行政法民法などの法令)
 ↓藤原不比等律令国家構築計画
  1.法典の整備と編纂
  2.新首都の構想・建設
  3.国史の整備と編纂


草壁皇子(689年薨去)―妃 阿閇皇女(あへのひめみこ)
  (707年43元明天皇
  阿閇皇女は天智天皇第四皇女子
 ↓不比等 唐の律令制度をモデルに律令の編纂開始
 ↓701年大宝律令成立 日本独自の法典
 ↓日本に律令の存在を報告する使者を唐に送った。
  使者のふるまいが礼にかなっており、唐の人は日本は

     君子の国だと言ったそうです。
   ↓694年藤原京に遷都


42文武天皇(在位697年~707年)―藤原宮子(みやこ 不比等の娘)
   ↓皇居:藤原宮、不比等 天皇外戚となる
   ↓文武天皇の子の首(おびと)皇子
   ↓不比等、子・孫へ継承 中継ぎ天皇を認可する令制定
   ↓首(おびと)皇子が成長するまで母阿閇皇女が中継ぎとして
   ↓707年43元明天皇に即位
   ↓(宮子の妹 光明子を首(おびと)皇子、後の聖武天皇の妻へ)

43元明天皇(在位707年~715年阿閇皇女(あへのひめみこ))
   ↓710年唐の長安をモデルとして建設した平城京に遷都
   ↓715年元明天皇崩御

44元正天皇(715年~724在位)草壁皇子の長女氷高(ひだか)
   ↓元明天皇崩御したため、父草壁皇子元明天皇文武天皇
     姉氷高(ひだか)が首(おびと)皇子の中継ぎ天皇として
      715年44元正天皇に即位。
   ↓養老元年(718年)藤原不比等養老律令」の編纂成立
   ↓養老4年(720年)国史日本書紀舎人親王 完成
   ↓724年元正天皇崩御、首(おびと)皇子→45聖武天皇

45聖武天皇724年即位(在位:724~749年)―光明子(宮子の妹)
   

   日本型の法典「大宝・養老律令」、新しい都「平城京」、国史日本書紀

    が完成し、724年盛大な聖武天皇即位式が滞りなく行われ、ここに律令

    国家として国の原型が造られました。
    しかし、藤原不比等は日本独自の律令国家の成立を国の内外に発信する聖武

    天皇即位式を見ることなく、既に720年62歳でこの世を去っていました。
   

    藤原不比等はこの律令国家造りに精力を注ぎながら、一方で2人の娘を文武

    天皇聖武天皇の皇后とし、絶大な権力を手に入れます。


    天皇の座を奪う野望を抱くことなく天皇を支える陰に周り実権を握るこの戦略

    が、その後400年続く藤原氏繁栄の礎となったのです。

 

【参考】
1.「人物で読む 平城京の歴史」 河合敦 (株)講談社 2010.2.4
2.「古代史を知る事典」 武光誠 東京堂出版 1996.6.15
3.「日本歴史大系 3」 井上 光貞/[ほか]編 山川出版社 1995.11
4.「平安大事典」 倉田実/編 朝日新聞出版 2015.4

 

蔭位制(おんいせい)を組み込んだ日本独自の官位相当制について

官位相当表 1/2

官位相当表 2/2

飛鳥時代の終わり頃、藤原不比等を中心とするグループが律令編纂にあたり、考慮したのが貴族階級の血統と権威を維持し、政治支配の基盤を維持することでした。貴族の地位の維持について規定したのが蔭位制でした。
*蔭位制:五位以上の親や祖父の官位により、子や孫が自動的に位階を与える制度
この蔭位制を唐の官位制に組み込んで策定したのが日本独自の「官位相当制」でした。

平安時代中期の官位相当制について上軸(X軸)の位階(官位)に対し、右軸(Y軸)の官司(官庁)と対応する官職を配置した表「官位相当表」を掲載しました。
*官司(官庁):官、省、職(しき)、寮、司、監(げん)、署(しゅ)、府

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【参考】
1.「平安貴族の仕事と昇進」 井上幸治 (株)吉川弘文館 2023.6.20
2.「紫式部藤原道長 歴史街道」 村田共哉/編 PHP研究所 2024.2月号
3.「官職要解 講談社学術文庫」 和田英松 講談社 1983.11
4.「平安大事典」 倉田実/編 朝日新聞出版 2015.4
5.「日本歴史大系 3」 井上 光貞/[ほか]編 山川出版社 1995.11
6.「官位相当制」 Wikipedia

 

平安時代中期の官位相当表について

官位相当表 1/4

官位相当表 2/4

官位相当表 3/4

官位相当表 4/4

【大宝・養老律令について】
藤原不比等律令国家と平城京建設の青写真を作り、701年大宝律令成立、710 年平城京完成、718年養老律令を成立させ、律令国家としての原型を構築しましたが孫の首(おびと)皇子の聖武天皇誕生と新しい政治の中心平城京を内外にアッピールした724 年の聖武天皇即位式を見ることなく、4年前の720年62歳で亡くなっていました。

律令とは『刑罰について定めた法令「律」』および『政治の仕組みを定めた憲法行政法民法などの法令「令」』のことで国家の根幹を成す法典である。

【官位相当制について】
701年、718年の律令成立は日本も強大な国家「唐」と同じ律令国家であり、君子の国家でもあることを認めさせたのでした。

律令に基づく官位令に従った新しい官位官職制度(官位制)は、まず官人(官僚)を位階によって序列化し、そしてその位階に応じて官職が与えるというものでした。
しかし、日本には律令成立以前から体系的でないものの、氏族的な序列が既に存在していましたので既に政権を握っていた氏族の既得権を勘案した官位制に改訂することにしました。

こうして、唐の官位制とは異なり、五位以上の親や祖父の官位によって子や孫が自動的に位階を与えるという「蔭位(おんい)制」を組み込んだ日本独自の「官位相当制」を作り上げました。

律令成立から約150年後の平安時代中期の官位相当制を具体的に解説した官位相当表(*2)を上部に掲載しました。

また、位階を横軸、官司(官庁)を縦軸にして、代表的な官位・官職を記した官位相当表を下部に掲載します。

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【参考】
1.「官職要解 講談社学術文庫」 和田英松 講談社 1983.11
2.「官位相当表 平安大事典」 倉田実/編 朝日新聞出版 2015.4
3.「官位相当制」 Wikipedia

 

 

二官八省制における四部官制について

四部官

二官八省制において官位・官職を任ずる儀式を除目といいます。
1.転任:右大臣から左大臣にのぼる、少領から大領にうつるなど、順序によって進む。
2.遷任:諸司の官から諸寮の官にうつる、文官から武官にかわる、地方官(外官)から京官になるなど。
3.推任:希望していないのに上より推され任ずる
4.兼任:一人で二つの官をもつ。
5.再任:一度辞職したのち、再びもとの役に任ずる。
6.停任:父母の喪(も)に遭ったとき、服解(ふくげ、一時、官を解かれる)といって、除服になること。
7.復任:除服から原職に復すること。
8.解官:罪を犯したり、そのほかの事情で官職をやめること。
9.致仕:老年になり、官を辞して退くこと。

*郡司(ぐんじ):郡を三等にわけ40里を大郡、4里~30里を中郡、3里以下を少郡とし、それらを管轄管理する郡司の職を大領、中領、少領とした。

*国:国庫収納の多少により大国、上国、中国、下国の四等わけた。

*大国(たいこく):大和、河内、伊勢、武蔵、上総、下総、常陸、近江、上野、陸奥越前、播磨、肥後の計13か国。

*上国(じょうこく):山城、摂津、尾張三河遠江駿河、甲斐、相模、美濃、信濃、下野、出羽、加賀、越中、越後、丹波、但馬、因幡伯耆、出雲、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、紀伊、阿波、讃岐、伊予、筑前、築後、肥前豊前、豊後の計35か国。

*中国(ちゅうこく):安房、若狭、能登佐渡、岩見、長門、土佐、日向、大隅、薩摩の計11か国。

*下国(げこく):和泉、伊賀、志摩、伊豆、飛騨、壱岐淡路壱岐対馬の計10か国。

紫式部の父藤原為時は下国「淡路守」に任命されたが、事情(式部の知略?)により、大国「越前守」に転任した。

国司:国は現在の県に相当し、京都の役人は内官、国司を外官(地方官)と呼び、国司の政務場所を国府と呼ぶ。国司は国の政務を行う役人を四等にわけた四部官の総称をいうが、単に国司という場合、現在の県知事相当で最上位の守(かみ)を言う場合が多い。
*受領(ずりょう):最上位の国司(国守くにのかみ)を受領ともいう。受領とは「うけおさむる」とい意味で、前任より引継ぎ、うけおさめ、政務をとることをいう。

国司(本来の意味は四部官の総称をいう)
律令四部官:長官(かみ)、次官(すけ)、掾(じょう)、主典(さかん)
国司四部官: 守(かみ)、 介(すけ)、掾(じょう)、 目(さかん)

*守:諸国の行政、司法、警察以下すべての諸般を掌(つかさど)る。上総、常陸、上野の三国は親王の任国として、その長官を太守と呼んだ。親王は皇族のため赴任することなく名誉職として俸禄だけ支給した。

*権守(ごんのかみ):守の補佐で守が在京のとき、国府で事務を行なう場合と赴任しない場合もある。

*介(すけ):守と同じ職、守がいないとき諸般いっさいを行う。例:伊予介、常陸介。

*掾(じょう):大掾少掾がある、国内の課題の審査・文案の判断・裁判などを行う。

*目(さかん):事を受けての課題の解決・文の作成・公文(公文書)の読み申渡しなど行う。下の史生が書紀や雑務を行う。さらに医師、陰陽師、書生(しょしょう)がいる。

目代(もくだい):国司の目(さかん)とは関係なく、守が赴任先地元の文筆に長けた有能な者を私的に置き、書紀や書類の管理補助をさせた。そして、その職は世襲することが多くあったといいます。

*私の会社現役時代、私がいた情報システム室の同僚に高知県(中国・土佐)出身の目代(もくだい)という姓の後輩いました。彼の先祖は役人の代りを務めていたからということを思い出しました。

四部官制】    
どの役所においても役人を四等に分けて、長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)にわりあてました。
1.長官(かみ):役所のすべてを掌(つかさど)る。
2.次官(すけ):長官を補佐する。
3.判官(じょう):仕事の管理監督・書類の審査
4.主典(さかん):仕事を受け書類の登録、書類の案文作成、公文(公文書)を読む。官、省、職(しき)、寮など役所によって、文字が違っても、長官は「かみ」、次官は「すけ」、判官は「じょう」、主典は「さかん」と読みます。

【参考】
1.「官職要解 講談社学術文庫」 和田英松 講談社 1983.11
2.「平安大事典」 倉田実/編 朝日新聞出版 2015.4