1967年当時化学物質の分析はハサミとビュレットでデータ整理は手回し計算機とそろばんでした。2026年の今、半導体やコンピュータが世界を変えている。

1.半導体の分類

2.半導体の役割

3.半導体メモリの分類

59年前の1967(S42)年、私は研究テーマ遂行のための実験の一環として海水に微量に含むマグネシウムの濃度を測定していました。

現在は、進歩した分析技術とコンピュータを内臓した分析機器により数秒で定量分析ができますが、当時の微量マグネシウムの分析は濃度分析器の波長の面積を「ハサミ」で切り取り、天秤で重さを図る方法や指示薬を入れたキレート滴定法(EDTA法)を使いました。

しかし、いずれも手作業で数時間かかり、また、データ整理も手回し計算機とそろばんを使うなど苦労した記憶があります。

(学会発表用のデータ図表などは写真撮影・現像して映写用のスライドを作成し、学内発表用は大判用紙にマジックインキなどで手書き作成していました。) 

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そんな1967年のある日、日本のビジコン社の営業担当が研究室を訪れ、教授・助教授・学生の前で電子卓上計算機のデモストレーション始めました。四則計算や関数計算を一瞬で行う電子卓上計算機(電卓)を目の当たりに見た我々一同は、びっくりしたことを思い出しました。

値段ははっきり覚えていませんが、当時の初任給が1~2万円の時、100万~300万円したと思っています。高価だったので研究室の予算では到底買えるはずもなく、デモで終わりました。 

当時は出来事しか頭になく、後になって知ることになりましたが、1960年から1965年にかけて半導体「トランジスタ」の数十倍から数千倍に対応する半導体「IC(集積回路)」が世に出ると、年を追うごと倍々ゲームで集積化が進みます。

1965年世界で初めてIC使用の汎用コンピュータとして小・中・大型まで商品化されたのがIBM360シリーズでした。そして、1967年、デモでみたビジコンの電卓はICを使用したものでした。

*世界で最初にトランジスタ電卓(1964年)を商品化したのも、IC電卓(1966年)を世界で最初に商品化したのも早川(シャープ)株式会社でした。
しかし、その後、コンピュータの頭脳になるCPU(Central Processing Umit 中央演算装置)は日本のビジコン社がインテルに持ち込んだことが誕生のきっかけとなりました。
「CPUは現在MPU(Micro Processing Umit)ともいう」
1969年、プログラム制御の電卓用のICを日本のビジコンの嶋正利氏がインテルに提案し、製造を依頼しました。
インテルの技術者テッド・ホフはこの提案を演算・制御・記憶機能を結び付けた2cm角のチップに治めたIC(集積回路)、すなわち、コンュータの頭脳であるCPU「インテル4004」を開発したのです。
この話は1991年にNHKスペシャル「電子立国日本の自叙伝」の5回目の電卓戦争に放映され、私が見たことを思い出しました。(録画したビデオテープからコピーしたDVDを見ようとしたら破損しており、現在は見れない状態です。)

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1968年に富士通がIC使用のFACOM230シリーズが商品化され、1971年出光興産徳山製油所に中型汎用FACOM230-35、出光石油化学徳山工場に小型汎用のFACOM230-25が設置されました。

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私は1969年出光興産に入り、出光石油化学徳山工場エチレン装置で3年勤務した後、1972年工場管理室研究係技術計算担当となり、物性推算や流動・伝熱・蒸留・反応などのデータ解析などでFACOM230-25を使用しました。

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1972年頃の半導体と言えば、IC半導体(デジタル半導体)とその他個別半導体程度の分類で事足りたと思われます。しかし、その後、デジタル半導体の技術進歩とともにその他半導体も含め、種類も利用範囲も産業だけでなく、研究開発・軍事・教育・社会生活など多種多様な分野に拡大し、市場規模が巨大になりました。さらに、2023年頃からAI(人工知能)ツール「ChatGPT」が無料利用化され、瞬く間に世界中に広がりました。 

今後、AIの利用拡大が見込まれ、半導体の生産・販売力の強さが国の経済を左右するかつての石油と同様の戦略物資になりました。そして、現在、世界の主要な国々は半導体市場シェア獲得を目指して熾烈な競争を始めています。 

私は長年コンピュータに携わったといえ、利用分野のほんの一部を携わっただけでした。そして、定年後の2005年以降、インターネットやスマートフォンやAIなどの新技術とそれの利用技術が次々現れ、進歩が加速しており、概要すら理解できなくなってきました。

そんなこともあり、まずは概要を理解するための一歩として、種類や多様化した半導体についてまとめてみました。

 

歌川広重画の「傘に鶏に朝顔」と日の出の時間帯の呼称について

鶏に朝顔

日の出・日の入の時間帯の呼称

方向と時刻の図

朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生まるるならひ、朝顔の露に異ならず。

露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。

知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る。

 

方丈記の序章を読んでいた時、上記のくだりから、歌川(安藤)広重の作品「傘に鶏に朝顔」を思い出し、模倣絵「鶏に朝顔」を描いてみました。

 

そして、方丈記の序章の中に「朝(あした)」という時刻、広重画に添えられた万葉仮名の和歌に「暁(あかつき)」という時刻があります。

 

鳴(なけ)波(ば)古(こ)楚(そ)   別(わかれ)於(を)尾(お)志(し)女(め)

鶏(とり)野(の)音(ね)廼(の)   喜(き)挙(こ)江(え)奴(ぬ)里(さと)之(の) 

暁(あかつき)茂(も)加(か)奈(な)

 

また、方丈記の安元の大火の章で、「戌(いぬ)の時(とき)ばかり、都の東南(たつみ、巽)より火出で来て、西北(いぬゐ、乾)に至る」と火事が起こった時刻と方向を表現しています。

一方、平家物語の巻第七の北国下向の章で平家が木曽義仲追討のため「平家軍勢十万余騎、寿永二年四月十七日「辰の一点」に、都を立って北国へ‐‐‐‐」と平家軍の出発時刻を表現しています。

 

そこで、暁(あかつき)、朝(あした)、戌の時(とき)などの「時刻」と東南(たつみ)、西北(いぬゐ)などの「方向」について概略調べてみました。

 

【方丈記が成立した鎌倉時代およびそれ以前の時刻】

一日(二四時間)を十二時(一つの時は現在の二時間に相当)に分け、十二支に対応させた時刻表現「定時法」を採用し、朝廷が管理しました。(また、方向を表す場合も十二支を使いました)

・子(ね)の時 : 深夜二三時〜翌一時頃、卯(う)の時 : 朝五時〜七時頃、

・午(うま)の時 : 昼一一時〜一三時頃(中央の十二時が「正午」の語源です)

・酉(とり)の時 : 夕方一七時〜一九時頃

・さらに細かい単位 : 「刻(こく)」

一つの「時(現在の二時間に相当)」をさらに細かく表現する場合、「刻(現在の三十分に相当)」を用いました。

当時は、一つの「時」を四等分し、「子一つ(ねひとつ)、子の一点、現在の二三時三十分」、「子二つ(子の二点)、現在の午前一時」、「子三つ、子の三点、現在の午前一時三十分」と呼びました。

 

【室町時代後半から江戸時代の時刻】

室町時代後半から戦国時代にかけて、徐々に日の出・日の入りを基準とする「不定時法(六等分時刻法)」へと社会全体がシフトしていきました。

 

室町時代後半から戦国時代にかけて、生活の実態(日の出・日の入り)に合わせた「不定時法」に移行し、時刻を「鐘の数」で表現する習慣(九つから始まって四つまで減る数え方)も加わり、「不定時法(六等分時刻法)」が定着していきました。

 

江戸時代の浮世草子や歌舞伎でも「明け六つ」「暮れ六つ」といった表現がさかんに使われるようになりました。広重が「傘に鶏に朝顔」を作った46歳の時は江戸時代末期の1842年で明治維新の28年前でした。

 

「傘に鶏に朝顔」から31年後の明治6年(1873)に飛鳥から江戸時代まで使われた太陰太陽暦から太陽暦の採用とともに日付、時刻も制度が高くなり、定時法に変わります。

 

しかし、江戸時代以前の庶民の生活にとっては、時計が刻む時間よりも「日が昇ったら働き、日が沈んだら寝る」という自然のサイクルの方が圧倒的に実用的でした。

 

方丈記の作者「鴨長明」の人生

鴨長明の庵

鴨長明の略歴

 鴨長明自身に関する記録は少なく、詳細な生きざまを語ることは難しいようです。

 それでも、『方丈記』、自家和歌集『無名抄』、青年期から老年期に千載和歌集や新古今和歌集に入選した和歌、下鴨神社関係、和歌・琵琶の師そして有名な和歌の先輩・同僚の資料などに断片的に見られる記録から学者・専門家の方々は自分の説を入れた鴨長明史(生涯)を発表しています。

 下記参考書から鴨長明の人生の概略をまとめてみました。

 

【幼少期】

鴨長明の父「長継(ながつぐ)」は、二十歳(はたち)にも満たない若さで、京都・下鴨神社の惣官(長官)である正禰宜(しょうねぎ)に就いていたといいます。

鴨長明は1155(久寿二)年、長継の次男として生まれたおり、父が17歳の時の子といわれています。

長明の祖父(鴨季継)が亡くなり、その妻(長明の父・長継の母、長明にとっての父方祖母)が家屋敷を相続・管理しており、長明がそこを引き継ぐ手はずになって住んでいました。

そして、この家で和歌や琵琶を学びながら平穏な少年期を過ごしました。

 

【青年期】

1173(承安三)年、長明が19歳の時、父が38歳で亡くなります。

 長明はそれ以前に結婚をしていたといわれていますが、父の死に大きなショックを受け、お坊ちゃま育ちの長明はどうしてよいかわからず、精神的に不安定になり自殺も考えたといいます。

 それが妻子との関係にも重大な亀裂を生じさせ、結果として一人身となったのではないかと推察されています。

 『方丈記』には、「父方の祖母の家に、久しい間住んでいたが、その後、縁は切れ、身は落ちぶれて、思い出が多く残る場所であったが、留まることができなくなった。

 30歳あまりにして、ようやく一軒の家を建てることにした」という趣旨のことが記されています。

 1184(元暦元)年、30歳で祖母の家を出て、下鴨神社に近い鴨川の河原に家を建てて転居しました。さらに、3年後の1187(文治三)年には、六条河原に家を建てて移り住んでいます。

 長明が生まれてから世の中は「保元・平治の乱」が起こり、動乱の時代に入っていました。

 父が亡くなった1173年(19歳)から、祖母の家を出て鴨川の河原に移り住み、さらに六条河原へと移るまでの約10数年の間に、長明は京都を襲った五つの大災害を体験しました。

1177(安元三)年         23歳[安元の大火]

1180(治承四)年         26歳[治承の辻風]

1180(治承四)年      26歳[平清盛による福原遷都6月と京都還都11月]

1181(養和元)年         27歳[養和の飢饉](1181年末~翌年)

1185(文治元)年         31歳[元暦の大地震]

 長明が58歳になってから、この若き日に体験した五大災厄の記憶を克明に綴ったのが『方丈記』なのです。

 

【心のささえとなった和歌と琵琶と筆】

 長明は父・長継の死後、極度に落ち込み、一時は世をはかなんだこともあったといいます。しかし、幼少期から神職の道よりも没頭していた和歌や琵琶、あるいは文筆の才  能が彼の心の支えとなり、長明を立ち直らせました。

 音楽では、琵琶の師である中原有安から「管弦の道において跡を継ぐべき者」として注目されていました。

 和歌の道でも才能を発揮し、20代後半には家集『鴨長明集』の元となる詠草をまとめ、33歳の時には『千載和歌集』に一首が選ばれました。

 その頃、祖母の家の十分の一ほどの大きさではありますが、六条河原に棲み処(すみか)を構えました。そして、俊恵(しゅんえ)法師の和歌の会所である京都白川の僧坊「歌林苑(かりんえん)」の例会に出席し、日夜研究に努めました。

 このように、従五位下(じゅごいのげ)の位を持つ「鴨県主(かものあがたぬし)」としての長明の生計は、一応の保証がされていたようです。

 しかし、37歳頃から45歳までの約9年間、吉野や熊野に籠もっていたのか、あるいは東国に旅していたのか、確かな資料はなく、長明の消息は不明となっています。

 再び歴史の表舞台に現れるのは1200(正治二)年のことです。後鳥羽院の当座歌会に出席するようになり、その才能が後鳥羽院に知れ渡りました(当時の歌が三首現存しています)。

 翌年7月、宮中に新設された「和歌所」の寄人(よりうど=職員)に、8月になってから追加で抜擢されました。

 11月には和歌所の藤原俊成、定家、慈円、藤原良経など名だたる歌人たちに『新古今和歌集』編纂の命が下ります。

 長明は、こうした雲の上の存在である大歌人たちに交じって仕事ができることを深く喜び、熱心に働いたといわれています。

 

 後鳥羽院は長明を大いに気に入り、彼の貧しい暮らしを不憫に思って、下鴨神社の摂社である「河合(かわい)の社(やしろ)」の禰宜に欠員が出た際、長明をそこに充てようとしました。

 それを聞いた長明は、上皇の厚意に痛く感激しました。

 しかし、当時の惣官であった鴨祐兼(すけかね)は、わが子である祐頼(すけより)をその職に就けようとしていたため、上皇の案に猛反対しました。

 「祐頼は従五位上で、まだ20代ですが日夜精勤して社に奉公しております。それに対し、長明は従五位下で、40代後半の今に至るまで社への奉公を怠っております」と祐兼は上皇に訴え、案の撤回を求めました。

 若い上皇も下鴨神社全体の秩序を乱すことを避け、代わりに別の氏社(うじやしろ)を官社に格上げして長明の生活を保障しようとしました。

 ところが、この名誉ある配慮を長明は辞退してしまいます。そればかりか、和歌所にも出仕しなくなり、居場所すら誰にも知らせず、姿を消してしまいました。

 

【出家と終の栖「方丈庵」】

 父が逝ってから三十年あまり、世間の生きにくさに悩み抜いた鴨長明は、1204(元久元)年、50歳の春に出家しました。そして、三千院や寂光院のある洛北の大原に隠棲します。

 しかし、当時の大原は動乱の影響を受けて俗化しており、静かな修行の地としては満足のいくものではありませんでした。

 また、後鳥羽院の恩愛が結果として仇となり、下鴨神社との関係も気まずく、生活も困窮しました。

 そんな時、法然上人の弟子である如蓮房禅寂(にょれんぼうぜんじゃく)、俗名・日野長親(ひの ながちか)に出会います。

 長親は、京都の南東にある日野に法界寺(ほうかいじ)を建てた一族の出身でした。長明はその誘いに応じて日野を訪れたところ、その地をたいそう気に入り、1208(承元二)年、54歳にしてようやく安住の地を見出すことができたのです。

 「どんな豪邸を建てようとも、壊れるときは壊れるし、燃えるときは燃えてしまう」そう達観した長明は、かつて住んだ祖母の家の千分の一ほどしかない「方丈(約3メートル四方)」の移動式の庵(いおり)を建て、そこを終の棲み処としました。

 1212(建暦二)年、58歳の時、長明が19歳から31歳までの間に体験した五大災厄や無常観、そして人生の生き方など、ようやくたどり着いた終の棲家「方丈の庵」で綴った『方丈記』を完成させました。

 そしてその4年後、1216(建保四)年(*閏6月は建保四年)6月8日鴨長明は62歳でその波乱の生涯を閉じました。

 

【参考】

1・新編日本古典文学全集44「方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄」

校註・訳神田秀夫、小学館、1995・3・10

2・「方丈記全注釈」、簗瀬一雄、(株)角川書店、1971・8・10

3・「方丈記鴨長明」、浅見和彦、校註・訳、(株)筑摩書房、2011・11・10

4・新訂「方丈記」、校註・市古貞治、岩波文庫、第54刷、2025・7・4

市民教養講座の募集で「講師の肩書」を外したら応募者一人。では、肩書を掲載してみたら……?

方丈記を楽しむ会会員募集ポスター

 野田市で開催している「古典文学を楽しむ会」には四つの講座があり、源氏物語、枕草子、徒然草、風土記をそれぞれ月1回開催して活動しています。

 もともと「古典文学を楽しむ会」は「野田市文化団体協議会」に所属していましたが、会長や役員の高齢化に伴い、2021年に同協議会から退会・退任することに。それ以来、四つの講座はそれぞれ独立して活動していくことになりました。

 時を同じくして、私が所属する「徒然草講座」でも、会長・役員・外部講師が病気や高齢化のために次々と退任されてしまいました。コロナ禍が収束しつつあった2023年、最古参の私が急遽会長を引き継いだものの、かつて40名ほどいた会員は12名にまで減少。講師料を確保することができず、講座は存続の危機に陥いりました。

 

 弱体化したとはいえ、四つの講座の中核を担ってきた「徒然草を楽しむ会」は、学習する文学書を変えながらも実に74年間続いてきた伝統があります。「私の代で潰したくはない」という思いから、まずは「内輪の勉強会」として継続する案をメンバーに提示してみようと考えました。

  しかし、私自身がそうであったように、大半の会員は「専門の先生の講義」を受けたくて入会したと思われます。「素人が手探りでする勉強会なら遠慮したい」と思われるのが当然ではないか――。それなら、いっそ解散した方が大義名分が立つかもしれない。そう思い、解散か、それとも内輪での勉強会続行かを、残った12名の会員と話し合うことにしました。

 

 ところが意外なことに、「内輪の勉強会でもいいから続けたい」という会員が4名も現れ、会の続行が決まったのです。2023年7月から、私が世話人(講師役)を務める「徒然草を楽しむ会 調査報告会」として再スタートすることにしました。まずは3カ月間の「実習期間」を設け、講師として妥当かどうかを会員の皆さんに判定してもらうことにしました。 幸いにも、判定結果は「合格」。無事に活動を継続することができました。

 

 その後、会員を増やすために2024年、2025年と新会員の募集を行いました。のだ市報のイベント欄に「講師名なし」で掲載してもらい、公民館や図書館にはポスターやチラシを掲示しましたが、いづれも応募者はほとんど集まりませんでした。(実際:2025年一人入会)

  私は20年間古典文学を学んできたとはいえ、所詮は素人。そんな気後れから、講師として公に名乗ることができずにいたのです。しかし、手探りの講義も3年続き、内容自体は平均的なレベルに達している自負もありました。「一度講義を聞いた上で辞退されるなら納得がいくが、そもそも1回目の講座にすらほとんど集まらないのはなぜか……」。理由は文学書の選定か、あるいは「肩書(講師の素性)」が見えないことにあるのではないか、と考え始めました。

 そして2026年3月、徒然草の全243段をすべて読み終えたのを機に、次の講座からは思い切って戦略を変えて会員募集をすることにしました。

 

1.新しく古典文学を楽しむ会「方丈記講座」を開設する

 現代の日本で巨大化・多発化する台風、大雨、山火事、洪水、地震などの自然災害。 そして世界の独裁国家や権威主義国家の横暴。これら現代の「五大災厄」とも言える混迷した状況は、800年前の『方丈記』に描かれた平安時代末期の姿とまったく同じです。現代日本を暗示させるキャッチコピーとイラストを入れたポスター・チラシを作り、強くアピールすることにしました。

 

2.「のだ市報」の募集記事に講師名と肩書を掲載する

  講師名「斉藤三千夫」、肩書名「元法政大学非常勤講師」と記載することにしました。

実際に私が担当したのは経済学部の「コンピュータ入門」であり、当時は会社から派遣された非常勤講師でした。専門分野(古典文学)とは異なりますが、「大学の非常勤講師を務めていた」ということは紛れもない事実です。肩書として元大学名と職位を載せる決断をしました(資料1参照)。

 

3.境界近くの市外公民館や図書館にも掲示・配布する

 公民館(11カ所)、生涯学習センター(1カ所)、図書館(4カ所)へ、ポスター計14枚、チラシ計330枚を配布しました。ただし、こちらのポスターやチラシには講師名こそ記載したものの、やはり大学名や職位まで書く勇気が出ず、肩書は空欄のままにしました(上記ポスター参照)。

 

 こうして迎えた2026年4月の「方丈記を楽しむ会」会員募集。 のだ市報に肩書を掲載した効果があったのか、5月9日の第1回方丈記講座には、なんと10名もの新規応募がありました(新旧合計で14名)。

  しかし、続く6月6日の第2回講座では、新会員のうち3名が欠席となり、出席者は7名(新旧合計11名)という結果になりました。

 

 新会員となった7名の方々に、これから末永く楽しんでいただけるよう、講義資料をさらに充実させ、少しでも魅力ある講義に近づける努力を重ねていきたいと思っています。

 

【参考・補足データ】

私の非常勤講師歴について

o 1992年: 本社情報システム室に在籍中、法政大学経済学部から「コンピュータ入門講座」の非常勤講師の依頼が入る。派遣条件であるプログラミング言語「Fortran」を使える人間が、たまたま室内に私一人しかいなかったため、白羽の矢が立つ。

o 2000年以降(2回目): 講義内容がFortranから表計算ソフト(Microsoft Excel)へと変更。

o定年後(3回目): 当初は最低3年の契約だったが、会社の業績悪化に伴い派遣契約の維持が困難に。定年後にお願いをして、3回目は個人(フリー)として採用される。2006年4月(62歳)から2014年3月(70歳)までの8年間、教壇に立つ。

法政大学経済学部 担当科目:「コンピュータ入門」

o 1993.4 ~ 1995.3(2年間)

o 2000.4 ~ 2002.3(2年間)

o 2006.4 ~ 2014.3(8年間)*計12年間

 (*Google等の検索窓に「斉藤三千夫」と入力して検索すると、「法政大学の斉藤先生の授業評価・楽単情報と口コミ」というページが表示され、当時非常勤講師を担当していた形跡を確認することができます)

 

蛇足:途中で断念せざるを得なかった活動の記憶

これまでに業界の情報交換会、研究会、各種セミナー、会社派遣の非常勤講師などに数多く参加してきましたが、6カ月以上続くような息の長い研究会やセミナーのいくつかは、会社の業績や方針の影響を受け、途中で辞めざるを得なくなった苦い経験があります。

中でも特に心残りだったものを、備忘録を兼ねてリンクと共に残しておきます。

1.NTTネットワークセミナー(黎明期のインターネット)

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2.ノウハウの共有化に関する調査研究

www.sekiyu-gakkai.or.jp

私はこれまで、現場、研究(コンピュータによるデータ解析・技術計算)、生産・品質管理、情報システム(技術、経理、在庫、経営情報、関係会社出向など)と、平均3〜5年のサイクルで様々な職務を渡り歩いてきました。

 35年間を振り返ってみれば、「広く浅い、潰しの効かない技術屋」として定年を迎えたわけですが、その泥臭いキャリアの中で得た「法政大学非常勤講師」という肩書が、巡り巡って80代になってからの古典文学講座の解散危機をまぬがれる一手になったのですから、人生どこで何が役に立つか分からないものです。

 

ハーフマラソンを続けるための目標として第一目標は「最終関門の通過」そして第二目標は「2時間30分以内」と設定しました。

ハーフマラソン記録推移グラフ

春日部大凧マラソン実績表

  2024年にフルマラソンからハーフマラソンに転向し、3年目の今年2026年3月29日の「第29回吉川市なまずの里ハーフマラソン」を走り、19km関門制限時間を2時間15分ギリギリで通過し、私の目標2時間30分の3秒差でクリアし、記録は2時間29分57秒でした。

 

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そして、ゴールデンウイークの5月4日に「第38回春日部大凧マラソン」を走り、結果を記録推移グラフに追加し、実績表を作り、最終関門の通過時間や途中経過や記録そして体感したことを分析して、次回に備え考察してみました。

 これまでの実績から後半ペースダウンするので、16kmまで6分30秒/kmペースを維持し、16km関門制限時間2時間7分より約20分早い1時間40分を想定して走りました。

 しかし、実際走ってみると7km折り返しの上り坂を過ぎた11時頃から気温が上がり暑さからか6分30秒/km から7分30秒/kmにペースダウンしてしまい、16km関門制限時間2時間7分より約13分早かったものの、目論見より、10分遅い、1時間54分となってしまいました。

 本来の目標の記録2時間30分を達成するには、残り5kmを36分で走りらなければならず、ペース7分/kmを維持する必要がありますが、体・脚が重く、現在のペース7分30秒も徐々にダウン気味になっており、このペースを維持することが難しい状況でした。

 「春日部大凧マラソン」は「なまずの里マラソン」の19km関門制限時間2時間15分より緩いので楽勝と思っていましたが坂が5つあり、16km関門制限時間2時間7分はむしろ厳しいことを思い知らされました。

 また、11時頃から気温が上がり暑さからか体にダメージを与え、ペースが上がりません、そこで、16km過ぎの関門から給水の水のコップ10〜20杯分の頭と脚に掛け、冷やすと少しペースが上がりました。

 次の給水所でも頭と脚に水を掛け、ペースを上げ、落ちては次の給水所で水を掛け、これを5kmで4回繰り返し、ペース8分/kmより落ちないように努めました。

 よれよれにながらもペース7分30秒/km〜8分20秒/kmをなんとか維持しながら走り、ゴールまで1kmになった頃から応援する人が増えてくると、少し元気でて来て、ペースが7分/km〜7分30秒まで上がってきました。

 庄和総合公園の手前1kmから何人か歩いている人を抜き、走っている人には抜かれ、陸上競技場に入ってからは歩いている人3人、走っている人1人と競争の末抜いてフィニッシュしました。

 終わってみれば、順位はスタートからゴールまでほとんど変りなく、私の当初の目標であるハーフマラソンランナーの下限目安時間2時間30分から3分52秒オーバーの2時間33分52秒でした。

 「春日部大凧マラソン」では16km関門の制限時間をクリアすれば、3時間以内にフィッシュすれば良いですが、私の目標2時間30分以内は達成できなかったのは残念です。

 今回の体験から第一目標は「最終関門の通過」とし、第二目標として2時間30分以内とすることをハーフマラソンを続けるための目標とすることにしました。

 

ハーフマラソン記録をグラフに追加し何歳まで完走可能か2026年4月現在経過観察中

ハーフマラソン記録推移グラフ

2012年からフルマラソン完走を目標に、故障・回復期間の2年間を除き、6年ほど続いた後、2020年2月から2022年11月までコロナが大流行し、2年間休止となりました。
そして、2022年11月6日に再開した「ちばアクアラインマラソン2022」に参加しました。

ひさびさの大会参加に序盤は調子よく走りましたが、中盤以降になると、腿と膝そして体力に疲れがでてペースが維持できなくなり、途中ストレッチをしながらなんとか42kmを完走することができました。

しかし、78歳の体に余力がないことがわかり、この「ちばアクアラインマラソン2022」を最後に、これからはから21kmのハーフマラソンに切り替えることにしました。
80歳の2024年4月27回吉川市なまずの里ハーフマラソンからこれまでのハーフマラソン実績をグラフ化しました。
そして、これ以降の記録をグラフに追加・観察しながら、何歳までハーフマラソンを走ることができるか見極めることにしました。

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2024年からは吉川市なまずの里ハーフマラソンを想定し、2時間30分以内で完走することがハーフマラソンの目標になりました。
吉川市なまずの里ハーフマラソンの場合は19kmに関門があり、2時間15分(ゴール2時間30分相当)以内に通過しないと失格になります。(19km関門を通過できれば、ゴールまでの制限時間はありません)
レースを平均1km7分6秒ペースで走ると19kmを制限時間2時間15分以内で通過でき、そしてそのペースを維持するとゴール(21.0975km)は2時間30分となります。

私の場合10kmまではキロ6分20秒~6分40秒ですが、10km過ぎるとキロ7分30秒を越えるペースダウンになるのでいかに前半のペースを維持するか課題です。
2024年は19km関門を2時間15分ギリギリで通過し、何とか完走でき、記録は2時間30分28秒でした。
2025年は19km関門を2時間で通過、記録は2時間13分41秒と大幅更新しました。
しかし、今年2026年はキロ6分30秒を維持できず、後半からキロ7分~8分となってしまい、19km関門は2時間15分近くまでかかり、2024年同様、かろうじて失格をまぬがれ、2時間29分57秒とハーフマラソンの制限時間の目安2時間30分とほぼ同じ値になりました。

 

ゴールデンウイークの2026年5月4日(月)開催の春日部大凧マラソンの完走可能か予測しましたが関門通過時間を間違っていましたの訂正します。
間違い → 10時08分スタート、15km関門制限時間は12時15分以内 
正しい → 10時08分スタート、16km関門制限時間は12時15分以内 

春日部大凧マラソンの場合は10時08分スタートし、16kmに関門があり、通過制限時間は12時15分以内ととなっております。

そうすると、16kmを2時間7分以内で走ることになり、このペース(7分54秒/km)で走るとゴールはおおよそ2時間46分となります。

1か月後の2026年5月4日に開催される春日部大凧マラソンは16km通過制限時間2時間7分以内となりゴール制限時間は2時間46分以内相当となり、3月29日のなまずの里マラソンの実績は2時間29分57秒(ペース:7分7秒/km)なので完走できると思います。

ただ、なまずの里ハーフのコースはまったく坂がなくフラットですが、春日部大凧ハーフは16km以内に坂が4つあるのでペースが落ち、気をつけないと失格になります。

キロ7分ペースが維持できなくなり、来年2027年以降、吉川市なまずの里ハーフマラソンに参加できなくなっても、春日部市大凧マラソンやその他の制限時間が緩い大会には参加できますので続行するつもりです。

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1973年のオイルショックが53年経た2026年の今、再び日本を襲ってきた!

原油先物価格グラフ

原油先物価格推移表

2026年2月28日突然、アメリカとイスラエルがイランに対し、核開発の阻止と現政治体制変更を目的に、大規模攻撃を開始しました。
トランプ大統領は2から3週間もすれば反体制派が立ちあがり、体制変更は成功するだろうという思惑は外れ、イラン革命防衛隊は徹底抗戦を宣言、ホルムズ海峡が封鎖され、中東原油は攻撃前の2月24日に比べ、3月中旬以降に2倍近く高騰しています。

 

3月30日で戦闘5週目に入りましたが、戦争収束の目途は立っておらず、日本の石油の90%は中東原油に依存しているため、生活基盤を支えている石油製品・石油化学基礎製品そしてそれらの多くの誘導製品が値上がり、我々一般庶民の生活は一段と苦しくなりそうです。

 

1973年第4次中東戦争と第一次オイルショック

石油製品

石油化学基礎製品

エチレン製造プロセス

エチレン装置の事故

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【参考】

1.プラッツドバイ原油先物価格のドル換算価格、日本取引所グループ
2.ICEブレント原油先物、Bloomberg
3.WTI 原油(NIMEX 軽質スイート)、 Bloomberg
4.外国為替相場、三菱UFJ銀行