藤沢周平著「密謀」を読んで

イメージ 1

 3月17日に図書館から借りた藤沢周平著「密謀」を読み終え、返しに行いきました。

以前、「上杉鷹山」に、ついてブログに

yaseta.hateblo.jp初代上杉謙信の2代目上杉景勝関ヶ原の戦いで豊臣方につき、1601年に徳川家康に所領、会津佐渡、庄内、米沢、福島の120万石から米沢、福島の30万石に減封されたと記述しましたが「密謀」はこのいきさつを描いた小説です。

私の故郷の山形県小国町周辺には標高2000mの山脈があり、これが会津と肥沃な庄内を阻んでいます。

そして、山形の24万石最上義光の存在が庄内の統治を不安定にしているため、1600年「関が原の戦い」の直前、上杉景勝重臣直江兼続(なおえ かねつぐ)に命じ、討伐に行きました。

これを機に家康は会津の上杉をたたくため兵をだしますが、秀吉亡き後、家康の天下統一の動きを苦々しく思っていた石田三成が家康打倒の戦いを起こします。

不意をつかれた家康軍は上杉から手を引き、三成軍に主力軍を注ぎます。

兼続は家康を討つ天与の好機と進言しますが上杉景勝は「家康を討つために兵を挙げたわけではあるまい。彼が攻め来るがゆえに兵を構えた。武門の意地は貫いた。豊臣家に対する義も、いささかたったというもの。敵の弱みにつけ込んで追撃をかけるのは上杉の作法ではない。」

実は、上杉の参謀と言われた直江兼続石田三成の間に徳川家康を挟み討ちにしようという「密約」を結んでありました。

約束は守った。上杉が天下の兵を引き受けたがゆえに三成は兵を挙げたではないかと。

義を踏みにじって恥じない人物に対する憤りが兼続や石田三成を固く結びつけたのであるがその厚顔の男に人が群がり集まることを知り、欲望の寄せ集めこそ、政治の中身というものであれば、景勝に天下を取れとすすめるのは筋違いと直江兼続は思い知るわけです。

景勝は謙信の代から義によって行動することに誇りを持っているひとでありました。

しかし、石田三成徳川家康に大敗北を帰してしまいます。
上杉景勝は上杉の家名を残すために領国を削られ、世のあざけりを甘んじて受け入れる苦渋の決断をして、家康に和睦(降伏)を申し入れ、減封されたということです。

歴史においても家康を挟み討ちにするという密約があったそうですがなぜ失敗に終わったかという謎に焦点を当てた小説でした。