石油の歴史No56【イラン革命とホメイニ師の凱旋】

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1970年代の中頃、イランでは石油収入が増えているにもかかわらずパーレビ国王の独裁と近代化政策への過度の投資と政府の腐敗が経済的混乱、社会的混乱を招いていました。

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地方から都市への人口流入が都市の過密化を招くとともに、農業離れを起こし、農業生産は低下し、食糧輸入が増加しました。この結果、物価が高騰し、急激なインフレが市民の生活を直撃しました。

 

テヘラン市民の多くは収入の70%以上が家賃に取られ、公共のインフラ整備作業は急激な変化に対応できず、鉄道は麻痺し、市内の道路は車で渋滞しました。電気の送電網整備計画は遅れ停電が頻発し、日常生活や工業生産に大きな支障をきたすようになり、国民の不満は怒りと変わって来ます。

 

イランの経済的・政治的混乱の中でイスラム原理主義者は人々の心を掴み伝統的イスラム文化に戻そうという熱狂的な運動を展開します。

 

そして現れたのがイスラムの教義と戒律の講義で注目され、強い影響力を持つシーア派の宗教指導者「ホメイニ師」でした。1962年60歳頃からホメイニ師はパーレビ国王が進める社会改革はイスラムの伝統を破壊するものとしてパーレビ国王を公然と批判し反対運動を始めるようになり、パーレビ国王を支持するアメリカを憎悪しました。ホメイニ師は何度か投獄された末、1963年、国外追放に遭い、イラクに亡命しました。

 

1977年ホメイニ師の長男がなにものかに殺されましたがパーレビ国王の秘密警察「サバク」が手をくだしたと噂されました。1978年1月新聞にホメイニ師を誹謗中傷する記事が載り、ホメイニ師の故郷である聖都クムでデモが起こり、やがて暴動に発展しました。

 

軍隊が入りデモ参加者に犠牲者がでて、イスラムシーア派は40日間の喪に服した後、新たにデモを再開しました。このデモでまた犠牲者が出ました。そこでまた40日の服務期間後、デモを再開して犠牲者の喪に服すという「40日間闘争」を繰り返します。

 

暴動とデモはついにイラン全土に広まり、大規模な衝突になり、多くの人々が殺され殉教者が増えていきました。反政府運動に対する警察と軍の介入はますます反体制派の怒りを買い、国民の支持を広げていきました。

 

1978年8月アメリ国務省はパーレビ体制と権力の維持が困難になりつつあり、イランの社会構造が崩壊する兆しがあると発表しますが9月に国防総省は「パーレビ国王は向こう10年間は権力を維持する」という予測をだしました。

 

しかしながらイランでは反体制派の勢いはますます増加していきました。1978年8月イラン国内の6件の映画館が反イスラム的映画を上映しているとしてイスラム原理過激派の焼き打ちに遭い、約600人が焼死するという大惨事が起こりました。

 

ついにはテヘラン市内でデモ隊と軍が衝突し約2000人の犠牲者がでて、パーレビ政権の統治能力はほとんどなくなってきました。

 

1978年10月イラク政府はイラク国内のシーア派への影響を恐れ、ホメイニ師イラクから追放します。クウェートからも受け入れを拒否されたホメイニ師はフランスに向いました。

 

1978年12月10日、イスラムシーア派の殉難祭「アシュラ」を翌日に控え、シーア派最高指導者「タレカニ師」の提唱でイラン全土に大規模な反パーレビ国王デモが行われました。そして、翌11日にはデモが拡大し、暴動とストが内戦状態にまで発展していきました。

 

イランの石油業界は混乱していました。イラン石油生産の中心地域「マスジット・イ・スレイマン油田」はモサデクがアングロイラニアンから国有化し、失脚したあとはパーレビ政権が握りました。

 

【マスジット・イ・スレイマン油田について(アングロ・ペルシャ・オイルの設立)】

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そして、1954年に創設されたイラン石油供給会社「オスコ(Osco)」によって操業され、欧米の技術者や顧問が業務支援をしていました。1978年12月末には欧米のスタッフ全員の引き上げが決定しました。

 

油田ではストが続き、イランの石油生産は急落し、石油輸出は全面的に止っていました。ヨーロッパの石油市場ではスポット価格は10%~20%急激に上昇しました。

 

1979年1月16日パーレビ国王は休養を理由にイランを出国し、エジプトに向いました。しかし、苦し紛れの話であることは明らかでこれがイランとの最後の別れとなりました。

 

1979年イスラム革命について

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パーレビ国王出国の国営放送が流れや車一斉にクラクションを鳴らし、道路は家から飛び出した人であふれ、声を張り上げ喝采しました。ホメイニ師は3日前の1月13日にパリでメヘディ・バザルガン率いる臨時革命評議会の設立を宣言していました。

 

1979年2月1日ホメイニ師を乗せたエールフランスチャーター機ボーイング747がイランの首都テヘランのメヘラバード国際空港に着陸しました。

 

イラン国軍は中立を宣言し、パーレビ国王に任命されたバクチアル政権は2月11日辞任に追い込まれました。イラン革命は達成され、バザルガン革命評議会が発足しました。ホメイニ師は国旗を変更、男女共学禁止など宗教色の強い政策を次々打ち出してきました。

 

イラン革命の衝撃はすぐさま全世界に広がり、180度転換したイランの政策に西欧諸国とイランとの関係はすっかり変わってしまいました。

 

パーレビ政権の崩壊により、世界第二の石油輸出国イランの石油輸出をストップしてしまい、さらに、1年後の1980年のイラン・イラク戦争で供給不足第二次石油ショックを引き起こすことになります。そして、石油価格は1ベレル13ドルから34ドルまで急騰し、日本や欧米諸国の経済成長を阻み、政治・経済に大変革をもたらすことになります。

 

原油価格推移

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このイラン革命とイラン・イラク戦争を境に1950年後半から30年近く続いた日本の高度成長時代は完全に終わりを告げることになります。
 
【参考】
(1)「20世紀全記録」、小松左京堺屋太一立花隆講談社、1987年
(2)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年