石油の歴史No40【中東地域と世界石油市場を独占したセブンシスターズ】

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1953年民族系石油元売会社「出光興産」のイラン石油購入に対し、アングロ・イラニアンは東京地方裁判所に訴訟を起こしましたが「出光興産」が勝訴しました。アングロ・イラニアンはそれを不服として控訴しましたが法廷闘争継続中の10月、突然、控訴を取り下げました。

 

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イギリスはイランにより一方的にアングロ・イラニアンを接収され、屈辱的損害を受けた1951年4月から5ヶ月後、ウィンストン・チャーチル率いる保守党内閣が再登場しました。このときチャーチル77歳、モサデクより5歳年上でした。37年前、チャーチル海軍大臣としてアングロ・ペルシャ株を政府の持ち株として買い取った本人が表舞台に現れ、強硬路線を取り始めました。

 

チャーチルはイランの事態を黙認し、モサデクの行為を無罪にすれば、国有化と資産接収が世界中に広まるだろう。モサデクよりパーレビ国王(シャー)の方が合理的な政府になると主張しました。

 

一方、アメリカはモサデクが倒れた後に共産主義者が支配することを恐れ、モサデクと強調し、それを避けなければならないと主張しました。

 

チャーチルトルーマン大統領と共同でイランが国有化した資産に対する補償をモサデクが認めるならば、イランに対し経済援助を行うという提案をしますがモサデクはアングロ・イラニアンが仕掛けた罠だと拒否しました。

 

次にアメリカは資金援助などを盛り込んだ妥協案をモサデクに提示しますがこれも拒否し、モサデクは支持している民族主義者と改革派やイスラム教指導者をよそに共産主義のツデー党に歩み寄り、ソビエトからの援助を匂わせたのでした。

 

イランの政府収入の半分だった石油収入はゼロになり、イラン経済は崩壊し、混乱している中、モサデクはソ連型人民投票で国民の圧倒的支持を受け、独裁体制を固めようとしていました。

 

ダレス国務長官国家安全保障会議でモサデク政権の後は共産主義者が政権をとる見通しを発表しました。そうなれば、自由世界はイランの巨大石油埋蔵量を持つ資産を失うだけなく、世界の石油埋蔵量の60%を持つ中東地域が共産主義者に支配されてしまうと警告したのです。

 

そして、チャーチルとダレスでパーレビ国王に忠実なザヘディ将軍が指揮するモサデク追放計画「AJAX作戦」を立て、トルーマン大統領からアイゼンハワー大統領に代わった1953年国務長官ダレスは彼の弟であるCIA長官アレンに実行をまかせました。

 

1953年7月、「AJAX作戦」の指揮するセオドア・ルーズベルト大統領の孫であるCIAのカーミットルーズベルトはパーレビ国王に密会し、作戦を説明し、説得させました。

 

8月中旬作戦はパーレビ国王(シャー)がモサデク解任の命令を合図に始まる手筈でしたが、3日遅れ、その間にモサデク側が作戦に気づき失敗し、シャーはローマに亡命しました。

 

8月18日アイゼンハワー大統領に「AJAX作戦」失敗を報告した次の日の8月19日テヘランでザヘディ将軍が記者会見でモサデク解任を支持するシャーの写真を配りました。これを機に、シャー支持のデモがたちまち大きくなり、モサデク打倒・シャー支持を叫び、バザールを抜け、市の中心部に向かいました。CIAはイラン国内のシャー支持者、国王側近と連絡をとり、彼らを組織していたのです。軍部の中枢もシャー支持に傾き、モサデクは捕らえられ、彼の宮殿は火をつけられました。

 

その晩、全土はシャーの勢力に掌握されたのでした。新しく首相に就任したザヘディ将軍はローマからパーレビ国王を向かい入れます。イラン国営石油はそのまま存続し、新たな方式で再開を図ることになりました。しかし、アングロ・イラニアンが表面にでればまたイランの民族主義感情に火をつけることになります。

 

そこで、国務省はアングロ・イラニアンの操業を引き継ぐ複数の企業を組織し、その中にアングロ・イラニアンをカモフラージュし、アングロ・イラニアンがイニシアチブをとる形にすることにしたのです。

 

これらの交渉にあたったのがフーバー元大統領の息子で石油コンサルタントのダレス長官の特別代表ハーバート・フーバー・ジュニアでした。イランの政情不安定、世界的に石油余り気味のときアメリカ系石油会社は乗り気ではありませんでしたがフーバーは戦略的見地から彼らを説得しました。

 

1954年10月国際石油資本8社からなるイラン国際企業連合、通称コンソーシアムが発足しました。コンソーシアムの設立は石油産業の大きな転換点の一つと言われています。外国人が所有する石油利権が初めて交渉の上、産油国に戻され、関係者すべてが石油資源は原則的にイランに属すると初めて認めたからです。

 

コンソーシアムは契約に従ってイランの石油産業を運営し、全生産物を買う、そしてコンソーシアムの構成会社が分配された石油をそれぞれ各自の販売システムに乗せることにしたのです。

 

その8社のシエアはアングロ・イラニアンはブリテッシュ・ペトリウム(通称BP)と改名し40%、シェル14%、フランス石油(CFP)6%、アメリカの5社エクソンソーカル、テキサコ、モービル、ガルフがそれぞれ8%でした。

 

アメリカ政府の支持のおかげでコンソーシアムの生産高は中東第二位を占めるようになりました。イラン政府とコンソーシアムが結んだ協定の他に実は参加企業の間では生産調整の秘密の協定が結ばれていました。生産を競い合うイランとサウジアラビアのバランスを大企業の都合の良いように保ちまた、その他湾岸諸国の油田もコントロールできる取り決めだったのです。

 

コンソーシアムのおかげで国際石油資本はイランの石油資源を含めて中東全体自由に調整することができ、莫大な利益をえることができ、世界の石油市場の支配をゆるぎないものにしたのです。

 

日本同様に海外に石油資源を求めていたイタリア国営石油ENIの総裁エンリコ・マッティはコンソーシアムを「国際カルテル」と呼び、強固に結びつい共同事業で中東を押さえ、世界石油市場を支配している国際石油資本7社を嫉妬と非難を込め「7人の魔女(セブンシスターズ)」と呼んだのです。

 

セブンシスターズはアラムコのニュージャージー・スタンダード(①エクソン、商標:エッソ)、ソコニー・バキューム(②モービル)、カルフォルニア・スタンダード(ソーカル改称後③シェブロン)、④テキサコそしてこの他の⑤ガルフ、⑥ロイヤル・ダッチ・シェル、⑦ブリティッシュ・ペトロリアム(旧アングロ・イラニアン)の7社です。コンソーシアム8番目のフランス石油(CFP)は「アングロ・サクソン」の範疇に入らないのでマッティは便宜上入れなかったと言われています。

 

セブンシスターズはコンソーシアムが成立し、新しい秩序が生まれ、中東地域の石油産業は安定を取り戻し、今後、良好な活動を期待できると言いました。しかし、巨大な資本力で中東地域と世界石油市場を独占し、石油価格や産油国に支払われる利権料や税金を決定するのはセブンシスターズであり、産油国には発言権はありませんでした。
 
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【参考】
(1)「中東の石油」、森脇義太郎、岩波新書、1957年
(2)「イラン石油を求めて-日章丸事件」、読売新聞戦後史班、読売新聞社、1981年
(3)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年