1979年イスラム革命とイランの核開発について

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                                                   意地引って  →  意地張って
最近、連日のようにイランの核開発問題を取り上げ報道されています。

参考資料をみると、イランは、2003年、書簡で、以前に秘密裏にウラン濃縮実験とプルトニウム抽出実験を行っていたことを認め、中断を宣言したが、その後、国際原子力機関IAEA)はイランのウラン濃縮・再処理活動の中断宣言に疑惑があると指摘していました。

最近になって、イランは核の平和利用のため開発は続けると強硬に言い出し、問題になっているわけです。

私がI社T製油所の月刊所内報にのせるため1979年(昭和53年)に描いたマンガが残っていましたのでここに掲載します。

このマンガは1979年にイランのイスラム教宗教指導者ホメイニ師が親欧米派のパーレビ国王を追放し実権を握った事件を描いています。

ホメニイ師はイギリス・アメリカの石油会社を追い出し、石油の支配権も奪還しました。
そして、1980年(昭和55年)、イラン・イラク戦争が起こり、イラン・イラクの石油生産が激減して1バレル当たり、13ドルから34ドルと上昇し世界経済に大打撃をあたえました。

これが第二次オイルショックでした。

この戦争は1988(昭和63年)まで続くわけですが、1980年のオイルショックを引きずり、1986年の円高不況あたりまで石油会社は厳しい経営状況が続きました。
(私の本社転勤もその頃の1983年(昭和58年)の小さな出来事でした。)

ホメイニ師がイランの指導者になったとき、イラン社会は欧米文化から一転、イスラム社会に回帰して、パーレビ国王が英仏の企業の支援を受け進めていた原子炉建設を中止させた経緯があります。

1981年には、イスラエルは国家存立のための自衛的予防手段であるとして、当時、イラクフセイン政権下で開発を進められていた原子炉を攻撃・爆破し、世界に衝撃を与えました。

イスラエルは今回のイランの主張に危機感を抱き、イランの原子炉に対して攻撃をやるのではないかというニュースも流れています。

ホメニイ師は原子炉建設計画を原子力は反イスラム的としてやめさせたのに、今の政権になって、国際社会を敵に回し、かたくなに核開発をやろうとするのはやはり、かつて欧米列強が中東で犯した数々の仕打ちに対し、まだ、イランの人々は不信感を持っているからだろうか。