石油の歴史No39【日章丸事件】

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1951年5月、イギリス政府はイランのアングロ・イラニアンの石油施設接収は犯罪行為であるとして国際司法裁判所に訴え、制裁措置を発動しました。世界の市場の大半を抑えている欧米系大手石油会社から成る国際石油カルテルと組んでイラン石油のボイッコットを始めました。

 

一方、イランにとってみれば石油が自国の資源でありながら、開発する技術も資金もなく、19世紀以来、イギリスに牛耳られ、わずか利権料を受け取るだけで、莫大な利潤はイギリスに搾取されていると根強い不満を持っていました。イランは相変わらず貧困と屈従を強いられ続けており、起こるべくして起こった行為であると主張していました。

yaseta.hateblo.jp

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1951年5月以降、モサデクは国際石油カルテルが支配している世界の石油市場をかいくぐる石油購入者を必死に探していました。

 

そのころ、日本は1949年3月の「ノエルの聖書」といわれた報告書を受けたGHQにより、石油精製が解禁になり、翌年より石油の生産が始まりましたが、国際石油カルテルの息がかかる外資系精製会社はGHQや日本政府推進政策の優遇を受けましたが、精製会社を持たないため、また、国際石油カルテルが持つ安定した供給ルートもない、民族系の純元売業者の出光やゼネラル物産などは不満を持って、政府に陳情を行っていました。

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そんな時の1951年(昭和26年)当時、出光興産専務だった出光計助に一本の電話がはいりました。それは出光興産創業者の出光佐三と同郷のブジリストン社長石橋正二郎からでした。

 

石橋社長は娘婿の通産省官僚の郷裕弘や政府関係者を介してモルテザ・コスロプシャヒというニューヨークに事務所を構えるイラン人バイヤーがイラン石油の購入者を探しているということで国際石油カルテルの息のかからない民族系の出光に打診してきたのでした。

 

当初、出光はイランの石油国有化はまだ国際的に承認されておらず、国際的商慣習、商業道徳上ゆるされないとして断りました。

 

1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は遂に、独立を回復しました。そして、転機が訪れました。同じころ、アメリカがイランと技術協定を結びました。これはイランの石油国有化を受け入れ、アメリカ石油資本のイラン進出を意図したものと判断されたのです。

 

6月にソ連がイランと通商条約をむすびました。イタリアとスイスの業者の共同出資会社のタンカー「ローズマリー」がイランの原油千トンを購入し、帰る途中、アラビア沖でイギリス海軍に拿捕されました。

 

しかし、1952年(昭和27年)7月、ハーグの国際司法裁判所はかねてイギリス政府が提訴していたイランとの石油紛争問題に対し、「当裁判所には管轄権がない」という裁定を下し、提訴を退けてしまいました。

 

しかし、国際石油カルテルの包囲網は続行され、メジャーに刃向かっているイタリアのエンリコ・マッティさえ、メジャーと取引し、世界中でイラン石油の購入者は現れません。そんな中、出光だけイラン石油購入の意志を固めることになりました。

 

講和条約発効まもない日本政府は一企業とは言え、イギリスとイランが対立しているなか石油を購入すると対英関係悪化を招くのではないか、また翌年の1953年(昭和28年)6月2日はエリザベス二世女王の戴冠式天皇の名代として皇太子の出席が決まっており、まだイギリスは日本に対し少なからず、第二次大戦のわだかまりがあり、日本政府は心配で表だって支援はできませんでした。

 

出光は1952年(昭和27年)暮れから1953年(昭和28年)2月にかけイラン政府との困難な交渉の結果、購入契約の調印にこぎつけました。

 

1953年3月23日出光は虎の子である1951年1月就航した日章丸二世(1万8774トン)を投入し、イラン石油購入のため神戸港を密かに出港させたのでした。

 

そして、イギリス海軍の警戒網をかいくぐり、イランのアバダン港に到着すると多くのイラン人が集まり、イギリスとの紛争のさなか、石油買い付けに来た日本船と日本人に非常に好意を寄せてくれ、翌日の地元の新聞にスマートな日章丸の姿が大々的に掲載され、イラン経済に希望を与えるものだと賞賛と歓迎の報道をなされました。

 

ガソリンや軽油約2万2千klを積み込み、イギリス海軍によるアラビア海の警戒網をくぐり、日本に向かいました。

 

1953年(昭和28年)5月9日川崎港に入港した石油製品満載の日章丸を待ち受けたていたのは、関係者や既に出光の行動を知った人々や新聞・マスコミが出光の快挙を記事にしようと集まった多くの報道陣でした。

 

出光がメジャーに締め出されたイラン石油を購入したことは、国際石油カルテルに牛耳られている世界の石油市場に一石を投じるものであり、また、独立を回復した日本の姿を国際舞台に示したということで、この「日章丸事件」は、まだ敗戦の虚脱状態から抜けきれないでいる日本国民に対し、自信と勇気を与えるものでした。

 

アングロ・イラニアンは日章丸搭載の石油製品は同社所有のものであるとして東京地方裁判所に提訴しましたが、5月27日、出光の全面勝訴となりました。すぐに、アングロ・イラニアンは控訴したものの、10月29日になって、突然、訴訟を取り下げ、予定された裁判をする前に出光は勝訴して終わってしまいました。

 

しかし、その影にはイラン国内では国際的謀略が動き、政変が起ころうとしていたのでした。

 

【参考】
(1)「出光50年史」、出光興産株式会社、1970年
(2)「ペルシャ湾上の日章丸-出光とイラン石油」、出光興産株式会社、1978年
(3)「イラン石油を求めて-日章丸事件」、読売新聞戦後史班、読売新聞社、1981年
(4)「20世紀の全記録」講談社、1987年
(5)「石油の世紀 出光の歩み」、出光興産株式会社、1996年