1957年終結したスエズ動乱はナセルを英雄に仕立て上げ中東諸国の民族主義の勢いを盛り上げる結果となりました。そして、石油は高揚する民族主義の中心でありました。エジプトは石油産油国ではありませんが、ナセルは主権の問題、植民地主義に対する闘争に石油を利用し、湾岸諸国への影響力を確保しようとしました。
1957年春、エジプトでアラブ石油専門家会議が開催され、民族主義の高まりと対決姿勢は石油会社を越え欧米に向けられるようになりました。しかし、石油輸出国間の組織体の設立は始まったばかりで影響力は弱く、力を持つためには中東以外の大産油国のイランやベネズエラの参加が必要でした。
【イラク革命】
1919年第一次大戦終結以前、クウェートとイラクはオスマン・トルコ支配下にあり、バスラ州に属していましたが1920年旧オスマン・トルコ領の処理に関するサイクス・ピコ協定により、イラクとクウェートはイギリスの委任統治領におかれました。
1919年第一次大戦終結以前、クウェートとイラクはオスマン・トルコ支配下にあり、バスラ州に属していましたが1920年旧オスマン・トルコ領の処理に関するサイクス・ピコ協定により、イラクとクウェートはイギリスの委任統治領におかれました。
イラクではナセルのアラブ民族主義に共鳴し、イギリスが後押しするイラクのハーシム王朝への反発が高まりました。1958年7月14日早朝、数人の士官を率いてアブドル・カリム・カセム准将はクーデターを起こします。王宮を包囲して攻撃し、国王ファイサル二世とその一族を虐殺しました。首相ヌリ・エスサイドは女装して逃亡しようとして群衆に捕まえられ殺され、バクダットは火に包まれ血に染まりました。多数の外国人が殺され、イラク国内のあちこちで暴動が発生しました。
親ソ派のカセムを首相とするイラク共和国が樹立しました。イラクでのクーデターを機にさらにアラブ世界に反英、反ユダヤ感情が高まりました。
1959年1月親ヨーロッパ国のイラクを失う危機を抱いたイラク石油(*1)はイラクのバグダットでカセム首相と話し合いしました。
1959年1月親ヨーロッパ国のイラクを失う危機を抱いたイラク石油(*1)はイラクのバグダットでカセム首相と話し合いしました。
イラクは混乱状態で石油の収入を失い、行き詰まったカセムはあくまでも生産の倍増を要求します。しかし、イラク石油はカセムの要求をはねつけました。しかもイラク石油はカセムに圧力をかけるため、生産を3分の1まで縮小します。カセムは生産計画の練り直しを迫りますが、カセムの要求を満たすものでありませんでした。
怒ったカセムは新しい法律を公布し、油田の90%を接収しました。そして、ソビエトの石油専門家の支援を受けイラク独自で石油生産・販売をしようとしました。
怒ったカセムは新しい法律を公布し、油田の90%を接収しました。そして、ソビエトの石油専門家の支援を受けイラク独自で石油生産・販売をしようとしました。
イラク石油は対抗として、セブンシスターズとともにカルテルを結成し、イラク産石油のボイコットを開始しました。その結果イラクは破局的な経済危機に陥りました。しかし、革命政府を率いるカセム首相はあらゆる国際協定を拒否しました。
1959年と1960年の二回にわたり、セブンシスターズが原油公示価格を一方的に値下げしたため、産油国は莫大な損害を被りました。カセムはこれを機に産油国だけをメンバーとする組織を作ろうと、主要産油国のイラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラに1960年9月10日バクダッド集合を呼びかけました。そして結成されたのがOPEC(Organization of Petroleum Exporting Countries、石油輸出国機構)でした。
1961年、イラクの親ソビエト化を恐れた英国はイラクからクウェートを分離し、独立させてしまいました。クウェートはイラクと同じ元バスラ州であり、イラクの領土であるとしてカセム首相は激怒し、抗議しましたが聞き入られませんでした。
OPEC結成後の数年間はメンバー国間の対立などで結束力に欠け、セブンシスターズ等の大手国際石油資本の行動に影響するほどの力はなく、めぼしい実績はあげられませんでした。しかし、10年後、OPECが大手石油資本と対等の力を持つことになるとは誰一人予想していませんでした。