石油の歴史No51【第一次石油危機とウォーターゲート事件】

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1973年10月6日の第四次中東戦争とその後のOAPEC(アラブ石油輸出機構)による原油生産の削減、ヨーロッパや日本に対する石油輸出削減、そして、イスラエル支援国とみなされたアメリカとオランダへの石油の全面輸出禁止は全世界に石油不足の不安を招き、先進工業国ではパニックを引き起こしました。

 

アメリカは昔から国内に油田を持ち、石油の生産・精製を続けているため、アメリカの大半の人々は石油を輸入しているという認識はなく、ガソリンスタンドのガソリン価格が40%も値上がりしていることに気がつき初めて石油を輸入しているという現実を認識したのでした。

 

アメリカ政府の対応にも問題がありました。前年の1972年6月17日にワシントンD.Cのウォーターゲートビルにある民主党本部へ何者かが侵入し、盗聴器を仕掛け、情報を盗聴するという事件が起こりました。

 

FBIの捜査や上院ウォーターゲート特別委員会の調査により、1973年7月、「ホワイトハウスニクソン大統領執務室で不正工作について会話した録音テープ」の存在が明らかになりました。

 

このニュースはアメリカ国民を驚かせ、失望させ、ニクソン政権は崩壊の危機に立たされました。そして、1973年10月の第四次中東戦争と中東諸国の石油禁輸措置が起こっていたとき、ニクソン大統領の法廷への召喚拒否と大統領権限による司法省特別検察官の解任などで政界は混乱の真っただ中にありました。

 

アメリカ政府は石油危機に対応するエネルギー政策を打ち出そうとしますがこの大統領スキャンダルが足を引っ張り、空回りしていました。

 

事件に気をうばわれている大統領を抜きで政府は活動を続けることになります。国務長官ヘンリー・キッシンジャーは外交で活躍し、大統領補佐官や政府のエネルギー関係者は西側政府と石油の融通計画を話し合いました。

 

特に問題になったのは中東で操業しているメジャー7社のうち5社のアメリカ企業が中東諸国政府の命令で本国アメリカへの石油輸出禁止を実行していることでした。

 

そこで考えられたのが“苦しみの平等化”と“惨めさの平等化”でした。即ち、石油会社は全世界の国々に全供給量から同じ割合で削減したものを配分することにしたのです。具体的にはアラブ以外からの石油はアメリカ等の禁輸国やヨーロッパなど中立リストに載せられた国に回され、アラブの石油は友好国とみなされた国に回されました。

 

この「苦しみの平等化と公正な配分」は比較的良好に実施され、禁輸期間中のアメリカの削減率は18%、西ヨーロッパ16%、日本17%となったと後のレポートで報告されました。

 

1973年12月テヘランに集まった各国石油相石油の公示価格をバーレル当たり11.65ドルに決定しました。

 

1970年     1.80ドル
1971年     2.18ドル
1973年 6月  2.90ドル
1973年10月  5.12ドル
1973年12月 11.65ドル
石油の公示価格は1973年の第四次中東戦争前の4倍、1971年の5倍以上に高騰したのです。

 

それでも、そのころ、イランが競売に出し、日本が落札したバーレル当たり17ドルよりはるかに低くした価格であるとパーレビ国王が語ったと言われています。また彼はこんなことも言いました。

 

「彼らは安い石油を踏み台にしてすさまじい発展を遂げ、さらにすさまじい金の荒稼ぎをやってきたが、わが世の春は終わったということを自覚すべきだ。--------」

 

OPEC諸国の石油削減・禁輸政策は西側同盟諸国に亀裂を生じさせました。OPECの石油削減が禁輸が開始されるとフランスなどヨーロッパ諸国はアメリカを離れ、中東擁護にまわりました。その結果、12月にはこれ以上の削減が免除されました。

 

キッシンジャーは11月14日に日本を訪れ、大平外相と会談し、翌15日田中角栄首相と会談し、アメリカとの協調を依頼したにもかかわらず、11月22日、日本の産業界に押された田中角栄首相もまた親アラブの声明を発表しました。

 

各国の戦略的行動の中で一人奮闘していたのがアメリカ外交の中心人物キッシンジャーでした。キッシンジャーはエジプトサダト大統領とイスラエルを説得し、1974年1月18日、エジプト・イスラエル間の兵力引き離し協定にこぎつけました。

 

サダト大統領がアメリカに協調し、停戦に応じた理由は「イスラエルを奇襲し戦争を始めた目的は政治的変化を促すため」だったからです。

 

彼は戦争も禁輸もその目的に達したから終りにすべきだ。ウォーターゲート事件で揺れてはいるが大国アメリカをこれ以上、締め付ける行動を続けることはエジプトのためにも良くないことであると気づいたのです。

 

1974年1月キッシンジャーサウジアラビアを訪問し、ファイサル国王に合い禁輸措置解除を訴えました。2月ファイサルはアルジェリアサダト大統領、シリアのアサド大統領およびアルジェリアの大統領と会談し、これ以上、禁輸措置を続行しても効果が期待できないことを説明しました。

 

1974年3月18日アラブ石油相は禁輸解除に合意しました。ただし、シリアとリビアは解除に異議を唱えたと言われています。

 

1974年5月キッシンジャーはシリア・イスラエル間の停戦協定に成功し、6月10日よりニクソン大統領はエジプト、イスラエル、シリア、サウジアラビアを歴訪し、第4次中東戦争と石油禁輸措置は終焉を迎えました。

 

6月14日、ニクソン大統領はエジプトで大歓迎を受けましたがその2ヶ月後の8月8日にウォーターゲート事件の責任を取り任期半ばで大統領を辞任することになります。大統領辞任はアメリ憲法史上の汚点となりましたが一方ではアメリカ民主主義とジャーナリズムの健全さを証明した事件でした。

 

過去何十年にわたり、メジャーとの価格交渉や主権奪回の試みに敗れていたOPEC諸国、特にアラブ諸国は遂に、石油を政治的武器として価格決定権をメジャーから奪うことに成功したのです。そして次に石油会社の経営に向かって本格的に乗り出すことになります。

 

先進工業国の経済成長は第1石油危機で10年遅れたともいわれます。また、発展途上国は燃料価格などの上昇で対外債務は巨額に増えることになりました。

 

第一次石油危機による石油価格の上昇は石油の消費を減少させ、消費量増加に歯止めをかけたのです。この影響はやがて世界的な景気の後退となって表われてくるのです。

 

【参考】
(1)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(2)「20世紀の全記録(クロニック)」、小松左京堺屋太一立花隆講談社、1987年
(3)「狼がやってきた日」柳田邦男、(株)文芸春秋、1979年