石油の歴史No42【メジャーの産油国支配に亀裂を入れた男「エンリコ・マッティ」】

イメージ 1

1920年代にイタリアはフランスにならい、国際石油会社に追いつこうと石油の精製・販売する国営の石油会社(AGIP)を設立しました。1930年代半ばまでにはAGIPは国内ではシェルなどの国際資本と同等の市場を持っていましたが、国外の市場はゼロに近い状態でした。第二次大戦後、イタリアではドイツ・日本と同様に戦争で被害を受けた石油施設の復興が始まっていました。

 

エンリコ・マッティは第二次大戦中、ムッソリーニ政権に抵抗したカトリック教系のレジスタンスのリーダーだった人物で、終戦後、指導力を買われ、北イタリアに残ったAGIP(イタリア国営石油会社)の経営者に抜擢されました。マッティはアングロイラニアンから石油を買い、AGIPの流通網に乗せ、イタリア国内では外国資本のシェルやエッソに並ぶ市場シェアにしたのです。

 

そして、マッティはカトリック党の影響ある指導者の一人であったのでこの地位を利用し、イタリアでの石油採掘権をAGIPに独占させ、油田調査に乗り出します。

 

しかし、イタリア北部のポー渓谷に原油はありませんでしたが大規模な天然ガスが発見されました。マッティは天然ガスの開発に乗り出します。そして、パイプラインを設置し、井戸の数を増やしていきました。それまで、ヨーロッパには大規模なガス採掘の前例がなく、マッティは天然ガス事業という一つの産業を作りだしました。

 

2年間でイタリア全体を6000キロをパイプラインで覆い、250万の家庭と2000の工場にガスを供給するようになりました。マッティの天然ガスでの成功は天然資源に乏しいイタリアでは国民を沸き立たせ、英雄となりました。

 

マッティは1953年にイタリア政府炭化水素公社(ENI)を設立し、自らその総裁に就きました。そして国際石油資本に本格的に戦いを挑む体制を整えたのです。ENIの拡大とともに、マッティは自惚れも強くなってきます。

 

マッティは国際石油資本が独占している世界市場に割り込もうとしましたがそれは容易なことではありませんでした。マッティは国際石油市場を独占している大手カルテルを攻撃します。多角的な共同事業で強固に結びついた国際石油資本をやっかみ半分にセッテ・ソレン「7人の魔女(セブンシスターズ)」と呼び、それが全世界に広がりました。

 

マッティは国際石油資本カルテルのメンバー加入を期待し、1951年モサデクがアングロ・イラニアンの石油利権を国有化した時、メジャー各社のイラン石油の国際石油市場ボイコットに協力しました。

 

yaseta.hateblo.jp

そして、モサデク政権崩壊後、マッティは米英両国政府と国際石油資本が結成するコンソーシアムに加入できると思っていましたが、CFP(フランス石油)やアメリカの独占禁止法から逃れるためにイランで石油を生産する必要のないアメリカの独立系石油会社を加入させ、資源がなく、中東石油に依存しているイタリアは外されたのです。これにマッテイは激怒し、いつか、報復しようと機会を狙っていました。

 

yaseta.hateblo.jp

その機会は1957年のスエズ動乱の後訪れました。マッティは石油輸出国の民族主義の高まりに乗じ、イラン新しい指導者パーレビ国王に接近し、イラン国営石油公社と協定を締結しました。協定はイランが利益の75%を得るのに対し、ENIの取り分は25%でした。この協定にはセブンシスターズだけでなくアメリカ、イギリス政府も大きな衝撃を受けました。

 

イタリアは利益折半協定を無視し、国際石油市場の秩序を乱すものとセブンシスターズ各社は非難し、イギリス・アメリカはイラン国王に撤回を求めますが無駄でした。マッティはイランと共同で石油開発を強行しました。

 

石油は発見されず、マッティの夢であった油田獲得は失敗に終わりましたがセブンシスターズがこれまで苦労して維持してきた利益折半協定の壁に大きな亀裂を生じさせ、マッティの復讐は達成されたのでした。しかし、利益折半協定の秩序を乱したのはマッティだけではなく、一匹狼のアメリカ独立系石油業者ポール・ゲッティや日本のアラビア太郎もおりました。

 

ゲッテイとアラビア太郎

yaseta.hateblo.jp

マッティはENIとその石油部門のAGIPをセブンシスターズに並ぶ国際石油資本に育て上げようと必死に努力を続けていました。セブンシスターズ各社はソ連の安い石油がヨーロッパに入ると市場を乱すと協定を結び制限していましたが、マッティは安いソ連産石油を購入し、国内の市場を拡大し、シェルやエッソに打撃を与えました。さらにイタリアの石油パイプラインとヨーロッパ進出を目論んでいるソ連の石油パイプラインと接続することを考えていました。

 

アメリカやイギリスは共産主義国ソ連の石油のヨーロッパ進出に国家安全保障上、強い警戒感を抱いていました。これにはさすがのマッティも考え、セブンシスターズとの戦いを止め、妥協することを考え始めました。

 

マッティはエクソンとの協定を交わすことになりアメリカ出張し、ケネディ大統領と会見する予定になりました。その準備の中、1962年10月27日マッティは自家用ジェット機シチリアを離陸し、ミラノに向かっていました。途中、激しい雷雨に会い、ミラノ近郊に墜落しました。マッティ享年56歳、彼が作り上げた帝国の絶頂期に、無念の死をとげたのです。国際石油資本に挑戦した彼の激しい性格故にアメリカやイギリスの諜報機関やマフィアに暗殺という説も流れたほどでした。

 

彼が1957年にイランと独自に結んだ破格の協定は、セブンシスターズの利益折半協定は産油国に損害与えている印象を与えてしまいました。続いて、利益折半協定を破る新しい契約で日本はアラビアの中立地帯に利権を獲得したことは、中東、中南米産油国に自信を与え、ナショナリズムの高揚とともにセブンシスターズの支配権に陰りが現れてきました。

 

【参考】
(1)「海外ドキュメンタリー「石油」第5回、第6回」、フランスT.F.I
(2)「増補 国際石油産業」、浜渦哲雄、日本経済評論者、1994年
(3)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年