石油の歴史No09【アングロ・ペルシャ・オイルの設立】

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19世紀末、ペルシャ帝国(現在のイラン)は凋落の一歩にあり、ヨーロッパの強国は領土を狙っていました。

何世紀もの間、燃え続けている“神の火”に興味を示したのはオーストリア鉱山技師のノックス・ダーシーでした。
オーストラリアで金鉱を掘り当て、巨大な富を蓄えていた彼は“神の火”の話を聞き、石油ではないかと思い、冒険心を沸き起こしました。

彼はペルシャ国王に交渉して、4万ポンドの他、16%の利権料を払うことで60年間、国土の四分の三に及ぶ地域の石油利権を手にしました。

地質学者のジョージ・レイノルズをペルシャに送り込み、灼熱の地獄の中を調査は6年わたり行われますが、どこを掘っても石油は出てきません。
ダーシーの資金は底を突き、ビルマ石油から資金の提供を受け、掘り続けますが、空井戸だけでした。その資金も底を突き、ダーシーは破産宣告を受け、すべてが終わったかにみえた1907年、奇跡がおきました。

ペルシャ湾のアバダンより200キロメートル北のマスジット・イ・スレイマンで石油が噴出したのです。ロンドン宛の彼の電報が史上最大の油田を世界に公表したのです。

1895年頃、ヨーロッパ、アメリカで“馬無し馬車”自動車が人気になり、急速に発展してきます。
1910年頃には石油産業は猛烈に伸びるガソリンの需要に対応する必要にせまられます。

1904年、海軍大臣になったフィッシャー提督イギリス海軍の軍事力を強化するため、艦隊の燃料を石炭から石油に変えるべきと主張し、油田開発を願い、ペルシャで苦しんでいるダーシーにビルマ石油が投資するように働きかけました。

1909年、イギリス政府はアングロ・ペルシャ・オイルを設立しますが、幹部すべて、イギリス外務省出身者で固められ、石油を発見したダーシーは蚊帳の外に置かれました。
アングロ・ペルシャ・オイルは純粋な企業としてイギリス政府の支配下におかれました。

1910年アスキス政権の商務大臣ウインストン・チャーチルと大蔵大臣ロイド・ジョージは海軍予算を抑制し、社会福祉予算に回すべきと主張していました。しかし、チャーチルは1911年ドイツ海軍の艦船増強や不穏な動きに考えを変えました。1911海軍大臣に就任したチャーチルはフィシャー提督の後押しを受け、1912年、海軍の艦船すべてを石炭から石油に変換する計画を決定しました。

こうして、石油史上において、自動車の出現に続き、艦船の石油燃料化というもうひとつの革命がイギリス海軍によって起こされました。

1910年始めアングロ・ペルシャ・オイルはペルシャ湾岸のアバダンで港の建設に着手していましたが、さらに油田のあるマスジット・イ・スレイマンからアバダンまでの200キロメートルのパイプライン建設を進め、1914年に完成しました。

1914年、チャーチルは戦争時の燃料確保に備え、アングロ・ペルシャ・オイルの株を51%購入させました。
そして、イギリス海軍省に置かれたアングロ・ペルシャ・オイルはスタンダード・オイルとシェルに並ぶ石油業界の三巨頭に成長します。

ペルシャへの石油依存度は万一を考えて40%とし、ドイツとの戦争を念頭におき、油田を各地に持っているシェルにも石油の供給を求めました。

第一次世界大戦の3ヶ月前のことでした。