樋口次郎兼光 → 光信 → 兼明 → 兼基 → (9代略) → 兼定 → 兼村 →
→ 樋口惣右衛門兼豊 → 与六兼続(直江氏を継ぐ)
| 与七実頼(小国氏を継ぎ、後に大国姓となる)
| 与八秀兼(樋口氏を継ぐ)
| 長女きた(須田満胤妻)
| 二女 (色部光長妻)
| 三女 (篠井泰信妻)
→ 樋口惣右衛門兼豊 → 与六兼続(直江氏を継ぐ)
| 与七実頼(小国氏を継ぎ、後に大国姓となる)
| 与八秀兼(樋口氏を継ぐ)
| 長女きた(須田満胤妻)
| 二女 (色部光長妻)
| 三女 (篠井泰信妻)
平家物語巻第九「樋口被討罰(ひぐちのきられ)」
しかし、都で合戦が始まっているという情報が入り、急いで引き返し、都へ向かいました。途中、今井の四郎の下人にぱったり合い、木曾義仲(木曽義仲)は討死にし、四天王の一人「今井四郎兼平」は自害したことを知りました。
木曾義仲の最期
樋口次郎は君の無念の最期にはらはらと涙をこぼし、各武将に「この上はどこへでも良いから落ち延び、出家入道して君の後世を弔ってください」と言い、私は都に登り討死にして、冥途で君と今井四郎と合うつもりですと言いました。
都に入った樋口次郎の軍は五百数十騎から二十数騎になっていました。都に入る道路の七条と朱雀に東国の軍が待ち構えていました。
樋口次郎の部下の茅野太郎(ちのたろう)という者が真っ先に敵目がけて駆け入り、大音声で「甲斐の一条次郎の軍勢はおられぬか」、「私は信濃の国、諏訪上の宮の住人、茅野の大夫光家の子で茅野太郎光広と申すものである」、「そちら側に弟の茅野七郎がいるはずである」、「弟の七郎の前で討死して、信濃の国の父に立派に死んだと伝えて欲しくまかり出た」と叫びました。
軍勢の中、一人突っ込み、三人を斬って落とし、4人目と組み合ったまま地面に落ち、刺し違えて死んでしまいました。
(茨城女子短期大学の武田昌憲教授の話によると、当時は敵味方に兄弟を入れ、どちらが負けても、家系が存続させ、途絶えないようにすることが珍しくなかったそうです。)
敵方の児玉党(武蔵の国現(在の埼玉県)児玉郡児玉庄の住人)は樋口次郎と親しかったので、樋口次郎に呼び掛けました。木曾どのは既にお討たれになった。我らに降伏なされ、われわれの手柄の報償がわりに命をお助けしよう、出家入道して木曾殿の後世を弔いなされと説得しました。
しかし、側にいた公卿(くぎょう)、殿上人、局(つぼね)住みの女達は「木曾は法住寺殿を襲い、火を放ち多くの人を殺した。そのとき、あちこちで今井、樋口という声が聞こえた。」、この者たちを許すことには反対であると口ぐちに叫んだので、一転して死罪を申し渡されてしまいました。
そして、1184年1月24日、木曾義仲と余党の首が都大路を引き回されました。樋口次郎は首のお伴をしたいという願いが聞き入れられ、藍摺り(あいずり)の狩衣と立烏帽子(たてえぼし)をきせられ、引き回され、翌日1月25日、斬首されました。
源範頼(のりより)と源義経(よしつね)は樋口次郎を許すようにいろいろ手をつくしたけれど「今井、樋口、楯、根井(ねのい)という木曾の四天王の一人で、これを許せば、養虎の憂い(*1)になる」という院の命令があって斬られたということでした。
つてに聞く、虎狼の国(*2)衰へて、諸侯蜂の如く起りし時、沛公(はいこう)(*3)先に咸陽宮(かんようきゅう)(*4)に入るといへども、項羽(*5)が後に来たらんことを恐れて、妻(さい)は美人をもをかさず、金銀珠玉(きんぎんしゅぎょく)をも掠(かす)めず、徒(いたずら)に函谷(かんこく)の関(*6)を守って、漸々(ぜんぜん)にかたきをほろぼして、天下を治する事を得たりき。
されば木曾の左馬頭(さまのかみ)、まづ、都へ入るといふとも、頼朝朝臣(あそん)の命にしたがはましかば、沛公(はいこう)がはかり事におとらざりまし。
【参考】
(*1)養虎の憂い:害をなすものを放置して後で難を招くこと(史記・項羽本紀)
(*2)秦の国:「秦王は虎狼の心あり」史記・項羽本紀)、「秦ハ虎狼之国也」戦国策。秦王は紀元前221年、中国を統一し、初めて自らを皇帝(始皇帝)と名乗った。始皇帝は領土防衛のため万里の長城を築いたり、改革などを行ったが農民などを強制的に使い、内乱を招き、項羽との戦いで破れ、紀元前206年に滅亡した。
(*3)沛公(はいこう):劉邦、漢の国を興し、漢の高祖(前漢、紀元前202年~紀元前195年)といわれた。
(*4)咸陽宮(かんようきゅう):秦の首都、咸陽にある宮殿
(*5)項羽:紀元前209年関羽、劉邦が秦国の衰えに乗じ、挙兵する。紀元前202年項羽は劉邦に敗れる
(*6)函谷(かんこく)の関:函谷関(かんこくかん):戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)、秦によって東方の国の侵入を防ぐために作られた関所で鳥居忱(まこと)作詞、滝連太郎作詞の「箱根八里」の歌「箱根の山は天下の険、函谷関も物ならず」に登場する。
(*1)養虎の憂い:害をなすものを放置して後で難を招くこと(史記・項羽本紀)
(*2)秦の国:「秦王は虎狼の心あり」史記・項羽本紀)、「秦ハ虎狼之国也」戦国策。秦王は紀元前221年、中国を統一し、初めて自らを皇帝(始皇帝)と名乗った。始皇帝は領土防衛のため万里の長城を築いたり、改革などを行ったが農民などを強制的に使い、内乱を招き、項羽との戦いで破れ、紀元前206年に滅亡した。
(*3)沛公(はいこう):劉邦、漢の国を興し、漢の高祖(前漢、紀元前202年~紀元前195年)といわれた。
(*4)咸陽宮(かんようきゅう):秦の首都、咸陽にある宮殿
(*5)項羽:紀元前209年関羽、劉邦が秦国の衰えに乗じ、挙兵する。紀元前202年項羽は劉邦に敗れる
(*6)函谷(かんこく)の関:函谷関(かんこくかん):戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)、秦によって東方の国の侵入を防ぐために作られた関所で鳥居忱(まこと)作詞、滝連太郎作詞の「箱根八里」の歌「箱根の山は天下の険、函谷関も物ならず」に登場する。