徒然草は序段および243段から成り、内容は聖徳太子のお墓の話の622年頃の飛鳥時代から兼好より約18年先輩で歌人・漢詩・文章博士(もんじょうはかせ)平惟継(これつぐ)の話の1342年頃の鎌倉時代末期までの約720年の間の話題を綴っています。
吉田兼好はどういういきさつで朝廷に出仕、出家隠遁し、どのように徒然草を執筆し、また歌人として活動したのかはっきりしていません。しかし、実際に『徒然草』、『兼好自撰集』を作り、『続後拾遺和歌集』、『続千載和歌集』などに入集和歌を残しており、研究者によって推定時期が異なる場合がありますが、およその経歴や執筆に関することがらが推定されています。
幾つかの資料から吉田兼好の経歴と生きた時代の超概略を記述します。
【吉田兼好の家系と朝廷勤務】
卜部(うらべ)氏は古代から続く神祇官の家系で、一条天皇(986~1011)から「兼」の字を賜わって以来、通り名となり、中世に吉田神社の社家を世襲しました。(参考1)
兼好の父、卜部兼顕(うらべかねあき)は、1286(弘安9年)の後宇多天皇の行幸の際、春日社の宮主として卜筮(ぼくぜい)を司(つかさど)る職に就き、1302年に「正四位下(しょうしいげ)」「神祇権大副(じんぎごんのだいふく)」に任ぜられました。(参考2)。
長男の卜部兼清は出家し、慈遍と改名、天台宗の高僧となり、次男の卜部兼雄は春日社の宮主を継承し、1311(応長元年)年「正六位上(しょうろくいじょう)」「神祇官宮主(じんぎかんきゅうしゅ)」に任ぜられ、その後、「従五位下(じゅごいげ)」を授与されています(参考2)。
吉田兼好(かねよし)は父卜部兼顕(かねあき)が吉田神社の社務職の頃、三男として1283年(弘安六年)に生まれ、1301年18歳の頃、六位蔵人の官位官職を得て後二条天皇の朝廷に出仕しました。。
(内裏の蔵人を勤めた時期は兼好の見聞記事(45段)から後二条天皇の即位、土御門定実(さだざね)が太政大臣となった1301年(正安3年)頃と推定されています。)(参考3)
兼好は宮廷生活の間、大覚寺で主催の定期歌道会の師範を務め、また、二条為世(ためよ)の門下になり、和歌を学んだり、有職故実(ゆうそくこじつ)の知識を吸収したり、和・漢・仏にわたる広い教養を得たり、恋愛の経験もしたといいます。
【吉田兼好出家後の経歴】
1313年までに四位蔵人兼左兵衛佐で朝廷を退職し、出家・東山に籠居した(参考3)、となってますが、別の資料では1311年(28歳)に退職(参考1)したと推定されています。
1313年(30歳)六条三位家から小野庄(京都市山科区山科)の水田一町を購入。
1314年(31歳)修学院に籠居。
1318年金沢(横浜市金沢区)下向。
1320年(38歳)比叡山の近くの横川(よかわ)に籠居。
1322年小野庄を柳殿(尼衆寺)に塔頭用に売寄進。寄進状には自ら「沙弥兼好」と署名。
*塔頭(たっちゅう) : 本寺の境内にある小寺。わきでら。
1323年(41歳)横川から下山、京の双ヶ岡(ならびがおか)へ移り住み、歌人になる。
1317~1331年の14年にわたり徒然草を執筆するも注目されず。
1352年 吉田兼好死去(69歳)
徒然草が武士で歌人の今川了俊の弟子「正徹(しょうてつ)」によって世に出るのは死去してから79年後の1431年の室町時代でした。
遁世者「兼好」は政治には関心がなく、徒然草の章段には政治にかかわることをまったく言及することはありません。かといって、世間と断絶したわけでなく、修行後、京に移り住み、二条流和歌の宗家や朝廷にも出入し・交流しており、情報は把握していたと思われます。
そのため、上段に示した年表を見ると徒然草の章段のさりげない話のなかに、朝廷の分裂・倒幕運動・鎌倉幕府滅亡そして新たな武家政権誕生と大きな事件と関連した政治的な影響が如実に表れており、吉田兼好の生きた時代は激動の時期だったのです。
【参考】
1.「徒然草諸注集成」、田辺爵、右文書院
2.「徒然草の歴史学」五味文彦、朝日選書557、朝日新聞社、1997・5・25
3.「新編 日本古典文学全集 44 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄」神田秀夫 永積安明 安良岡康作、
小学館、1995・3・10