石油の歴史No25【満州に活路を求めた日本】

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1904年(明治37年)日露戦争が起こり、日本は苦戦しながらも勝利し、1905年ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保、遼東半島の租借権、東清鉄道南部(長春・旅順間)の経営権、樺太の南半分の譲渡を獲得しました。

1906年日本政府は半官半民の国策会社「南満州鉄道株式会社」通称、満鉄を設立しました。

満洲の資源開発を急ぐため、1907年満鉄調査部を設置、鉱業部を作り、地質調査機構を大連に集中、また中央試験所を設立しました。

その後、数年かけ、東亜経済調査局、撫順露天掘り事業がはじまり、油母頁岩採油試験そして満鉄統計資料、経済調査資料、満洲地質資料などが定期発行されるようになりました。

1940年(昭和15年)頃までに、満鉄は満州を中心とした鉄道経営、調査のみに留まらず、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林牧畜など経営し、ホテル、図書館、学校などのインフラ整備も行いました。

そして、大連と長春間を走った特急列車「あじあ号」は内地のそれを遥かに凌ぐ、世界的にみてもレベルが高く、また、満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクとして今でも語りつがれています。

ブログ【日本の失敗の歴史「満州国建国」と「満洲で暮らした人達の思い出」】

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911年(明治44年)当時の日本の石油市場はスタンダード(現材、エクソン)、ライジングサン(現在のシェル)、日本石油、宝田石油の4社が熾烈な競争を展開していました。

この年の6月20日、出光佐三は北九州の探鉱、鉱業地帯近くの貿易港門司に出光商会を創業し石油販売業を始めました。
創業時は日本石油の特約店として潤滑油(機械油)は炭鉱、工場に、燃料油は漁船向けに販売しました。

1912年(大正元年)特約店として販売区域に制約があるため、満洲に販路を求め、1914年(昭和3年)満鉄に機械油販売に成功し、販売を拡大して行き、当時の満洲はスタンダード、シェル、テキサスが市場を独占していましたがその一角に地盤を築くことに成功しました。

明治、大正、昭和にかけ資源の少ない日本は新天地を求め、軍部が進出し、多くの日本人も満洲に渡りました。そして1936年(昭和11年)から本格的な満蒙開拓団満洲移民が始まりました。
1938年には満蒙開拓青少年義勇軍も結成され渡りました。

1928年(昭和3年)、関東軍の謀略により、奉天瀋陽)近郊の満鉄線路で列車が爆破され、張作霖(ちょうさくりん)が暗殺されました。
さらに、1931年(昭和6年)、その事件現場から数キロ先の柳条湖の満鉄線路で小規模な爆破事件を起こし、それを引き金に満州事変へ拡大していきました。 関東軍は勝利を収め、満州全土を占領、1932年3月、五族協和と王道楽土のスローガンを掲げ、満州国を建国しました。

一方、満鉄は拡大して行き、それに伴い1925年ら31年までに獣疫研究所、衛生研究所、技術研究所、理化学研究所などの研究所が設立されました。満鉄調査部は国家の要請に応じ、世界の列強国の情勢、研究、分析を行っていました。

日本軍の中国侵略に対し、国際的に批判が挙がりますが、1933年に日本は全権代表として松岡洋右を送り込み国際連盟を脱退し、孤立して行きました。

当時、軍需物資である日本の石油、鉄鋼製品、機械類はアメリカから大半を輸入しており、特に石油は輸入の75%がアメリカ、15%がオランダ領の東インドでしたが戦争に備え、外国系資本の企業に6ヶ月備蓄することなどを強制し、国内では石油など燃料の割り当て制、供給制限を実施しました。

日本の石油政策やアジアにおける行動にアメリカは次第に批判的になり、警戒を強めるようになりますがまだ、対日輸出は止めていませんでした。

1937年(昭和12年)北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突し、あの太平洋戦争へと拡大して行くきっかけとなった日中戦争が始まりました。
ブログ「幻の藘溝橋事件の中国共産党発砲説」

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1939年、ドイツのポーランド進攻し第二次世界大戦が始まるとともに、日本は日独伊三国同盟を締結し、1941年石油禁輸、資産凍結いわゆるABCD包囲網がしかれ、日米対立は本格的になり、石油などの天然資源を求め、インドネシアビルマなど南方に展開して行くことになったのでした。

1938年(昭和13年)4月松岡洋右が満鉄総裁として大調査部を創立したときは全スタッフ2125名、予算は800万円(現在の金に評価すると38億円に相当)、調査部は満鉄本社の大連にあり、奉天、ハルピン、天津、上海、南京、ニューヨーク、パリに事務所、出張所を出していました。

1939年(昭和14年)2月満鉄は撫順石炭液化工場試運転、6月石炭液化油製造に成功しましたが実戦に使用できるほどの合成石油を量的に安定して製造できる工場建設までは行きませんでした。

1938年(昭和13年)までに出光の海外石油販売店は中国(29)、台湾(7)、朝鮮(3)の計39店に拡大して行きました。そして、敗戦の1945年(昭和20年)には中国(51)、台湾(8)、朝鮮(6)の計65店になっていました。

【参考】
1.実録「満鉄調査部」、草柳大蔵、上巻、下巻、朝日新聞社、1979年
2.南満洲鉄道、フリー百科事典「ウィキペディアWikipedia)」
3.満洲事変、フリー百科事典「ウィキペディアWikipedia)」
4.「日本近現代史」、渡部昇一、海竜社、2004年
5.創業85周年写真集「石油の世紀 出光の歩み」、出光興産株式会社、1996年
6.石油の世紀、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年