石油の歴史No37【終戦前後の日本の石油事情】

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1943年頃の世界の油田
1942年(昭和17年)日本軍はボルネオ、スマトラ、ジャワ、マレー、ビルマなどを占領し、南方の豊富な石油資源を確保しましたが、昭和18年後半頃から戦況の悪化と共に石油資源も次々と失っていきました。
(図1 昭和18年頃の世界の油田)

 

1945年(昭和20年)になると南方の油田はすべて失い、本土内も空襲により主要な都市、工場地帯は壊滅的な被害受け、8月15日、日本は無条件降伏を受け入れ、終戦となりました。

 

終戦と同時に日本に進駐した連合軍の総司令部(GHQ)は日本の非軍事化と民主化を基本政策とし、政治、経済、社会全般に渡り、改革を求めました。

 

戦略物資、産業の根幹となる石油の輸入については占領軍の監視下におかれましたが、当時の日本は南方からの石油輸入は途絶え、戦争末期の爆撃で国内の石油施設の6割は操業不能になっていました。

 

1946年1月21日、GHQは石油輸入の全面禁止を発令しました。被害を免れた製油所で精製しようとするも石油の輸入は止められ、許可された国産の原油は少量しかありません。

 

旧海軍がいざという時に再生して使用するためにタンクに残していた廃油は戦時中使用されず終戦後も残っており、連合軍は日本政府に引き渡し、石油配給統制会社がもっていました。

 

石油配給統制会社はこの廃油を石油精製会社に配給しようとしましたがドロドロ、ベタベタで機械力でくみ上げることはできず、人手によって回収する他は道がありませんでした。そこで商工省は出光興産に収集作業を依頼しました。

 

タンクの底油回収作業はガス爆発、火災、窒息のため人命に危険があるため、一般の労務者ではなかなかできないことを知り、遂に社員自身の手でくみ出す決意し、みずからタンク底に入り込み、過酷な作業にいどみました。

 

1946年(昭和21年)4月~1947年10月までに厚岸、大湊、横浜、四日市舞鶴、呉、徳山、佐世保の旧海軍タンクなどから2万klの廃油を回収し、商工省の割り当てにより精製業者、廃油業者に引き渡しました。

 

この体験は、戦後の出光の艱難の象徴として語り継がれています。

 

山口県徳山市大迫田(*2)にあった旧海軍燃料廠の地下タンクは5万トンタンク12基ありました。(5万トンタンク:直径88m×高さ11m)

 

1946年9月GHQは太平洋沿岸の製油所に対し、11月をもって国産原油を含め石油精製操業の全面禁止令を発令しました。これはトルーマン大統領の特使「エドウィン・ポーレー」が勧告した報復色の強い「ポーレー報告」でした。

 

操業できなくなった各社は将来に備えて従業員を確保し、食わせるために石油各社はいろいろな事業をやりました。日本石油は薬品、くつずみ、ポマード製造、東亜燃料は製塩、製氷、アイスキャンデー、アメ、印刷インキ、製材など、出光興産はラジオ修理販売、農場経営、しょうゆ・酢、定置網漁業、印刷業、大協石油は薬品、食品などの事業を行い捲土重来に備えました。

 

GHQの中にG4と呼ばれる参謀本部兵站部燃料補給班があり、経済関係部署に経済科学局(ESS)がありました。G4がアメリカから石油を持ってきて、ESSに渡し、ESSは経済政策の立場から日本政府に割り当てていました。

 

G4は石油に素人の軍人の集まりだったので、G4の下に石油会社の代表からなる石油顧問団(PAG)をつくり、実務を担当していました。メンバーはスタンバック(*2)、カルテックス、タイドウオーター、ユニオン・オイルからの代表でした。

 

しかし、1947年頃から米ソ対立が起こり始めたこと、日本経済を早く独り立ちにさせ賠償をとりたいという方針からポーレー報告はあまりに過酷すぎ適切ではないと感じたアメリカ政府は1948年(昭和23年)3月8日ストライク調査団を派遣し、日本の精製業の解禁の方向で調査が始まりました。

 

4月21日、ストライク報告は日本の製油設備は時代遅れなので、スクラップにして東インド諸島(インドネシア)の近代設備で生産したものを輸入すべきという日本の石油関係者がショックを受ける報告がなされました。

 

戦前、日本に進出していた外資系石油会社はスタンバック、ライジングサン(23年親会社名シェルに戻す)、三菱石油と提携していたタイドウォーターの三社でした。

 

昭和23年頃は外資系との提携すれば石油精製業再開ができるに違いないという空気があり、昭和24年2月1日東燃はスタンバックが原油と製油技術を受けるということで東燃49対スタンバック51で提携しました。

 

その1ヵ月後の3月25日、日石とカルテックスが委託販売契約が成立し、昭和26年折半による日本石油精製を設立しました。

 

同じく3月、三菱石油とタイドウォーターの提携復活、6月、昭和石油とシェル、7月、興和石油とカルテックス、10月、丸善石油とユニオン・オイルと提携したのです。

 

意図的か結果的になったのかわかりませんが、アメリカ、ヨーロッパの民間石油会社の代表からなる占領軍石油顧問団(PAG)は日本市場を分割し、手に入れてしまったのです。

 

占領下の日本の石油産業は外資提携という形で国際石油資本の中に組み込まれながら、再建していくことになったのです。

yaseta.hateblo.jp

【参考】
(1)「石油」、大村一蔵、岩波書店、1944年
(2)「出光50年史」、出光興産株式会社、1970年
(3)「イラン石油を求めて-日章丸事件」、読売新聞戦後史班、読売新聞社、1981年
(*1)徳山市(現在の周南市)大迫田の旧海軍燃料廠は昭和30年代にタンクの撤去、造成、海岸の埋め立てを行い、海岸は出光興産の製油所、各会社の石油化学工場となり、既存の化学工場と結合し、周南石油コンビナートを形成、大迫田のタンク跡地は周南緑地、スポーツ施設、周南団地として生まれ変わりました。
昭和45年周南団地の一角に会社の独身寮「大河内寮」が新設され、私は市内の若草寮から引っ越しました。
(*2)ニュージャージー・スタンダードとニューヨーク・スタンダードの極東における合弁会社で後のモービルとエクソン