I 社が総合エネルギー会社になるきっかけとなった50年前のある出来事

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2008年6月末から7月は忙しくてブログの更新がほとんどできませんでした。

 

毎年、4月と10月に会社のOB会の会報を発行していますが私が担当になった2年前から一年半周期で編集主幹が回ってくるようになり、昨年の4月号に続き、回ってきました。

 

編集作業は全国7支部の会報委員が原稿を集め、Word文書にして写真とともに本部に送付してきます。

 

それを集め、本部の編集委員5人が校正作業を行い、編集主幹が収集し、文書と写真を各ジャンルに分け、写真を加工処理し、会報書式の文書に原稿と写真をレイアウトし、そのまま印刷できるように版下まで作成します。

 

今回は前号に続き、OB会設立30周年と会社創業100周年記念特集としての記事を載せることになっているため、通常A4班70頁程度の文書がが80頁を超えることになり、編集作業も増えることになりました。

 

さらに、私は自分に負担が来ることを予測もせず、「I社」が大きく発展する転機となった50年前の製油所建設の話について実際に携わった元幹部に執筆してもらうことを編集委員会に提案してしまいました。

 

結果、元幹部は高齢になっており、亡くなっている方も多くおられ、原稿執筆は無理ということになり、結局、私が当時の話を健在の元幹部数人から聞き、まとめることになりました。

 

その製油所建設が他の会社では考えられないようなユニークな話なのでその一部を紹介します。

 

会社創業者「SI」は1911年(明治44年)に北九州の門司で国内大手石油会社「N社」の特約店として石油販売会社「I社」を設立しました。

 

終戦前まで南満州鉄道はじめ極東アジア全域で潤滑油販売などを行い、中国、台湾、朝鮮に65の店舗を持つ会社になっていました。

 

敗戦で会社の資産をすべて失い、戦後は引き揚げ者とともにゼロから出発し、昭和24年(1949年)元売り業者制度が発足するとともに「I社」は元売り業者十社の一つに指定され、戦前から悲願だった製油所建設の準備を開始しました。

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昭和30年(1955年)に山口県徳山市(現在の周南市)の「海軍燃料廠」の跡地を国から払いさげてもらうことに成功し、製油所の建設が具体化されました。

 

しかし、「I社」は中途採用をしないという伝統がありましたし、装置の建設・運転・保守や石油研究などに経験ある技術者がほとんどおりませんでした。業界は「I社」が製油所を建設することは土台、無理であり、たとえ建設したとしても、装置の運転ができないだろうというのが大方の意見だったそうです。

 

創業者「SI」は戦前満州石油で製油所長をしていた甥のMYとMYの部下で運転・工務・計装などの技術者数人を入社させており、建設の総指揮者はMY、建設・運転・試験・研究のキーマンはMYの部下、建設現場の総監督はプラント建設会社NK社からヘッドハンターしたKKに任せることにしたのです。
KKさんは私の指導教授のY先生と旅順工大・満鉄での同僚でした。)

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ここまでは通常の会社とかわりませんが創業者「SI」は当時、世界最新鋭の石油精製プロセスと装置の導入とともに大胆な発想をしたのです。

 

実際に現場の運転・工務・電気計装・試験・副産物の有効利用の研究などを行う幹部人材として昭和30年(1955年)から昭和31年(1956年)の初めにかけ、全国の大学の講師、助手15名を採用したのです。

 

この中の何人かの人は技術導入するアメリカのUOP社にプラントの運転・保守技術の習得に行き、残りの何人かの人は国内の石油会社や計器メーカーに装置運転の実習や計器の保守技術を習得に行きました。

 

また、現場幹部の元で働く技術者を大学、高校の新卒を百数十人採用し、教育を行い、戦力にしたてあげたのです。

 

このようにして、昭和31年(1956年)5月、UOP社の技術者、プラントメーカーの技術者・監督者とともに「I社」の素人技術者が製油所建設を開始しました。そして、翌年の昭和32年(1957年)3月工期10ヶ月で完成したのです。

 

技術がほとんどいなかった「I社」が製油所建設を10カ月で完成させ、その2ヶ月後に稼働に入ったことに対し、業界は驚いたということでした。

 

戦後間もない時期までN社の一特約店だった「I社」が、その後、高度成長の波に乗り、拡大し、原油の採掘・輸入・製造・消費者直結の販売まで一気通貫した石油元売り業になり、総合エネルギー会社へ向かうことになったわけです。

 

ということで、この製油所建設は「I社」とって総合エネルギー会社になる第一歩を踏みだした大きな出来事でした。