当初、金銭的賠償でなく産業設備などによる実物賠償、特に、軍需的産業設備は取り立て対象でした。1946年(昭和21年)9月の「ポーレー報告」は過酷なものでした。
しかし、1947年(昭和22年)になり、米ソ対立が表面化してきて、同年3月のストライク報告では当初の実物賠償から生産物賠償を中心とした案に変化し、さらに、トルーマン大統領による反共封じ込め政策「トルーマン・ドクトリン」が発表されると日本を早く経済自立をさせ、自由陣営に組み込むべきと連合国の対日政策は転換していきました。
そして、元ニュージャージー・スタンダードのエンジアで米陸軍顧問「ヘンリー・H・ノエル」が日本の石油産業施設をつぶさに調査し、1949年3月25日に報告した「ノエル・レポート」は日本の石油関係者をして「ノエルの聖書」とまで言わしめた画期的なもので、戦後日本の石油産業の幕開けのきっかけとなりました。
【ノエル・レポートの要点】
1.日本の製油所は主に戦争用に使用されたが、多くは商業的見地から建設された。
1.日本の製油所は主に戦争用に使用されたが、多くは商業的見地から建設された。
2.製油所は近代的と言えないが、非効率を理由にけなす根拠はない。
3.日本以外に新設するより、国内の既存設備を復旧、または新設し、製品輸入を原油輸入に切り替えるほうがコスト的にも効率的にも有利である。
この報告を受け、太平洋岸の石油精製各社は製油所の復旧作業を急ぎ、1949年暮れから1950年春にかけ次々と操業を開始しました。
ノエル報告と同じ1949年(昭和24年)3月、それまで石油配給を一元管理していた政府の石油配給公団が廃止され、新たに元売り制度が発足しました。
元売業者として登録されたのは当時、製油所を持っていなかった出光興産、ゼネラル物産(後のゼネラル石油)、日本魚網船具(後の東燃と共同出資のキグナス石油)、シェルの4社と精製業者のスタンダード・バキューム(後のモービルおよびエッソ・スタンダード)、カルテックス、日本石油、三菱石油、日本鉱業、昭和石油6社の計10社でした。
これにより、出光興産は創業当時からの日本石油の特約店契約を解消しましました。
製油所の操業が開始され、原油処理量および石油製品生産量は1950年以降、飛躍的に増大していきます。
原油輸入量を見ると1949年(昭和24年)にわずか2万4千klだったのが、翌年1950年には一挙に60倍強の150万klとなり、さらに1953年(昭和28年)には570万klと1950年の4倍に増大しました。
製品生産量も1949年(昭和24年)に20万klだったのが、1950年には8倍170万klとなり、1953年(昭和28年)には600万klと1950年の3.5倍に増大しました。
元売り会社への製品割り当てはPAG(石油顧問団)と政府が行っていましたがスタンダード・バキューム24%、シェル24%、カルテックスと日石で25%と外資系が73%を占め、以下各社が5~6%と外資系が優遇されていました。
1951年(昭和26年)夏から1952年にかけ、石油業界では原油輸入か製品輸入かをめぐって激しいやり取りが行われ、ようやく、1952年1月から製品輸入に対しても外貨が割り当てられることになりました。
1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ講和条約が締結され、1952年4月発効しましたが、その年の5月、出光興産は外貨の割り当て50万ドルを受け、アメリカ西海岸から神戸に高オクタン価ガソリンを日章丸で5千klを運び、おおきな話題になりました。
オクタン価については下記【参考】
当時、国産のガソリンはオクタン価60でしたがアメリカから輸入したものはオクタン価75あり、箱根の山をエンストなしでのぼることができたそうです。