1970年後半から1980年後半までの石油関連の流れの一部を辿ってみます。
メキシコ、アラスカ、北海の油田が開発され、さらにエジプト、マレーシア、アンゴラ、中国など中小規模の油田が開発され、個々には中小規模ながら合計すると大きな量になりました。1980年前半、アメリカ全土でも原油の生産が伸び、アラスカ原油とあわせる大幅に増加しました。
需要の面でも変化が起きました。先進工業国の石油依存体質が石油高騰を招き、安全保障に影響を及ぼすことになると各国政府はエネルギー政策を変更し始めたのです。
政府の政策、企業の石油依存体質の方針転換により石油の需要が縮小し、工業国全エネルギー消費に占める割合は1978年53%から1985年には43%に低下しました。
全エネルギー消費に占める石油消費の割合が低下しているだけでなく、全エネルギーの消費自身も減少していたのです。それはエネルギーの節約、つまり省エネルギー技術が次々開発され、大きな効果をあげたのです。
1975年アメリカは10年後に自動車のガソリン消費率を1ガロン当たり27.5マイル(11.7km/l)と当時、14マイル/ガロン(6km/l)の走行距離の二倍に当たる燃費を義務付ける法律を作りました。これは1日当たり200万バレルの節約になり、当時生産開始したアラスカの1日の生産量200万バレルに相当するものでした。
これらを統合すると1973年に比較して1985年のエネルギー全体で25%効率化したことになり、その中で石油は32%の効率化したことになりました。
日本はエネルギー全体で35%、石油については実に54%効率化を行いました。需要の低落、非OPEC諸国の供給増、石油各社の在庫放出により世界の需要が1300万バール削減されたことになり、OPECの石油供給量は1979年に比べ、43%も落ち込みました。
イラン・イラク戦争で両国は大幅に輸出量を減らし一時供給不足の不安を招き、高騰したもののすぐ解消されたどころか逆に需要をはるかに超える生産能力がうまれ、供給量が過剰になってきたのです。
OPECは1977年まで自由世界の石油需要の三分の二を供給していました。しかし、新規石油輸出国が増えるにつれ割合が減少し、1982年になると非OPEC諸国がOPECの生産量を追い抜くようになりました。
そして、新規に開発された北海原油がスポット市場で売られ、供給過剰傾向の市場を反映し、OPECの石油公定価格より大きく下回り、徐々に市場全体に影響を与えるようになりました。
公定価格で石油を購入していた会社はスポット石油買いを増やしていきます。一方、新規輸出国は市場確保が必要のため、市場が反応しすぐに買い手がつくスポット市場に安値で参入してきたのです。
OPECの各メンバー国は独断で価格を下げるわけにはいきません。もし、独断実施すればOPECの石油価格決定機能が崩壊してしまい、せっかく、メジャーとの激しい闘争の末に獲得した石油利権とそれを利用した経済的、政治的優位性を損ない、影響力を失ってしまうことになります。
OPECの価格維持の結束は乱れますがOPECのリーダーであるサウジは公定価格1バレル34ドルを維持します。そして、OPECは生産制限をして対抗しますが、1982年秋になっても需要は回復せず、非OPEC諸国の生産は上昇し、スポット価格は再び下がりました。
さらに、1983年2月イギリスは北海原油を1バレル30ドルに値下げしました。この値下げでOPEC加盟国のナイジェリアの原油の輸出が止まり、経済に打撃を与え、経済悪化が政治を揺るがしかねない事態に陥りました。ナイジェリアは値下げには値下げで応えると30ドルに値下げしたのです。
ついにOPECも公式に値下げをせざるをえなくなり、1983年3月、1バレル29ドルと5ドル値下げし、生産の上限を1750万バレルと決定しました。そしてサウジアラビアは市場の動向をみながら供給量のバランスを取り、価格維持を維持する役目をすることにしたのです。しかし、これは非常に難しい仕事でした。
1960年代のセブンシスターズは原油生産・精製・販売までを握っており、また、全世界に張り巡らせた情報網によって石油製品の需要の変化を把握して、世界の需給を彼らの組織内でコントールできたのです。しかし、OPECは原油生産者の集まりに過ぎなく、原油の需給に対して供給しかコントロールできなかったのです。
石油の歴史No40【中東地域と世界石油市場を独占したセブンシスターズ】
1984年10月イギリスは30ドルから28ドル65セントに引き下げ、続いて、ナイジェリアも28ドル2セントに引き下げました。そして、石油価格下落の兆候はまだ続きます。そして1985年には27ドル、1986年から1988年には13ドル~15ドルと第二次オイルショック以前の1979年の価格レベルまで低下していきました。
第一次オイルショック以来、OPECは10年以上も石油価格の管理者として君臨してきましたが、第二次オイルショックを引き起こしたような強気の行動が石油需要の低下を招き、欧米諸国の石油開発、石炭や原子力の利用、省エネ対策に拍車をかけ、石油価格の管理者としての力は弱体化し、影響力が低下していきました。