イラン革命、イラン・イラク戦争の影響で石油価格の高騰が続くと思われた1979年~1980年初めにかけて、売り手市場で買い手は契約保証のためさらにプレミアムを払わなければなりませんでした。
これらの石油は現物市場だけでなく、スポット市場にも入るようになりました。この動きはこれまでの石油流通のメインルートであった国際石油資本の油田、製油所、市場という流通ルートを切断することにもなりました。
国際石油資本はこれまで、世界各地の石油資源の利権や直接関与を産油国に奪還され、多くの供給先を失いました。BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)はイランとナイジェリアを失い自社の供給元の40%を失ったと言われています。
セブンシスターズと言われ、石油市場を独占していた国際石油資本も自消分の石油さえ不足になり、他の石油会社への供給を停止し、新しい供給先を探さざるを得なくなったのです。そして、スポット市場に移ってきました。
また、国際石油資本からの供給を停止された多くの石油会社はGG原油取引やDD原油取引やスポット取引に移行していきました。(GG原油:政府間取引の原油、DD原油:開発事業通じまたは企業と直接取引した原油)
1970年代後半、世界の国際石油取引に対するスポット取引は10%以下でしたが第二次オイルショック後の1982年になるとスポット取引は50%に増加しました。
スポット市場が拡大した結果、石油会社の一貫操業のビジネスモデルは最適ではなくなってきました。スポット市場で安い原油を買い、精製、販売の各段階で省力化・効率化を行い、競争力を付ける。会社はそれぞれの段階で独立採算・最適化の方向に向いだしたのです。
石油の商品化の流れは石油産業の構造変化によりさらに加速されました。特に国際石油資本の力強かったアメリカではその影響は大きく、価格の規制始め石油にかけられていた多くの規制が撤廃され、アメリカの市場は活発になりました。
そして、このアメリカの市場経済型の石油生産方式は、これまでの国際石油資本やOPECの価格決定力が強かった世界の石油取引市場に大きな影響を与え、アメリカ原油の一つ(ウエスト・テキサス・インターメディエート(WTI:West Texas Intermediate)原油が世界の石油価格の指標となりました。
1983年ニューヨークマンハッタンの世界貿易センタービル8階にあるニューヨーク証券取引所(現在、原油先物取引はニューヨーク・マーカンタイル取引所「NYMEX:New York Mercantile Exchange」で行われている。)が原油の先物取引を開始し、その指標としてWTI(West Texas Intermediate)原油を指標として取り挙げたからでした。
スポット市場での石油取引は価格が変動し、不安定であるため、売買のリスクを最小限に抑えるため先物取引を導入しました。先物取引の歴史は古く1531年ベルギーのアントワープで穀物や香辛料の取引、1620年代の大阪堂島の米の取引、1848年のシカゴの小麦やトウモロコシの取引が行われ、その後、農作物、貴金属など多くの商品が取引されるようになりました。
農作物の先物取引の場合、買い手は収穫の数か月前に現時点で決めた価格で契約します。そして約束の時期が来たら売り手は契約価格で売り渡します。これにより、収穫期に農家がいっせいに売り出し、価格を暴落させたり、収穫期以外は品不足のため価格が値上がりするというリスクを回避することができるようになります。
WTI原油が先物取引に上場され、これまでのビジネスモデルが変化しつつある中で経営陣の中には石油の一貫操業という従来の考えに固執し、新しい時代の流れを受け入れられず対立する事態も発生しました。あるメジャーの専務は石油の先物取引に対して「石油の取引は複雑な技術と膨大な設備に支えられ、長期にわたって築いた相互関係より成り立っている。わずか二時間ばかりの間で決める先物取引という得体が知らないものにかかわる若造達は石油企業との間にどんな関係があるのか」と怒りをあらわにします。
しかし、時代の流れの中で先物取引市場に流れる石油は急増し、石油価格は毎日公開された市場で決まっていきました。そして、先物取引のWTIの価格は金価格、ダウ平均株価などと並ぶ日々の世界経済状況を表す重要な指標となっていきました。