石油の歴史No52【産油国が完全勝利したメジャーとの利権争奪戦】

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【石油利権】
【イラン】
メジャーは中東地域の油田を独占していましたが1952年のイランモサデク首相のアングロイラニアン国有化をきっかけに次第に国有化され油田や経営権を失っていきます。

 

石油の歴史No35【イランのアングロイラニアン国有化】 

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イラク

1972年イラクは欧米の石油会社「イラク石油」の全資産と経営権を国有化しました。イラク石油は1912年イギリスのシェル、フランスのCFP、アメリカのスタンダード・ニュージャージーが1912年に設立したトルコ石油の改称です。

 

石油の歴史No43【王制から共和制転換したイラク

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 そして、1973年のオイルショック後は産油国の外国石油企業国有化が一気に加速していきます。

 

クウェート
クウェート石油は1934年、アングロペルシャ(後のBP)とガルフ石油によって創設され、1974年クウェートは60%を国有化し、1975年残りの利権40%を取得し100%クウェート国営石油会社のものとなりました。BPとガルフは20億ドルの補償を要求したが2社が受け取ったのは5000万ドルでした。

 

ベネズエラのアルファンソやサウジのタリキそしてヤマニの長年の夢であった外国企業から自国の石油利権の奪還が実現するその時が訪れます。

 

石油の歴史No44【OPEC設立の立役者「ベネズエラのアルファンソとサウジのタリキ」】
1971年ベネズエラは1983年に国内の外国石油企業の全資産と経営権の返還を義務づける法律「返還法」を制定しました。しかし、1973年のOPECの勝利で民族主義が高揚し、1983年の期限を待たずして国有化実施の動きが出てきました。

 

ベネズエラ国内は直ちに外国企業を強制的に接収すべきと主張する強硬派と穏やかな話し合いで決着すべきと主張する穏健派に議論が分かれ混乱しました。

 

そんな中、穏健派のカルロス・アンドレス・ペレスが大統領に就任しました。そして、ベネズエラ国営石油会社「ペトロレス・デ・ベネズエラ(PDVSA)」を設立し、政治家と石油企業側の緩衝役として現実的な問題解決法を選び、1976年に国有化が実施されました。

 

サウジアラビア
アラムコ(ARAMCO:Arabian American Oil Company)1945年設立
スタンダード・オイル・オブ・カルフォルニア「(ソーカル)後にガルフと合併しシェブロンに)
②テキサコ
スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー、「後のエクソン
スタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク「(ソコニー)後のモービル」

 

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1972年ヤマニ石油相はサウジアラビアとアラムコ間のパーティシペーション協定25%の利権を得て、以後段階的に率を変更し、1983年までに51%の利権を所有するという条件は反古し、1974には60%まで獲得しました。

 

ヤマニはさらにアラムコの全資産と100%経営権提供を迫りました。この段階で実際の操業や経営はサウジアラビア政府に管理されておりアラムコ側は何もできない状態でした。

 

そして、1976年アラムコ(Aramco:Arabian American Oil Company)はサウジ国営石油会社「サウジ・アラムコ(Saudi Aramco:Saudi Arabian Oil Company)」のものとなり、43年前、ソーカルが利権を獲得し試掘をはじめてから1976年の現在、自由世界の石油埋蔵量の約四分一以上が眠るサウジアラビアの石油利権を完全に失うことになりました。

 

旧アラムコのソーカル、テキサコ、エクソン、モービルは油脈の探査、採掘、輸送、プラントの管理など技術提供を行い見返りとしてサウジ原油の優先的受取ることになりました。

 

1965年当時、絶大な力を誇っていたメジャーの一つテキサコがオーストリアのウィーンにあるテキサコ・ビルと呼ばれるモダンなビルに入っていました。

 

1965年そのビルにOPECの本部が入りましたがまだ産油国の利権は欧米諸国のメジャーに支配されており、産油国の石油パワーはほとんどなく注目されることはありませんでした。

 

ところが1976年頃になるとその国際的地位は逆転し、OPECが石油価格を支配するようになるとテキサコビルのOPECの本部は世界中から注目されるようになり、いつしかOPECビルと呼ばれるようになりました。

  

【参考】
(1)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(2)「シリーズ世界の企業 石油産業」、十市 勉、日本経済新聞社、1987年