石油の歴史No62【第二次石油危機の経済不況を撥ね除けた日本の工業品輸出増】

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イラン・イラク戦争 

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日本は1971年の1ドル360円の固定相場制から変動相場制に移行して9年目になり、1ドル217円になっていましたが1971年変動相場制に移行した年の為替は335円/ドル(原油価格は2.3ドル/バレル)でしたが、徐々に円高を続け、1979年6月為替230円/ドル(原油価格を24ドル/バレル)に、1980年12月為替250円/ドル(原油価格は36ドル/バレル)でした。そして、1985年には為替220円/ドル(原油価格は27ドル/バレル)になっていました。

 

1973年の第一次石油ショック以来、燃費の良い日本の小型車売上を伸ばし、1979年の第二次石油危機でGM、フォードの大型車販売が急激に落ちていきました。1980年の小型車中心の日本の年間自動車生産台数は1,000万台を突破し、世界一になりました。石油需要は落ちる中、日本のEEC(ヨーロッパ経済共同体)への自動車、カラーテレビなどの輸出が増加し、貿易摩擦が生じはじめました。ECは1981年1月、輸入監視制度を導入するとともにEC外相理事会は日本市場の一層の開放を求め圧力をかけました。

 

1981年2月アメリカの1月の対日貿易赤字が16億6000万ドルで史上最高と発表されるやアメリカ国内に日本の輸出攻勢に対し非難が起こりました。5月に日本は乗用車の1981年対米輸出を168万台に自主規制することでアメリカと合意しました。6月にはカナダに対し、前年比10%増以内の輸出自主規制することを通告しました。このように日本の輸出攻勢が貿易摩擦を引き起こしていました。1985年3月、ガット(関税および貿易に関する一般協定)の年次報告書で西ドイツに代わり、日本が初めて1984年の工業品輸出額で世界一になったと発表されました。

 

自動車や家電や機械などの輸出に支えられ、日本の景気の落ち込みは全般をみると第二次石油危機による影響が第一次石油危機に比べ軽微なものにとどまりました。しかし、日本の高度経済成長は終焉し、経済成長は緩慢になり、素材産業に見られる規模の経済性は成り立たなくなりました。エネルギー消費型産業は省資源・省エネルギーの徹底による素材の節約や経済のソフト化やサービス化に伴い素材の需要が低下していきました。そして、需要の落ち込みがそのまま生産設備の過剰となり、石油、石油化学、化学繊維、鉄鋼、アルミ、肥料、紙などの素材産業は構造不況に陥り、設備廃棄、事業転換など統廃合を余儀なくされました。

 

日本の石油精製会社の生産設備と需要のギャップは20%以上で石油化学は30%以上でした。1982年に石油化学、1983年に石油精製業が特定不況業種に指定され、過剰設備の処理をすることになりました。

 

西側先進工業国は第二次石油危機で高騰した原油価格が企業活動にブレーキをかけ、不況下の需要減退、OPECの原油価格値上げに対抗し行った天然ガス原子力の利用などの石油依存率低下対策や省エネ対策、そして北海油田中南米原油生産量の増加により、1982年過ぎる頃になると石油の供給過剰を生み出し、原油価格下落を生み出していました。

 

1980年12月36ドル/バレルという2年前の3倍の原油価格に値上げし、第二次石油危機を引き起こしたがその後、間もなく、不況下の需要減退と北海油田中南米などの生産量増加で原油価格は下落し始めました。1983年3月OPECは原油価格を29ドル/バレルに値下げし、日量生産量を1750万バレルに抑えることを宣言しましたが、既に、OPECの世界石油市場における影響力はなくなっていました。

 

1981年1月、ジミー・カーターに代わり、キャッチフレーズ「強いアメリカ」を掲げて登場した共和党ロナルド・レーガン大統領は新自由主義政策を進め、1984年11月に再選されました。そして、2期目に入って間もない1985年5月、先進7カ国(G7)経済会議(経済サミット)がボンで開催されました。

 

他のエネルギー資源の利用、省エネも功を奏し、原油価格が下落し、世界の経済後退の恐れは遠のき、景気は持ち直し、サミットのテーマもこれまでの「石油とエネルギー問題」即ち「産油国と西側先進国との問題」からは「日本の輸出攻勢と貿易障壁問題」に象徴される「先進工業国間の問題」に関する市場開放、政府規制緩和、民営化の3つが取り上げられました。

 

西側工業先進国諸国は既に、市場開放、政府規制緩和、民営化に取り組んできており、1983年の原油先物取引化や貿易規模の拡大化などグローバル化した経済に対して連携して対応する必要性に迫られてきていたのです。原油価格は世界市場の動きにより影響を受けるようになりました。

 

一方、国内では1973年の第一次石油危機、1979年~81の第二次石油危機の教訓を経て原油の戦略的備蓄を始めたのもこの頃でした。日本は当時、原油輸入量の80%を中東に依存しており、しかもそのうち70%以上が国際石油会社いわゆるメジャー経由のため原油備蓄と石油供給転換の必要性に迫られたのです。

 

世界的にみても多く企業再編や民営化が行われ出したのもこの頃からです。1984年1月アメリカ司法省は独禁法の立場から世界最大の民間の電話電信会社ATT(従業員100万人、総資産1550億ドル)全米に広がる主要会社22社を7つの会社に分離・独立させるという史上最大の企業分割を行いました。1985年日本電信電話公社日本専売公社が民営化され、日本電信電話株式会社(NTT)、日本たばこ産業株式会社(JT)が発足しました。

 

イギリスは1970年代に安全保障上の理由から国有会社BNOC(イギリス国営石油会社)を設立し、北海原油天然ガスについて政府取り分のための貯蔵施設を作り、生産会社から北海原油を購入し、石油精製会社に販売しました。この結果、世界の石油市場で原油価格の決定に重要な役割を果たすようになりました。しかし、1981年頃から原油価格は下がり、BNOCは北海原油を買い上げた価格より安い価格で売り上げる逆ザヤに陥ってしまい、イギリス国庫に大きな損失を与えました。

 

1979年労働党の「高福祉・高負担国家」から「自由主義経済市場への回帰」を掲げイギリス史上初の女性首相となった保守党のマーガレット・サッチャーは、国営企業の民営化を推し進めました。1982年7月、国有電話会社ブリティッシュ・テレコムの株を放出し民営化を発表しました。1985年の春、BNOCを廃止して政府は石油事業から撤退しました。BNOCの廃止とともに原油価格を支える役割の一つが消滅し、その役割は市場に移行していきました。

 

サウジアラビアはOPECの原油価格を維持するスウィング・プロデューサー(需給調整役)の役割をしており、1981年からの原油価格下落傾向に対し、自国の原油生産量を削減し対応しますが他の国が生産量を増やし、効果は上がりません。逆にサウジアラビアは市場を失い、大きな損失を出していきました。

 

サウジアラビアの石油収入は1981年にはこれまでの最高額の1190憶ドルでしたが1984年には三分の一の360億ドルになり、1985年には五分一の260億ドルまで落ち込んでしまい、国家予算は巨額の赤字抱えるようになりました。

 

市場を失ったことで中東政治、アラブとイスラエルの戦争、西側工業国に対するサウジアラビアの影響力も下がってきていました。ヤマニ石油相は自分の国の利益を犠牲にしてまでスウィング・プロデューサーの役割を果たしているのに他のOPEC諸国は割り当てを違反し、非OPEC諸国は増産していることに嫌気をさしてきました。サッチャー首相初め西側先進国は自由主義経済市場を提唱し、非OPEC諸国の生産を規制することなく野放しにしていることに煮えくりかえる思いをしていました

 

そして、1985年6月、遂にサウジアラビアはスウィング・プロデューサーの役割を降りることを宣言します。サウジアラビアはネットバック方式という原油の市場価格から逆算して原油価格をきめる取引方式を採用します。しかし、精製業者の利益は固定されました。そしてサウジアラビアは西側先進工業国に対しては自由主義市場に合う競争価格であると売り込みをかけ、アラムコや西側企業と契約を結び市場シェアの回復を狙いました。

 

このニュースが世界の市場に瞬く間に広がり、他の輸出国も自国の市場シェアを防衛するためそれにならいました。それはOPEC原油の公式価格が消滅することになり、これからは市場の動きが瞬く間に原油価格に影響し、世界経済の不安定さがより増大していくことになりました。

 

【参考】
(1)「20世紀全記録1900-1986年」、小松左京堺屋太一講談社、1987年9月
(2)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(3)「日本産業読本」、日本興業銀行産業調査部、東洋経済新報社、1997年7月