1941年6月ソ連に進攻を開始しました。
【スターリングラードの攻防戦】
電撃作戦により、遅くとも10週間で戦いは終わるとはずでした。1941年8月ドイツ軍指揮官は第一目標をモスクワと定めましたが、ヒトラーは拒否し、コーカサスの工業地帯、炭田、油田の進攻に主力をつぎ込むよう命令しました。
冬の訪れは早く、11月末には雪と泥でドイツ軍の進攻は止まりました。ドイツ軍はロシア国内に深く入り込み、兵や物資や燃料補給の限界を越えてしまい、不足し始めました。
それから、1年後の1942年末から1943年初めの冬、スターリングラードでは熾烈な戦いが行われましたがドイツ軍は燃料の補給不足と冬の寒さでかつての無敵を誇った第六軍は機動力を失い、1943年1月末、降伏しました。ヨーロッパにおけるドイツ軍の最初の敗北でした。
【北アフリカ戦線】
ロンメルの機動部隊はトリポリからエル・アライメンまで1600Kmに及ぶ北アフリカ戦線でイギリス軍を撃破し進撃しますが、燃料の補給に悩まされます。それでも、イギリス軍から奪った戦利品を利用し戦い、1000Km以上進軍しました。
ロンメルの戦車軍団は燃料不足に陥り、第一次アラメインの会戦では一進一退の攻防を展開し、ついに、進軍は停止してしまいました。
1942年10月23日モンゴメリーは猛烈な砲撃とともに反撃を開始しました。第二次アラメインの会戦です。静養と燃料補給要請のためドイツに戻っているロンメルの代理ゲオルグ・スチュムメ将軍はイギリス軍機の攻撃を受け戦死しました。
アフリカ軍団への補給の航空機や船舶はイギリス空軍と海軍により次々と破壊され、それまで安全とされていたドブルク港で燃料を積んだタンカー4隻も撃沈されてしまいました。
ここで、ドイツ北アフリカ軍団がスエズ運河、アラビアを支配下に置き、さらに進攻し、一方、ソ連に進攻したドイツ軍が穀倉地帯のウクライナ、バクー油田のコーカサスを支配下に置き、中東の産油地帯のイラン・イラクで合流し、ヨーロッパ、北アフリカ、中東を支配する「ナチス帝国」を築くというヒトラーの夢は幻に終わってしまいました。
1944年5月12日連合軍の935機の爆撃機と護衛の戦闘機の大編隊がロイナをはじめとする数ヶ所の合成石油工場を爆撃し、壊滅的な被害を与えました。
1945年5月7日ベルリンは陥落し、ドイツは無条件降伏しました。日本の無条件降伏の3ヶ月前でした。
1944年10月ロンメルは容疑をかけられ、ヒトラーに毒薬を渡され、自殺するよう強いられました。家族に類を塁を及ぼすことを懸念し、それを受け入れました。ロンメルの死因は脳出血とされ、盛大な国葬が執りおこなわれました。