石油の歴史No28【燃料不足で敗北を喫した砂漠の狐ロンメル】

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1939年8月ヒトラースターリン独ソ不可侵条約を結びました。

 

ルーマニアのプロイエスティ油田を占領後は1940年のドイツの全石油輸入量の58%はこの油田からで30%はソ連からでした。

 

ソ連独ソ不可侵条約の範囲内としてルーマニア北東部を占領しましたがヒトラーソ連軍がプロイエスティ油田の目と鼻の先いることを不快に思い始めました。

 

ヒトラーにとって戦争の遂行と経済の発展には安い石油を大量に確保することが重要課題となり、コーカサスバクー油田ウクライナの穀倉地帯を獲得すればドイツ帝国は揺ぎ無いもになると考えました。

 

1941年6月ソ連に進攻を開始しました。

 

スターリングラードの攻防戦】

 

電撃作戦により、遅くとも10週間で戦いは終わるとはずでした。1941年8月ドイツ軍指揮官は第一目標をモスクワと定めましたが、ヒトラーは拒否し、コーカサスの工業地帯、炭田、油田の進攻に主力をつぎ込むよう命令しました。

 

その後、ヒトラーはモスクワを第一目標に変え進攻しましたが、クレムリンまで30kmの地点に到達したときには1941年の晩秋になっていました。

 

冬の訪れは早く、11月末には雪と泥でドイツ軍の進攻は止まりました。ドイツ軍はロシア国内に深く入り込み、兵や物資や燃料補給の限界を越えてしまい、不足し始めました。

 

それから、1年後の1942年末から1943年初めの冬、スターリングラードでは熾烈な戦いが行われましたがドイツ軍は燃料の補給不足と冬の寒さでかつての無敵を誇った第六軍は機動力を失い、1943年1月末、降伏しました。ヨーロッパにおけるドイツ軍の最初の敗北でした。

 

北アフリカ戦線】

 

1941年2月、イギリス軍に追い詰められたイタリア軍を救うため、エルビーンロンメル将軍は北アフリカリビアトリポリに上陸しました。

 

ロンメルの機動部隊はトリポリからエル・アライメンまで1600Kmに及ぶ北アフリカ戦線でイギリス軍を撃破し進撃しますが、燃料の補給に悩まされます。それでも、イギリス軍から奪った戦利品を利用し戦い、1000Km以上進軍しました。

 

1941年後半、燃料の補給を得ることに成功し、500km前進し、エル・アラメイン、アレキサンドリアまであと100km足らずで、カイロやスエズ運河までそう遠くない地点まで来ていました。

 

しかし、連合軍は地中海のリビア沖のマルタ島を確保し、ロンメルに補給する燃料輸送を妨害していましたし、ドイツ、イタリア両軍の暗号を解読していました。

 

ロンメルの戦車軍団は燃料不足に陥り、第一次アラメインの会戦では一進一退の攻防を展開し、ついに、進軍は停止してしまいました。

 

1942年8月半ばロンメルの恐るべき敵、バーナード・モンゴメリー将軍は新型シャーマン戦車を装備した第八軍を率いて北アフリカ戦線に参入してきました。

 

1942年10月23日モンゴメリーは猛烈な砲撃とともに反撃を開始しました。第二次アラメインの会戦です。静養と燃料補給要請のためドイツに戻っているロンメルの代理ゲオルグ・スチュムメ将軍はイギリス軍機の攻撃を受け戦死しました。

 

アフリカ軍団への補給の航空機や船舶はイギリス空軍と海軍により次々と破壊され、それまで安全とされていたドブルク港で燃料を積んだタンカー4隻も撃沈されてしまいました。

 

ロンメル北アフリカに戻りますが、反撃のための燃料はドイツアフリカ軍団には届かず、後退を伝えることしかできませんでした。

 

1943年3月東西から進攻して来たモンゴメリーのイギリス軍に追い詰められたロンメルヒトラー北アフリカ軍団の指揮官を解任させられました。

 

そして、この第二次アラメインの会戦で北アフリカ軍団は大敗北を喫してしまい、1943年5月ドイツ軍とイタリア軍はすべて降伏してしまいました。

 

ここで、ドイツ北アフリカ軍団がスエズ運河、アラビアを支配下に置き、さらに進攻し、一方、ソ連に進攻したドイツ軍が穀倉地帯のウクライナバクー油田コーカサス支配下に置き、中東の産油地帯のイラン・イラクで合流し、ヨーロッパ、北アフリカ、中東を支配する「ナチス帝国」を築くというヒトラーの夢は幻に終わってしまいました。

 

1943年9月8日イタリアは無条件降伏し、1944年6月6日、連合軍は史上最大の作戦と言われたノルマンディー上陸作戦を展開、フランスを奪還し、ソ連軍とともにドイツに向けて進軍しました。

 

1944年5月12日連合軍の935機の爆撃機と護衛の戦闘機の大編隊がロイナをはじめとする数ヶ所の合成石油工場を爆撃し、壊滅的な被害を与えました。

 

1945年5月7日ベルリンは陥落し、ドイツは無条件降伏しました。日本の無条件降伏の3ヶ月前でした。

 

連合軍のノルマンジー上陸後、ロンメルは移動中に爆撃にあい重傷を負ったあと、一部の将校によるヒトラー暗殺を試み,失敗に終わりました。

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1944年10月ロンメルは容疑をかけられ、ヒトラーに毒薬を渡され、自殺するよう強いられました。家族に類を塁を及ぼすことを懸念し、それを受け入れました。ロンメルの死因は脳出血とされ、盛大な国葬が執りおこなわれました。

 

ロンメルは現在でもドイツ国民にとって英雄であり、ヨーロッパ、アメリカでも非難されることが少ない「騎士道精神を持った人」として知られています。

 

【参考】
1.「図解世界史」、成美堂出版編集部,成美堂出版、2006年
2.「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年