石油の歴史No36【太平洋戦争と石油】

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昭和16年(1941年)夏、ドイツ軍は電撃作戦でヨーロッパを席捲しており、日本軍は中国内部に侵略、続いてシンガポール、フランス領インドシナベトナム)、オランダ領東インド諸島(インドネシア)を目指し、進駐を開始していました。

 

昭和16年(1941年)8月1日ルーズベルト大統領は報復措置として対日石油輸出全面禁止を断行し、11月26日、日本軍の全面撤退などを盛り込んだ最後通牒ハル・ノート」を提示しました。

 

当時、消費量430万klに対し、石油の備蓄量は683万klで戦争が始まれば1年半で消費してしまう量しかありませんでした。(1)

 

ドイツのように石炭の液化による人造石油製造を行いますが、炭化度の低い褐炭が豊富な石炭が多く産出するドイツは成功しましたが、日本は炭化度の進んだ無煙炭が多くしかも掘る費用が高くつき成功しませんでした。満州では露天掘りの褐炭があり製造しましたが合計しても軍の要求の百分の一しか供給できませんでした。(1)

 

そこで、軍部はスタンバック(*1)やシェルが持っている東インド諸島の油田と製油所を確保することを最重要課題のひとつとして決行したのです。

 

昭和16年(1941年)12月8日真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まり、12月16日、フランス領インドシナベトナムサイゴンカムラン湾からボルネオ(カリマンタン)島のミリ沖からミリ、セリア両油田に「陸軍第25軍野戦隊兵器廠採油班(陸軍石油部隊)」を送りこみましたが、既に破壊されていました。

 

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翌17年(1942年)1月11日海軍落下傘部隊がオランダ領東インドのセレベス島メナドに降下、続いて2月14日に陸軍落下傘部隊がスマトラ島のバレンバン油田と製油所を奇襲攻撃をかけ占領し、2月下旬には陸・海軍はボルネオ、スマトラ、セレベスなどを制圧しました。(2)

 

ボレネオ島のセレベス島側の海岸にあるシェルの「バリクパパン製油所」も日本軍の接近を知ったイギリス人、オランダ人によって製油所の装置、付帯設備、倉庫、タンク、桟橋まで徹底的に破壊されていました。

 

破壊された油田、製油所は数ヶ月から1年かけ復旧作業を行い、次々操業を始めました。油田管理と輸送業務を行う陸軍南方燃料廠はサイゴンに新設され、ついでシンガポールに設置され、支廠は南スマトラ、ジャワ、ビルマ北ボルネオに置きました。この燃料廠に所属した石油部隊は5000人、現地作業員7万4000人といわれています。

 

一方、石油部隊として徴用した石油関係者1800人を含めた海軍第101燃料廠はバリクパパン製油所とサンガサンガ油田を接収し、本部をバリクパパンに置き、昭和17年9月にサリマンダに移し、支廠をタラカンなど2箇所に置き、ボルネオ、セレベス、オランダ領ニューギニアなどの油田と製油所を管理しました。(1)

 

これら南方諸島で陸海軍の両石油部隊が採取した原油は1942年(昭和17年)469万kl、1943年(昭和18年)854万kl、1944年(昭和19年)461万kl、1945年(昭和20年)165万klだったと言われています。しかし、製油所が処理できたのは半分程度でしかも操業できたのは1943年(昭和18年末)まででした。それ以後、終戦まで米軍の空襲を受け操業はできませんでした。昭和18年後半になると、日本のタンカーは次々と撃沈され、内地に輸送するガソリンなど石油製品の輸送は激減し、終戦近くになると輸送はゼロになってしまいました。(1)

 

1945年(昭和20年)スマトラ島の油田の石油部隊は決戦を覚悟します。そして、徴用された民間人の年配者や病弱者、補助員の資格できている女性を、各地の傷病者や民間人を内地送還する「絶対安全の保証つき」の病院船「阿波丸」に載せるため送り出しました。(1)

 

しかし、4月1日、沖縄海峡を日本本土に向かって航行中、米潜水艦「クイーン・フイッシュ」の魚雷攻撃を受け沈没しました。死者2000人以上だったといわれていますがそのうち450人は東インド諸島(インドネシア)で働いていた帝国石油日本石油などに在籍したまま軍に徴用された民間人だったそうです。(1)(2)

 

【参考】
(*1)ニュージャージー・スタンダードとニューヨーク・スタンダードの極東における合弁会社
(1)「イラン石油を求めて-日章丸事件」、読売新聞戦後史班、読売新聞社、1981年
(2)「20世紀全記録」小松左京堺屋太一立花隆(企画)、講談社、1987年
(3)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年