石油の歴史No45【結束力に欠けるOPECだが増加する加盟国】

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1960年9月14日産油国の会合は終わり、国際石油会社と共同で対決する組織OPEC(Organization of Petroleum Exporting Countries、石油輸出国機構)が創設されましたが、当初のOPECは結束力に欠け、足並みが揃わず成果がでませんでした。

 

1961年イギリスはOPECメンバーのクウェートをイギリスから独立させるとイラククウェートの領有権を主張し、イギリスに抗議しました。

 

また、イランのパーレビ国王はアラブ諸国との強調より、一刻も早いイラン工業化実現の野望を持ち、自主独立を固持し、OPECで提案される外国石油企業対応策にことごとく反対し始めました。

 

1962年サウジアラビアではずさんな政治を行っていた国王サウードは弟のファイサルに国王の座を追われました。そして、西側寄りの新しい国王ファイサルはアラブ民族主義の石油相でありOPEC設立の功労者であるタリキを解任し、ハーバード大学に留学し、西洋流の感覚を持つ弱冠30歳の内閣法律顧問のアマハド・ザキ・ヤマニを任命したのです。

 

OPEC設立のもう一人の功労者であるベネズエラの石油相ペレス・アルファンソはOPECの非力さに落胆し、自国の政治にも嫌気がさして1963年に辞任しました。

 

OPEC創設メンバーであるベネズエラサウジアラビア、イラン、イラククウェートに加え、1961年5月、カタール、1962年4月リビアインドネシア、1967年アブダビ、1968年アラブ首長国連邦(UAE)、1969年アルジェリア、1971年ナイジェリア、1973年エクアドル、1975年ガボンが加盟し、メンバーとして政治的不安定な国が増えたことで意見調整も難しくなりました。

 

1960年代はアフリカ大陸が新たな石油開発の舞台そして次々と独立国が生まれ脚光を浴びてきた時代です。

 

アルジェリアのサハラ油田】
二度の世界大戦を通じ石油の重要性を痛感したフランスでは第二次大戦が終結した数ヶ月後、ド・ゴールはフランス領内に自前の石油供給源を確保せよという指令を発しました。

 

国営のフランス石油はイラク石油の資本参加を画策し、政府系石油研究所はいくつかの企業を監督し、数年後に西アフリカのフランス領ガボンで油田を発見します。フランス国営石油公団(ERAP)は1956年、北アフリカアルジェリアで油田開発作業を開始しました。

 

アルジェリアでは1954年からフランスと独立闘争を起こしており、また、サハラ砂漠という劣悪な環境の中の油田開発作業は困難を極めました。

 

1958年に砂漠の中の第1油井から石油が噴出し、石油生産が開始されフランス本土に輸出がはじまりました。1961年にはフランス国営会社が生産する石油はフランス本土の需要の94%に達しました。

 

アルジェリアの民族解放戦線(FLN)と和平を望むフランス政府それとあくまで植民地を死守する極右組織(軍事秘密組織OAS)の三つ巴の戦いが7年間に亘り繰り広げ、遂にド・ゴール大統領は1962年アルジェリア独立を承認しました。ド・ゴールアルジェリア政府とエヴィアン協定を結びサハラ油田の操業の保証を獲得しました。そして、国営石油公団エルフ(ERAP)はサハラ油田の石油により次々と事業拡大を図り、フランス石油と並ぶ、一大企業グループを形成するまでになりました。

 

ド・ゴール大統領は1961年9月から1962年8月などすでに十回、OASやOASに雇われた暗殺者に狙われ、暗殺未遂に終わっています。そして1963年2月14日OASメンバーと見られるフランス海軍砲兵隊将校とパリ陸軍士官学校英語教官ら5人がド・ゴール暗殺容疑で逮捕されました。

 

ド・ゴール暗殺未遂事件頻発の原因は1962年アルジェリア独立を認めたことへの恨みと1954年インドシナベトナムラオスカンボジア)の独立戦争でベトミンに敗北し独立されたこと、1956年モロッコに独立され次々植民地を失っていく焦りがあったと言われています。

 

1970年、フレデリック・フォーサイスはこの事件をモデルにした小説「ジャッカルの日」を出版し、ベストセラーになりました。その後、映画化されました。

 

リビア油田】
第二次大戦中、ロンメルモンゴメリーが大戦車戦を繰り広げ、燃料が尽き敗北を帰した砂漠からそう遠くない場所に石油は眠っていました。

 

【燃料不足で敗北を喫した砂漠の狐ロンメル

yaseta.hateblo.jp


 
1955年リビアは探鉱と開発推進のため、リビア石油法を制定しました。法律にはリビアイラクサウジアラビアのように特定の外国石油資本に牛耳られないよう利権を分け、独立系石油会社を含む多数の石油会社に分譲することを決め、さらに、政府の取り分は市場の実勢価格に連動するがその額は公示価格より低くすると他の産油国より、参入する石油会社に有利になるように決めました。

 

この戦略が当たり1957年の第1回交渉では87件の石油利権に対し17件が入札したのです。
砂漠の劣悪な環境での油田開発作業は困難を極めましたが、1959年4月地中海沿岸から160km(100マイル)南にあるゼルテンでニュージャージー・スタンダードが大油田を掘り当てました。

 

この大油田発見を機に次々と発見され、1961年までに10個の優良油田が発見されました。リビア原油はガソリン収率が高く、硫黄分が低い軽質原油であること、ヨーロッパに近い立地条件であることなどで、大量にヨーロッパに輸出され、1965年にはリビアは世界第6位の産油国になり、世界の輸出量の10%を占めるようになりました。1969年にはサウジアラビアを越えてしまいました。

 

しかし、反面、リビアでは汚職が目立つようになり、国王イドリス一世の政治も乱れ始めました。一方、1957年頃から始まった石油価格の下落がさらに進みますがセブンシスターズのような世界全体を通して石油市場をコントールする機能を持たない独立系石油業者はアメリカの国内石油業者保護のため外国産石油に輸入制限があり、アメリカに輸出できず、価格を度外視してヨーロッパ市場に大量に売り込みました。

 

石油供給量が需要を上回り1960年から1969年にかけ、1バレル当たり36セント(22%)も値下がりしたのです。

 

1960年代になると国際石油開発に乗り出す企業が数多く現れはじめました。石油発見が相次いだリビアに触発されたこと、技術の進歩が地質調査や探鉱や生産を容易にしたこと、産油国が独立系石油業者や新規参入者に有利な利権貸与政策を採用したこと、工業国の石油需要が急速に増加し、産油国も消費国も石油が経済成長の根幹をなしていると見なされるようになったことなどがあります。

 

ちょうどこの頃、日本は豊富な人材及び設備などが整備され活発な企業活動を始めており、石油の供給源の80%はメジャーでヨーロッパより不利でしたがソ連原油を価格交渉のカードにして、石油価格を引き下げ、驚異の高度経済成長を遂げていきます。
 
【参考】
(1)「OPEC その歴史と現状」、アドミル・アミール・クパー、奥田英雄訳、石油評論社、1975年
(2)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(3)「増補 国際石油産業」、浜渦哲雄、(株)日本経済新聞社、1994年
(4)「20世紀の全記録(クロニック)」、小松左京堺屋太一立花隆講談社、1987年