石油の歴史No31【燃料補給出来ずベルリン一番乗りを逃したパットン戦車軍団】

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1944年6月6日、史上最大の作戦「ノルマンジー上陸作戦」が開始され、西ヨーロッパ進攻を開始しました。

 

ノルマンジーの防衛線突破後は物資と燃料不足のドイツ軍を次々と破り、西ヨーロッパへの進撃が予想以上に進みました。

 

連合軍は第二次大戦で石油不足が理由で補給されなかったことは一度もありませんでしたが、1944年8月20日過ぎ、この時ばかりは進撃が速過ぎ、前線への燃料供給が間に合わない事態が発生してました。

 

防衛線突破を突破後、進撃の先頭を走っていたジョージ・パットン将軍率いるアメリカ第3軍の戦車軍団はドイツに一番乗りを目論んでいました。しかし、燃料補給がなく、ドイツ最後の防衛線「ジークフリート防衛線」到達まで10日の距離で足止めを食らうことになりました。

 

連合軍最高司令官アイゼンハワーは持ち合わせの燃料をパットンに送るか、彼より後方にいるイギリス軍第21軍のモンゴメリーに送るか迷っていました。

 

パットンとモンゴメリー北アフリカ戦線以来、むき出しのライバル争いをやっており、その後パットンはシチリア占領作戦でアイゼンハワーの命令が伝わらなかったことにしてモンゴメリーを出し抜きメッシーナに一番乗りした経緯がありました。

 

結局、アイゼンハワーは連合軍の協調を重視する政治的な判断をし、パットンにもモンゴメリーにも送らず、妥協策のイギリス軍を支援するアメリカ第1軍に燃料を送ることにしたのです。

 

パットンはガソリンがあれば10日以内にドイツを陥落させることができると激怒しましたが、8月30日になっても通常の10分の1しか補給がありませんでした。

 

9月の初め、ようやく補給を増強されましたが、足止めしている間、防衛体制を立て直したドイツ軍の激しい抵抗に合い、ドイツ領進撃まで8ヶ月もかかることになりました。そして、ベルリン一番乗りはソ連軍にさらわれてしまいました。

 

戦後、戦史家の間でアイゼンハワーの決断が正しかったかどうかの議論が続いていると言います。
イギリスの戦史家リデル・ハートは「あの時、パットンにガソリンを与えておけば、戦争の早期終結を早めることができた。あの1944年8月末が決定的瞬間だった」という見解を持っているそうです。(*1)

 

【参考】
(*1)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(*2)「石油帝国」、H,オコーナー(著)、佐藤定幸(訳)、岩波書店、1955年