石油の歴史No08「革命家スターリンを育てたバクー油田」

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1892年~1903年、ロシアの産業は大蔵大臣セルゲイ・ウィッテ伯爵の優れた政策により、著しい進展をみせました。
しかし、国の中心人物ニコライ二世は専制君主で無能でした。そして、ロシア人以外のすべての少数民族を弾圧したため、反乱が起こり、1900年代の初期のロシア帝国は混乱に陥っていました。

バクー油田地帯の労働者たちの生活条件や労働条件はきわめてひどい状態でした。このため、バクーは“カスピ海沿岸の革命の温床”となっておりました。

イスラム教徒タタール人地区のビルの地下室に、大規模な秘密の印刷組織“ニーナ”があり、ここは“ウラジミール・イライチ・レーニン”が革命を呼びかける新聞「イスクラ(花火)」や扇動する材料の収集・配布場所でした。

バクーとそこにある石油産業は図らずも革命運動を支援することになってしまいました。石油の全国的な輸送網が革命のプロパガンダ(宣伝)を秘密裏に国中に広める格好になってしまったのです。

また、バクーと石油産業は将来のボルシェビキ革命の指導者を生む場所ともなりました。後のソビエト最高会議議長、元帥そして最も重要な人物が含まれていました。
神学生で靴屋の息子だった若きグルジアヨシフ・ジュガシビリという男です。彼は自らをヨシフ・スターリン(スターリ(鋼鉄)でできた男)と名乗っておりました。

1901年スターリンバツームの社会主義の組織運動の責任者になり、ロスチャイルド家や地元石油業者に対するストライキの首謀者となりました。

1903年ストライキがロシア全土に広がり、全国的な混乱を引き起こし、政府は危機に陥いりました。帝政ロシアは人心をそらすため、当時、満洲と朝鮮中でも鴨緑江の支配権をめぐりとトラブルを起こしていた日本との戦争を画策します。

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ところが、1904年1月、日本の旅順港のロシア艦隊に奇襲攻撃で日露戦争が始まり、日本が日本海海戦でロシア艦隊を壊滅させ、日本の勝利で終了してしまいました。

戦争は革命のうねりをとめるどころかさらにストライキなどが激しくなります。
1905年1月、ペテルブルグで皇帝に請願書を届ける労働者の一団に警官が発砲した事件、いわゆる第一革命の発端となった「血の日曜日」が起こりました。

その後、政府側は革命を恐れてイスラム教徒のタタール人に武器を渡しました。そして、バクー油田地帯でタタール人はキリスト教アルメリア人虐殺を始めました。その中には石油実業家の家族も含まれていました。

1905年9月と10月にはストライキと反乱がロシア全土に広がりました。

1905年末、第一革命が終わってみれば、バクー油田地帯の油井の3分の2が破壊され、輸出は壊滅的な打撃を受けていました。

1910年、スターリンは再び、バクーで労働運動を指揮しますが捕らえられ、シベリアに流されます。
彼の将来を作り上げた革命と陰謀の腕を磨き、野望と皮肉を身につけたのがこのバクーでの生活だったと言われています。

一方、ロスチャイルド家はこのような状態のロシアの石油事業にうんざりし、事業をロイヤル・ダッチ・シェル(通称シェル)に売り渡し撤退してしまいました。この結果、シェルは一時的にロシアの主要な経済力を握ることになりました。

シェルはロスチャイルド家のロシアでの石油権益を手に入れたことで、石油生産量は東インド諸島産が53%、ルーマニア産17%、ロシアが29%と世界的にバランスとれたものになりました。

しかし、バクーを中心としたロシア石油の生産量は減少の一途をたどり、1904年から1913年の間、世界市場におけりるロシア産石油は31%から9%に激減してしまいました。

それでも、バクーは重要な油田としてその後起こる石油をめぐる世界的抗争の中で存在価値は維持し続けます。

後に、レーニンの後を引き継ぎ、ソビエト連邦第2代最高指導者の座を目前に控えた1920年代にスターリンは次のように回想しています。

「石油産業の労働者の間で3年間革命の仕事に携わったことが、私に実践的な闘争方法を身につけさせ、地方の労働運動指導者として鍛えてくれた。」さらに「私は労働者の大群を率いることがどういうことか、バクーで見出した。私はバクーで2回目の洗礼を受け、それから一人前の革命家となったのである。」と。