石油の歴史No07「スタンダード・トラストの解体」

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1886年、ゴットリーフ・ダイムラーやカール・ベンツによる自動車の発明により、欧米で次々と自動車製造へ乗り出す野心家が現れ、自動車生産に拍車がかかります。 それに相まって、メキシコ湾岸、アメリカ大陸中央部で油田開発が始まり、石油の生産量は拡大して行きました。

1900年初め、これまでアメリカを支配してきたスタンダード・トラストに挑む新興の石油会社ガルフやテキサコが現れてきました
しかし、スタンダード・トラストは資産10億ドルを持つ難攻不落の1大帝国として増々勢いをつけていました。

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巨大な富と権力を持つスタンダード・トラストは設立時から強欲な資本主義の産物として非難されてきました。しかし、ロックフェラーや9人の役員は事実を知らないものの妬みと受け取っていました。
スタンダード・トラストが自らの利益を追求し、富を築きあげることにより、“無秩序な競争”がもたらす混乱をむしろ防いでいる。スタンダード・トラストこそ、アメリカ合衆国が世界に対して誇り得る企業であると彼らは信じていたのです。

しかし、世論の評価は全く逆でした。スタンダード・トラストこそアメリカ合衆国を脅かす病根と考え始め、1894年頃からジャーナリストによる攻撃が始まります。

1902年、女性ジャーナリスト「アイダ・ターベル」は雑誌「マクルアズ」に「スタンダード石油の歴史」としてスタンダード石油の陰謀や策謀、リベート攻勢や残忍な競争手段、これで潰され、乗っ取られたり、痛手を受けた独立系石油業者についての連載記事を掲載し、大反響を呼びました。

そして、1904年、この連載記事「スタンダード石油の歴史」を本として出版するやいなやたちまちベストセラーになりました。
すると、新聞は反トラストキャンペーンを大々的に展開し始め、ロックフェラーの石油独占は政治問題にまで発展していきます。
個人・企業が巨大な富と権力を握っていることに危惧を抱いたルーズベルト大統領はじめ政治家もトラスト解体に乗り出し、裁判が始まりました。

1910年、ロックフェラーの財産の一部5000万ドルを拠出し慈善事業を行う「ロックフェラー財団」設立の法案が上院に提出されました。
財団設立に議会の許可が不要なのにロックフェラーは政治家を味方につけ、法案として提出し、許可を求めたわけは自分に対する世論の非難を払拭するため、議会と国民の賛成が欲しかったからでした。しかし、否決されてしまいました。

911年5月15日7年間の裁判の末、最高裁はシャーマン法(反トラスト法で独禁法の一種)違反によりスタンダード・トラスト解体の判決を下し、これにより以下に分割されました。

1.ニュージャージー・スタンダード石油(後のエクソン
2.ニューヨーク・スタンダード石油(後のモービル)、
3.カリフォルニア・スタンダード石油
(後のシェブロンソーカル)、
4.オハイオ・スタンダード石油
(後のソハイオ、さらにその後、ブリティッシュ・ペトロリアムの販売会社なった。)
5.インディアナ・スタンダード石油(後のアモコ)、
6.コンチネンタル石油(後のコノコ)

など34社分割されました。

解体されましたが、事態は何も変わりませんでした。ロックフェラーはじめ、トラストの役員達は新会社のトップに納まり、協力し合って事業を続けたので、ロックフェラー帝国は解体こそしましたが崩壊はしませんでした。
帝国崩壊どころか、解体したことにより、新会社の株価が数倍に跳ね上がり、ロックフェラーは1億ドル以上の金を手にしたのです。

解体から2年後の1913年にニューヨーク州議会からロックフェラー財団設立の許可がおりました。
莫大な富を築いた男はすべての事業から引退し、豪邸に引きこもり、慈善事業に専念しました。
そして、1937年98歳の生涯を閉じました。

1930年建設を開始し、1939年に完成したニューヨークマンハッタンの5番街から6番街にある複数の超高層ビルを含む複合施設「ロックフェラーセンター」は現在も依然として輝きを放っており、薬品を取扱う商人の子として生まれたジョン・ロックフェラーが1代で築いた大帝国の繁栄を物語る証となっています。