石油の歴史No55【OPEC以外の油田開発を目指した各国企業】

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アメリカでは1973年の第一次オイルショック後、メジャーは絶え間ない攻撃に晒されました。メジャーの利益は1972年までの5年間、増加する需要にもかかわらず1972年69億ドルで、ほとんど増加しなかったのに対し、1973年117億ドル、1974年164億ドルと国民がガソリン高騰で喘ぐ中、利益を大幅に伸ばしたからです。

 

石油企業の大幅な利益は産油国の操業コストに見合う分の石油(エクイティ・オイル)を産油国の禁輸措置がもたらした高い石油価格で親イスラエル国以外の国に販売したこと、備蓄していたアメリカ産原油や値上げ前に買った石油が値上がりし大もうけしたことなどが原因でした。

 

しかし、産油諸国はエクイティ・オイルを売り石油企業が大もうけしたことに気づき、税やロイヤリティを引き上げてきたことや需要増加を見込んで下流部門の製油所、タンカー、ガソリンスタンド、タンクなどに建設した設備が過剰になったことが足を引っ張り、収益は低下して来たのです。

 

この結果、石油企業の利益そのものは巨大ではありますが、収益率は1975年以降アメリカの企業の平均を若干したまわるようになりました。

 

1950年~1960年代メジャーが中東の石油を処理するために築きあげた世界規模の下流システムはメジャーの中東石油の生産・販売権をOPEC側に完全に取り上げられたことで世界の石油市場は大きく変化していきます。

 

OPEC諸国による石油の支配は1973年で自由世界の65%を占めるようになり、価格と安全保障に危機感を抱いた先進国等はOPEC以外の地域での油田開発を開始しました。

 

開発は世界中に広がりましたがそのうちアラスカ、メキシコ、北海が最も有望視されました。

 

【アラスカ縦断パイプラインの完成】
1968年アラスカで世界でも有数の油田「ブルドー・ベイ油田」が発見され、アラスカ縦断パイプライン(TAPS)建設を計画したが自然環境が破壊されると反対の声があがり、1970年に裁判所から中止命令が出され中断されたままでした。

 

アラスカでの石油開発

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しかし、OPECの禁輸の数週間後の1974年にはニクソン政権下のアメリカ議会はアラスカパイプライン建設を承認しました。

 

TAPS(アラスカ縦断パイプライン)建設は自然環境保護を考慮しながらも急ピッチで進められ、1978年100億ドルをかけて完成させました。数年後にはアメリカの全石油生産量の四分の一に相当する量の石油を供給することになりました。

 

【非OPECの道を選んだメキシコ】
メキシコ国内では油田の所在が1973年以前に突き止められていましたが、政治、経済、技術的な障害で開発は進んでいませんでした。1973年後の石油高騰でメキシコの石油の価値が一挙に上がり、ロペス・ポルティーヨ大統領は新経済戦略の重要政策として油田開発を開始しました。

 

石油を担保に国際融資を募りますが初めのころ国際金融はなかなか手を差し伸べてくれませんでしたが有望な埋蔵量が次々発見されると次々と巨額の融資が得られるようになり、油田開発は急速に進み、ペメックスなど他の国営石油はつぎつぎとパイプライン、精油所など石油コンビナートを建設しました。

 

1972年日産50バーレルの生産量が1980年には日産190万バーレルと4倍になりました。

 

メキシコは国際石油市場で石油を高い値で販売しますがメジャーであろうとOPECであろうとあらゆる連合体の影響を受けませんでした。メキシコはOPECのメンバーに加わらずOPECが作り出したメリットを採用しシェアを伸ばしていきました。

 

そして1981年には日産250万バーレルと世界第4位の産油国と成長していきました。

 

【高度技術と莫大な経費を投じた北海油田
1956年のスエズ危機後、シェルとエッソが石油資源開発を進め1959年、オランダのフローニンゲンで大規模な天然ガスを発見しました。

 

北海の地質がフローニンゲンのそれと似ていることから北海での石油探鉱の機運が高まりました。鉱業権は北海を真ん中でイギリスとノルウエーが分け合うことで合意しました。

 

いくつもの会社が石油の探鉱を開始しましたが有望な油田は見つかりませんでした。1962年からアメリカのフィリップス石油はノルウエー側の大陸棚を掘削しますが空井戸ばかりでした。1969年撤退を前に1859年ペンシルベニアでドレーク大佐の油井発見を踏まえて最後の掘削に挑戦しました。

 

11月、掘削リグ「オーシャン・バイキング」はノルウエー・エコフィックス油田で見事、油田を掘り当てました。海床1万フィート(約3000m)の深さから採取されたサンプル油を調べた結果、高品質な石油が埋蔵されていることを確信したのです。

 

1970年末頃、ブリティシュ・ペトロリウム(BP)はエコフィックスから北西100マイル(約160km)のイギリス寄りの地点、フォーテェーズ油田で石油を発見、続いて1971年シェルとエクソンはブレント大油田を発見しました。

 

北海のオイルラッシュが始まり、1973年のオイルショックでラッシュはますます拍車がかかりました。1974年にはBPがマグナス油田を発見しました。

 

北海の石油開発は高度な技術と大規模な投資を必要とし、大きなリスクがありました。掘削リグは経験したこともない深い海底で作業しなければならなくなり、さらに海底面から4マイル(6400m)の深さまでほらなければなりませんでした。

 

穏やかな日はニシンやハドック(タラの一種)が捕れる豊穣の北海でも天候が崩れると強風と荒れ狂う海の中での掘削作業は厳しいもので北海の油田開発プロジェクトは地上最大級の投資プロジェクトといわれました。

 

1975年6月18日北海初の原油がタンカーで運ばれ、イギリスのテムズ川河口の製油所に入りました。

 

1975年夏、北海の石油埋蔵量が大規模ものと証明されるとイギリスの経済展望は一変し、エジプトによるスエズ運河やイランによるアングロイラニアンの国有化などで失った国益や名誉を取り戻し、世界のオイルパワーに影響を与えることができるという期待が沸きあがってきたのでした。

 

【参考】
(1)シリーズ世界の企業 石油産業、十市 勉、日本経済新聞社、1985年5月
(2)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年