石油の歴史No17【バクー油田国有化とレーニンによるソ連樹立】

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1917年の10月革命でレーニン第一次大戦でドイツと戦っている社会革命党のロシア臨時政府首相のケレンスキーを追い出し、ソビエト連邦を組織しますが、以後も内乱が続きます。

西側諸国にとってソビエト社会主義政権が続くのかバクー油田ひとつとっても大問題でした。
フランス、イギリスはボルシュヴィキの赤軍に反対して結成された旧ロシア帝国軍の白軍を積極的に応援します。
ロシア帝国時代に手に入れた権益を守るためです。

当初、各地で敗退していた赤軍トロツキーの指導で活気と落ち着きを取り戻し、白軍に猛反撃を加え始めます。

ロスチャイルド家のロシアでの巨大な石油権益を第一次世界大戦前に買収したばかりのシェルのディターディングもソビエトの現体制の崩壊を望む一人でした。

ロシアの石油権益を握っていたノーベル家の一族は革命が起きた後、海外に逃れ、ロシアの石油事業に見切りをつけ、ディターディングやアメリカのスタンダード・ニュージャージーエクソン)に売却を申し出ます。

1919年1月、一時はロシア南部全域を抑えていた白軍は敗退に追い込まれます。1920年4月
赤軍がバクーを占領し、油田の国有化を宣言します。

一方、ニュージャージーはボルシュビキ革命が失敗するということに賭け、ノーベル家のリスクの高いロシアの石油事業を格安で手に入れます。これにより、ロシアの石油総産出量の三分の一、石油精製量の40%、ロシア国内の販売シェアの60%を獲得しました。

国有化で大打撃を受けたシェルと自由主義経済制度移行の希望に賭けたニュージャージーはバクーの権益を守ろうと必死の対応に努力します。

そして、資本主義経済国イギリス「ロイド・ジョージ」と共産主義のボルシュビキ「レーニン」の交渉となりました。ロイド・ジョージと財界人対ボルシュビキ代表の海外貿易人民委員の肩書きをもつレオニード・クラシーンの交渉でした。

外国からの投資なくして、経済を立て直すことは不可能と判断したレーニンは1921年3月、西側に強い疑いを持つスターリンの反対を押し切り、英ソ貿易協定が調印しました。

1922年、レーニンウクライナ、ベロルシア、ザカフカス、ロシア共和国のソヴィエト連合を形成し、ソビエト社会主義共和国連邦、通称ソ連が成立します。

1920年から1923年かけてストップ状態だった石油産業も新経済政策や、その後の西側の大規模な技術導入で急速に復興し、ソビエトは石油輸出国として再び、世界市場に進出してきました。

しかし、1922年のソ連が成立後まもなく、レーニンが病気になるとレーニン路線をことごとく反発して“一国社会主義政権”主張していたスターリンが次第に力をつけていきます。1924年レーニンが死去し、スターリンが政権を握るとソ連は大きく変貌して行くことになります。

【参考】

メンシェヴィキ
1903年ロシア社会民主労働党の分裂し、できたレーニン反対派の通称、マルトフに率いられた少数派を意味する。
中産階級ブルジョワ)と協調すべきだという路線。

ボリシェヴィキ
1903年ロシア社会民主労働党が分裂し、できた左派の通称、レーニンの率いた多数派を意味する。労働者(プロレタリアート)からなる職業革命家によって、つまり精鋭で革命を起こそうと主張する。後のロシア共産党

社会革命党
1917年にはメンシェヴィキボリシェヴィキの間にケレンスキー率いる社会革命党があり、臨時政権を握っていたがレーニン率いるボリシェヴィキソビエト連邦を樹立するとケレンスキーは海外に逃れました。