石油の歴史No18【政権を掌握したスターリンとソ連政府のビジネスへの参加】

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1922年のソ連が成立後まもなく、レーニンが病気に倒れ、1924年レーニンが死去しました。

政権を握ったスターリンは“一国社会主義論”の主張を押し通し、どの企業とも提携することなく、ソ連の石油を政府自らの手で売ることを決めたのです。

ニュージャージー・スタンダード(後のエクソン)は没収された資産から生産されるソ連の石油の販売に手を貸したくはないが、他のアメリカ企業が安いソ連石油を購入し、ニュージャージーに競争を挑んで来るにおよび、1924年、ついにニュージャージーティーグルはシェルのディターディングと組み、ソ連石油を購入するための共同企業体を設立します。

しかし、ティーグルとディターディングはこの共同企業体を作りソ連に協力していることに不快感を持っておりまた。

1927年この共同企業体が崩れ去った時、シェルのディターディングはティーグルに手紙を書いて言いました。
ソ連との取引がまとまらなかったことを喜んでいる。いつかは皆がこの強盗たちと関係していたことを後悔すると思う。この連中の目的は文明をすべて破壊し、暴力の国を築き挙げることだけだ」

このようにディターディングの事業経営に感情論が入るようになりました。亡命ロシア人リディア・パブロワと結婚した後はスターリン共産主義に激しい嫌悪感を抱くようになったといいます。

その後、ディターディングはジョン・D・ロックフェラー・ジュニアにスタンダード傘下の各社にソ連産石油の購入を止めるよう頼み込みます。しかし、ディターディングの要請にもかかわらずスタンダードの傘下のニューヨーク・スタンダード(通称ソコニー、後のモービル)とバキュームはソ連との取引を進め、両者ともインドやアジア地域向けに大量のロシア産灯油を購入する契約を結びました。

ディターディングは激しく怒り、報復として1927年にインドで価格戦争を仕掛け、世界中の市場でも同様の作戦を進めました。ソコニーも対抗して価格を引き下げ反撃します。

ディターディングはまた、ソコニーに対し、共産主義から石油を買っているという非難の報道キャンペーンを展開しました。

1920年代終わりには大手各社はロシア産石油を巡る問題に疲れきっていました。自らの資産を奪い返そうとする努力や投資の元を取り返そうとする努力はどうでも良くなってきました。

というのも、イラクのババ・ガーガーで油田が発見され、関心は中東に向けられるようになってきたからです。

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一方、スターリンは国内の反対派の逮捕、収容所送り、処刑を行い、着々と独裁政権を確立していきます。

スターリンの宿命のライバル“トロツキー”はロシアプロレタリアートは西欧の社会主義革命と結合してのみ社会主義革命が完遂できるという永久革命論を主張します。

しかし、スターリンの一国社会主義論に破れ、1929年、追放され、1940年にメキシコで暗殺されました。(スターリンの刺客により、暗殺され、凶器はピッケルと言われています。)

その後、スターリンは集団農場化や工業化の推進による社会主義国家の建設のため富裕層などからの資産没収、粛清などを行いました。

この数年間で共産党員100万人を含む約1000万人の人々が処刑されたり強制収容所で死亡したといわれています。

このような恐怖政治により、独裁政権を確立したスターリンソ連は第二次大戦を乗り越え、社会主義国家をゆるぎないものにし、資本主義国家と世界を二分して対立するいわゆる冷戦の時代を迎えることになります。