シベリア鉄道と日露戦争

シベリア鉄道(上記をクリックすると拡大します)
昨年(2016年)12月15日、安倍首相の地元山口県長門市でロシアのプーチン大統領が首脳会談を行い、北方領土問題や経済協力など話し合われましたが北方領土問題については進展がみられず、期待外れに終わりました。

 

北方領土問題が進展すれば、ロシアといろいろな交流事業が始まると言っていましたが、こちらも消えてしまいました。しかし、幻の交流事業のひとつ「シベリア鉄道の北海道延長」事業に興味を持ったのでシベリア鉄道を建設したロマノフ王朝の時代を調べてみました。

 

ロシアのロマノフ王朝は1613年にミハイル・ロマノフがツァーリ(皇帝)に就いて始まりましたが、1917年、農民・労働者を主体とする社会主義を掲げる革命家によるロシア革命で、ニコライ二世は退位し、翌1918年7月、ニコライ二世夫妻・アナスタシアら皇女たちが銃殺刑に処され、304年続いたロマノフ王朝は永遠に絶えることになります。

 

西欧や東欧では古くから農奴制が行われており、貴族領主は自分の所有地を農奴賦役労働(農奴は週3日から6日の労働を提供し、地代を領主に払う)させて穀物など農産物を搾取し、販売することにより、富を築いていました。

 

農奴は貴族領主地の農民のことで、居住地を変えることはできず、人格的にも領主に支配されていました。農民は貴族領主農民の農奴、国有地農民、皇室御料地農民そして僕婢(ぼくひ=下男・下女)に分けられます。

 

西欧では17世紀以降の市民革命で農奴は完全に解放され、自由農民になりました。

 

しかし、ロシアの場合は19世紀半ばになっても強固に農奴制が守られていました。ツァーリ「アレクサンドル二世」は近代化の遅れに気がつき、1861年、農奴解放令の発布や行政、教育、軍隊の制度改革や外国人起業家を誘致しての工業化などを推進します。しかし、専制君主制の維持・強化を前提にした改革であったため、結局、農奴は独立した自由農民になれず、労働者は自由な賃金労働者になれず、西欧的資本主義の市民社会をつくるものでありませんでした。

 

労働者と土地への欲求を持つ農民の不満と怒りが政府や領主に向けられ、嘆願・逃亡・一揆・テロなどが頻繁に起こります。1881年、専制君主制に反対する社会主義運動「ナロードニキ」の過激派にアレクサンドル二世は暗殺されてしまいますがアレクサンドル二世の改革のひとつ「工業の近代化」は効果が現れてきます。

 

さらに、1892年、アレクサンドル三世のもとで大蔵大臣に就いたセルゲイ・ウィッテはイギリス・フランスなど外国資本や技術を積極的に導入推進したことにより、鉄鋼、石炭、石油、造船、兵器製造、鉄道など重工業が飛躍的に発展し、それに伴い軽工業も発展し、ロシア経済はめざましく成長しました。イギリスやフランスの産業革命に50年~70年遅れはしましたが、ロシアも産業革命を起こしたのです。

 

石炭産業と石油産業は1860年代から急速に拡大して行きます。特に石油業は1875年バクーに進出したスエーデン人のノーベル兄弟が牽引し、1900年にはロシア産灯油がロックフェラーのアメリカ産灯油を完全に追い出し、世界の産出量の半分を占めるまでになります。

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鉄鋼産業はイギリス人がつくった最初の高炉工場が1872年に稼働し、1900年には鉄鋼生産量は世界第4位になりました。

 

工業化が進み、労働者が急増する一方、労働者の労働条件、生活条件は改善されず、劣悪なものでした。そして、農村は旧態依然としたまま、経済発展から取り残されていました。セルゲイ・ウィッテは農村にも市場経済が必要であると考え、農民の地位向上、農民共同体(ミール)を廃止し、自主活動を促すという政策を提案します。
しかし、政府内で多数を占める貴族領主擁護派の反対と1900年のロシア恐慌が重なり、1903年セルゲイ・ウィッテは大蔵大臣を解任され、農業改革は頓挫してしまいました。

 

鉄道は1865年1116kmでしたが1874年には1万8200km、1883年には2万4200kmと飛躍的に伸びました。さらに、1891年セルゲイ・ウィッテは断続している鉄道を結び付け、ヨーロッパから清国など極東進出を目標とする国家事業シベリア鉄道建設計画を策定し、着工しました。
1900年バイカル湖東岸からスレチェンスクまで開通し、バイカル湖をフェリーで渡り、スレチェンスク-ハバロフスク間はアムール川で船を利用すれば、首都サンクト・ペテルブルクからからウラジオストク間の往来は可能になりました。

 

ロシアは中東、極東に進出するイギリスと対抗しており、1884年、朝鮮と朝露通好条約を締結し、極東進出の機会を狙っていました。既に清国と日本は朝鮮に進出し、朝鮮の支配を巡り、お互い対立していましたがロシアは日本よりも大国の清国を警戒していました。

 

1894年~1895年の日清戦争で日本が勝利するとロシアは日本の見方を変えますが、それでも、国力・軍事力に勝るロシアは日本を強敵とは思っていませんでした。1896年、日本との戦争を視野に入れ、シベリア鉄道の早期開通を図るため、清国に東清鉄道と満州支線の敷設権を認めさせ、工事を開始します。

 

1900年、ロシアは清国で起こった義和団の乱の混乱収拾を口実に満州に進出し、占領しました。1902年に1903年までに清国から撤兵すると約束しますが、ニコライ二世の意向を汲むクロパトキン陸相はロシアの勢力圏が確定されるまで占領継続すべきと主張し、セルゲイ・ウィッテの反対を押し切り、占領を続けます。ニコライ二世は戦争するつもりはないが、日本を過小評価して、日本を刺激するような政策を取り続けます。

 

1903年、東清鉄道と満州支線が開通しました。バイカル湖迂回路線は工事中ですが、バイカル湖フェリーを使うことにより、首都サンクト・ペテルブルクから日本海への出入り口の旅順までつながり、輸送能力は増加しました。

 

ロシアは満州各地に軍隊を配置し、旅順には堅固な要塞を構築しており、その上、バイカル湖迂回路線が開通すれば首都から満州の各基地、旅順のロシア旅順艦隊まで直結し、軍事物資・兵器の補給能力が圧倒的に高まり、日本にとって最悪の状況になります。
そこで、日本は先手を打つことにしたのです。

 

1904年2月6日、日本はロシア側と国交を断絶、公使館引き上げを通告します。そして、2月8日の夜、日本海連合艦隊旅順港のロシア旅順艦隊を奇襲攻撃し、日露戦争が始まりました。
日本の宣戦布告は2月10日に出しましたが、軍事力に勝るロシアに勝利するためには先制奇襲攻撃しかなったのです。

 

戦争開始から3カ月間、旅順の出入口に古い船を沈める旅順港閉塞作戦を開始しますが失敗に終わりました。8月旅順港から出撃したロシア旅順艦隊と連合艦隊が激突した黄海海戦や朝鮮の蔚山沖海戦ではロシア旅順艦隊に打撃を与えました。

 

陸地の戦いは4月~5月鴨緑江会戦や旅順半島の南山会戦ではかろうじて勝利しますが死傷者4000人の大きな損害を受けました。8月7日、乃木希典陸軍大将率いる第3軍が旅順のロシア軍要塞に総攻撃をかけますが、強固な要塞に阻まれ、死傷者1万5000人の大損害を受け失敗に終わりました。

 

シベリア鉄道バイカル湖迂回路線は日露戦争中の1904年9月25日、突貫工事の末、開通しました。 これにより首都からチタまでシベリア鉄道、チタからウラジオストクまで東清鉄道で直結し、東清鉄道のハルビンから満州支線の大連、旅順まで直結したのです。
(なお、アムール川スレチェンスクからハバロフスク間の鉄道が開通し、ロシア国内を走るシベリア鉄道として完全に直結するのは12年後で、ロシア革命の1年前の1916年になります。)

 

旅順要塞に10月26日に第2回目、11月26日に第3回目の総攻撃をかけますがまたしても攻略できず、多くの死傷者を出してしまいます。 作戦を変更し、攻撃目標を203高地に変えます。多大な死傷者を出しながらの苦闘の末、203高地を確保します。1905年1月1日、ようやく東北側の要塞防衛線を突破し、要塞陥落に成功します。 1月2日、ロシア軍要塞司令官ステッセル中将は降伏します。

 

1905年2月、総司令官クロパトキン大将率いるロシア軍の拠点奉天に攻撃を開始、1905年3月ロシア軍を奉天から撤退させましたが打撃を与えることができませんでした。

 

日露戦争の最中の1905年2月9日の日曜日の朝、首都サンクト・ペテルブルクで10万人の労働者とそのリーダー「ガボン司祭」は憲法制定、言論の自由政治犯や農民・労働運動家の釈放、法のもとの万人の平等、過酷な労働条件の改善などを求める請願書を携え、冬宮へのデモ行進を始めます。

 

デモはツァーリが住む冬宮の広場に集まろうとしていたとき、警備のために配備された兵士たちは群衆に向け無差別に発砲し、1000人以上の人々を虐殺しました。
この「血の日曜日」事件はロシア国民を動揺させ、この事件を契機に国民はツァーリから離れて行くことになります。
1905年2月初めアレクサンドル二世の息子モスクワ総督セルゲイ大公が爆殺されました。

 

バルト海を出て7カ月の航海を経て日本海に到達したロシア海軍バルチック艦隊は1905年5月28日東郷平八郎海軍大将を司令官とする連合艦隊と激突しました。2日間の海戦でバルチック艦隊は壊滅し、連合艦隊は大勝利を収めたのです。
予想もしなかったバルチック艦隊の壊滅に西欧諸国は驚愕します。
1905年6月には黒海の艦船ポチョムキンの水兵たちが反乱を起こしました。

 

国内の騒動とバルチック艦隊の壊滅で窮地に立たされたニコライ二世は、アメリカ大統領の斡旋により、ポーツマスでの和平交渉を受け入れます。ロシアの全権大使はセルゲイ・ウィッテ、日本は小村寿太郎でした。

 

1905年8月、ウィッテは外交手腕を発揮し、ロシアは後に南満州鉄道となる満州支線の長春から旅順までの鉄道路線の譲渡、サハリン南部の割譲という軽い損失で戦争処理ができ、ツァーリ体制は維持され、ロシアの政治と社会の動揺は収まるかと思われました。
しかし、血の日曜日事件の代償は大きく、事態はさらにひどくなっていきます。

 

農村では貴族領主の館の焼き討ちが広がり、10月に入ると「憲法制定」を求める集会とデモが至るところで起きます。やがて、ウラジミール・レーニンと名乗るマルクス主義のウラジミール・ウリヤノフという男が革命を呼びかける運動が広がり始め、1917年のロマノフ王朝崩壊へと向かっていくことになります。

 

【参考】
1.「ロマノフ王朝 帝政ロシアの栄光と革命に消えた皇家」、金子俊一、新人物往来社、2011・9・19
2.「図説 帝政ロシア 光と闇の200年」、土肥恒之、2009.2.18、河出書房出版社
3.「ロシア史2 18世紀-19世紀」、倉持俊一、和田春樹、1994.10.1、山川出版社
4.「ロシアの歴史」、第6章近代ロシア帝国②、栗生沢猛夫、2010.5.30、河出書房出版社
5.「ロシア」、和田春樹、2001.4.15、山川出版社
6.「図説 ソ連の歴史」、下斗米伸夫、河出書房新社、2011.4.20