朝廷を早期退職、在家の沙弥となり、遁世者・歌人・作家生活に入った吉田兼好

吉田兼好の庵

私は15年ほど前から月1回「古典文学を楽しむ会(野田市読書連絡協議会)(参考2)」の講座「徒然草を楽しむ会」に出席しています。

 

2020年新型コロナウイルス感染症が流行し、約2年の休会後の2021年後半に再開しましたが会員は10数名に減少してしまいました。

この間、会長・役員の老齢化のため古典文学を楽しむ会(野田市読書連絡協議会)は「野田市文化団体協議会(参考1)」から退会、「徒然草を楽しむ会」の会長は体の不調により退任しました。

そして、2023年6月には講師の先生も体の不調により退任してしまいました。

 

会長を引き継いだ私は講師を探しましたが講師料や開催日や時間の折り合いが付かず、講師探しは難航し、とりあえず有志による調査報告会とすることで続行することを提案しました。

 

素人の勉強会や講義など聴きたくないという意見が出るのは当然で、賛同者がいなければ解散するつもりでした。

 

意外にも最終回出席者12人のうち内輪の勉強会でも良いという会員が4人残りましたので徒然草を楽しむ会調査報告会として続行することにしました。

(当面2~3カ月は試行期間として無料、その後資料代・会場費として500円徴収する)

 

その調査報告会一資料の徒然草の作者「吉田兼好」について報告します。

平家物語方丈記徒然草の背景にある鎌倉時代の年表

yaseta.hateblo.jp

吉田兼好の略歴】

吉田兼好(かねよし)は吉田神社の社務職と朝廷の神祇官として仕えていた父の卜部(うらべ)兼顕(かねあき)の三男として1283(弘安六)年にこの吉田の地に生まれました。1301年18歳になった兼好(かねよし)は「蔵人」の官位を得て後二条天皇朝廷に出仕します。

 

宮廷生活の間、大覚寺で主催の定期歌道会の師範や二条為世(ためよ)の門下になり和歌を学んだり、有職故実の知識を吸収したり、和・漢・仏にわたる広い教養を得たり、恋愛の経験もしたといいます。

 

【出家を決めた後の兼好】

1307年(24歳)で官位が「左兵衛佐(すけ)」に昇進するも次第に宮廷生活に疑問を抱き、1313年(30歳)に出家を決心する。

yaseta.hateblo.jp

1313年(30歳)出家後、六条三位家から山城の国山科(やましな)の小野庄(京都市山科区山科)の水田一町を買い、吉田から移り住む。

(小野庄の水田は隠遁生活費を稼ぐため購入したと思われる。)

小野庄に住んでいた間に二度、鎌倉と金沢(横浜市金沢区)下向している。

1320年(38歳)比叡山の近くの横川(よかわ)に籠居する。

1322年小野庄(京都市山科区山科)を柳殿(尼衆寺)に塔頭用に売寄進。寄進状には自ら「沙弥兼好」と署名。

1323年(41歳)横川から下山、京の双ヶ岡へ移り住み、歌人になる。

1317~1331年の14年にわたり徒然草を執筆するも注目されず。

1352年 吉田兼好死去(69歳)

1431年徒然草は武士で歌人今川了俊の弟子「正徹(しょうてつ)」によってまとめられ世に出ることになる。

 

【俗人の出家には2つの道がある】

(1)第1の道 俗世間と断ち切る道

年少時、寺に入り剃髪して沙弥戒を受けて「沙弥(しゃみ)」または「沙弥尼(しゃみに)」になり、数年の修行後、具足戒を受け「比丘(びく)」または「比丘尼(びくに)」になる。そして、生涯一定の宗派に属し、寺院生活を送る。

 

(2)第2の道 在家の沙弥としての道

中年以降、何らかの動機で出家・剃髪し、沙弥戒を受け沙弥になる。官職を離れるけれど、宗派や寺院に所属せず、具足戒を受けることなく、一生沙弥・沙弥尼で終る。

 

この第2の出家者は遁世者・世捨人と呼ばれるようになり、第1の道の沙弥と区別するため「在家の沙弥」と呼ばれました。

俗名、卜部 兼好(うらべ かねよし)は遁世者として兼好(けんこう)法師と呼ばれ、自分では「沙弥兼好」と称していたといいます。

遁世者自身は「沙弥 某」と称し、他人からは「某 法師」、「某 御坊」、「某 入道」と尊称されていました。

 

例として西行法師は俗名、佐藤義清(のりきよ)、能因法師は俗名、橘永愷(たちばなのながやす)がおります。

yaseta.hateblo.jp

著名な文芸人として西行や兼好のほかに鴨長明は蓮胤(れんいん)、藤原定家は明静(みょうじょう)、二階堂貞宗は頓阿(とんな)と呼ばれていました。

その外、在家の沙弥として平清盛は浄海、遠藤盛遠は文覚(もんがく)、北条時頼は道宗(どうすう)、足利義満は道義(どうぎ)などがおります。

 

女性の在家の沙弥尼として藤原「俊成の娘」は浄如(じょうにょ)、

安嘉門院 四条(あんかもんいん しじょう)は阿仏(あぶつ)、

建礼門院平徳子は真如覚(しんにょかく)などがおります。

 

【ことば】

*蔵人(くろうど): 天皇の側近、文書の管理、衣食など日常生活の奉仕、勅使の伝達・天皇への上奏、除目、節会の儀式などの職務にあたる。

*除目(じもく): 大臣以外の官吏の任命式。

*節会(せちえ): 宮中でもよされる儀式や宴会。

有職故実(ゆうそくこじつ): 朝廷の儀礼・行事・官職・服飾などについての知識や学問。

塔頭(たっちゅう) :  本寺の境内にある小寺。わきでら。

*沙弥 : 仏門に入り、剃髪・得度したばかり修行未熟な僧。

*沙門(しゃもん): 修行僧・僧侶。

*法師 : 仏法に精通し、衆生の師となる人。

*入道 : 仏門に入って修行すること。修行中の僧。

*戒 : 良心の悪を防ぎ善をすすめる。信者が守るべき掟。

*具足 : ①仏教用語、十分そなわり足りていること。

*具足 : ➁道具、所持品、武具、家来、和歌などの素材。

十戒 : 仏教の十のいましめ。十悪(じゅうあく)を犯さないこと。

1殺生(せっしょう)

2偸盗(ちゅうとう=盗み)

3邪淫(じゃいん)

4妄語(もうご=うそ)

5綺語(きご=ざれごと)

6悪口(あっく)

7両舌(りょうぜつ=二枚舌)

8貪欲(どんよく)

9瞋意(しんい=怒り)

10愚痴(ぐち)

*俊成の娘 : 新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人

*安嘉門院四条 阿仏尼 : 十六夜日記の作者

 

【参考】

1.野田市文化団体協議会(1948年4月~)

1948年4月野田市の文化活動振興を図るために野田市文化団体協議会が組織され、その下部団体の一つに野田市読書連絡協議会があり、その活動団体が「古典文学を楽しむ会」である。加盟団体として野田市読書連絡協議会、野田文学会、野田囲碁会・生け花・ダンス・陶芸など63団体(2021年)がある。

2.野田市読書連絡協議会(古典文学を楽しむ会)(1948年4月~)

1990年に名称が「古典文学を楽しむ会」になり、会員は30~50人となり、2016年頃から講座が増え、2018年には徒然草を楽しむ会、源氏物語を楽しむ会、枕草子を楽しむ会、古事記を楽しむ会、奥の細道を楽しむ会の5講座なりました。

学習テーマにより講座名を変えています。

 

コロナ感染第9波は2023年8月初旬頃から減少という予想は外れ、依然として増加傾向にあり。

全数把握換算のコロナ1日感染者数推移図

コロナ感染第9波予想図

yaseta.hateblo.jp

2023年8月6日(7/31~8/6の1週間)の1医療機関当りの新型コロナウイルス感染者は15.81人で1日感染者数に換算した値は79,050人でした。

 

この値は3月後半から一貫して増加してきた1日感染者数は8月6日に前週比で500人ほど減ったことから私は感染が減少に転じたと思い込みました。

そして次の8月13日の1日感染者数は70,800人と前週比で8,250人(11.7%減)減少したので予測通り、8月中旬から感染終息に向かうと期待しました。しかし、大きな間違いでした。

 

新型コロナウイルスによる国内1日感染数一覧

2023年7月10日~9月10日の1週間単位(単位:人)

日付       定点観測   感染者      増減

7月16日   11.04      55,200      9,500

7月23日   13.91      69,550      14,350

7月30日   15.91      79,550      10,000

8月6日    15.81      79,050      -500

8月13日   14.16      70,800      -8,250

820日   17.84      89,200      18,400

8月27日   19.07      95,350      6,150

9月3日    20.50      102,500     7,150

9月10日   20.19      100,950     -1,550

 

グラフと国内1日感染数一覧に示すように8月20日になると減少から反転し再び増加し、9月3日までの半月は感染増加を続けました。そして9月10日の1日感染者数は前週比で1,550人減少、1.5%減少と再び減少しています。

 

結局、8月6日の素人予測は外れました。

yaseta.hateblo.jp

厚生労働省の定点報告は定点医療機関が一週間に報告したデータを1医療機関当りの感染者数に平均した値です。

また、病院に行かない軽度の隠れ感染者の多くが存在することが考えられます。

 

そして、厚生労働省の定点報告はあくまでコロナ感染状況を大きくとらえ「流行入り」か「注意」か「警報(警戒)」かを知る事であり、自分の身を自分が守るための指標であると再認識しました。

 

定点報告の1~2の値でコロナ感染状況の予測は土台無理で、長いスパンで判断すべきでした。

 

私の判断ミスでその代償を払うことになりました。

感染が下火になると私は勘違いして、気を緩め、マスクや手洗いは時々になり、図書館やコーヒーショップに行く回数が多くなりました。

9月12日10km走った後の夜、疲れが出たので早めの9時過ぎに就寝したが寝苦しさを感じ、1時間おきに目が覚めました。

13日は喉が少しおかしいのでうがい薬でうがいをしたら良くなったのでここ2年ほど鳴りをひそめていたブタクサアレルギーが再発したと思っていました。体温は37.7度、夕方になると咳と痰が少しでるようになりました。

14日朝体温は37.3度、ひょっとするとコロナに感染したかもと思い、コロナ検査キットで検査したところ陽性でした。

午後、キッコーマン病院で抗原・抗体検査を受け、コロナに感染していることが確定しました。

そして、咳と痰の薬を処方してもらい薬局で薬をもらいました。

18日咳や痰が時々出ることや体が熱いような寒いような症状があることから通常の体調と若干異なりますがこれ以外の症状は今のところありません。

 

抗原・抗体検査日から5日間は外出を控えるように言われ、しばらくは小説とテレビ三昧の巣ごもり生活です。

 

****************************************************

*定点観測値のコロナ感染状況判断基準

(インフルエンザの基準値適用)

1週間の1病院当り感染者 -------  1人 ------- 流行入り

1週間の1病院当り感染者 ------- 10人 ------- 注意報

1週間の1病院当り感染者 ------- 30人 ------- 警報

****************************************************

 

コロナ感染第9波は2023/7/30に9割の都道府県が感染増加していたが2023/8/6には増加が5割に減少し感染減少が始まったと思われます

2023/8/6コロナ感染者数推移図

コロナ感染第9波予想図

yaseta.hateblo.jp

*コロナ感染状況(1日感染者数は定点把握値の全数換算値)

日付-----国内1日感染者数---東京1日感染者数

--------国内定点把握)--(東京定点把握)

5月7日-----8,600---------1,600

-------------1.71人)-------2.86人)

6月4日-----22,800---------3,000

-------------4.55人)-------5.29人)

7月9日-----45,700---------4,200

-------------9.14人)-------(7.58人)

7月16日----55,200---------4,600

------ -----13.91人)-------9.35人)

7月30日----79,600---------6,100

------------15.91人)-------11.12人)

8月6日-----79,100---------6,300

------------15.81人)-------11.53人)

 *7月31日~8月6日

・1週間の1日感染者数

 国内79,100(前週比-500)人、

 東京 6,300(前週比+200)

・1週間の1病院当りの感染者数

 国内15.81(前週比-0.10)人、

 東京11.53(前週比+0.41)

 *感染増加が続いている24県の中の主な県

 前週47県中42県増加 → 現在24県増加中

 2023/7/23~7/30   →   2023/7/31~8/6

    東京11.12(+1.77) → 11.53((前週比+0.41)

 佐賀31.79(+4.35) → 34.69(前週比+2.90)人

 山口18.76(+3.77) → 21.18(前週比+2.42)人

 大分24.33(+3.21) → 24.86(前週比+0.53)人

 北海道8.83(-0.09) → 10.16(前週比+1.33)人

 青森 4.05(-0.30) → 13.62(前週比+5.39)

 岩手13.26(-0.30) → 15.79(前週比+2.57)

 山形 5.37(-0.16) → 12.42(前週比+1.63)

 秋田 4.35(-0.52) →  8.08(前週比+1.02)

 宮城18.41(+3.46) → 18.87(前週比+0.46)

*感染減少に入っている23県の中の主な県

 前週47県中4県減少 → 現在23県減少中

 2023/7/23~7/30   →   2023/7/31~8/6

 国内15.91(+2.00) → 15.81(前週比-0.10)

 千葉18.36(+3.00) → 17.92(前週比-0.44)

 長崎30.29(+7.35) → 28.46(前週比-1.83)

 宮崎27.21(+2.74) → 25.84(前週比-1.37)

 沖縄17.59(-4.84) → 10.54(前週比-7.05)

 7月31日前週比で47都道府県中9割の42県が増加していましたが8月6日には前週比で増加したのは北海道・東北地方など5割の24県となり、残りの23県が感染減少に入っているので国内全体ではこれから減少に向かうものと思われます。

**********

*定点観測値のコロナ感染状況判断基準

(インフルエンザの基準値適用)

1週間の1病院当り感染者 -------  1人 ------- 流行入り

1週間の1病院当り感染者 ------- 10人 ------- 注意報

1週間の1病院当り感染者 ------- 30人 ------- 警報

**********

 

2023/7/10~7/16のコロナ平均1日感染者数は国内55,200(前週比+9,500)(人/D)、東京4,600(前週比+400)(人/D)と予想より高い値で増加中

概略国内・東京コロナ感染者数推移

*定点観測値のコロナ感染状況判断基準

(インフルエンザの基準値適用)

1週間の1病院当り感染者 -------  1人 ------- 流行入り

1週間の1病院当り感染者 ------- 10人 ------- 注意報

1週間の1病院当り感染者 ------- 30人 ------- 警報

 

*コロナ感染状況(1日感染者数は定点観測値の換算値)

日付-----国内1日感染者数---東京1日感染者数

--------国内定点観測値)--(東京定点観測値)

5月7日-----8,600---------1,600

-------------1.71人)-------1.56人)

6月4日-----22,800---------3,000

-------------4.55人)-------5.29人)

7月9日-----45,700---------4,200

-------------9.14人)-------(7.58人)

7月16日----55,200---------4,600

------------11.04人)-------8.25人)

7月10日~7月16日の1週間の1病院当りの感染者数は国内11.04(前週比+1.90)人、東京8.25(+0.67)人で1日感染者数は国内55,200(前週比+9,500)人、東京4,600(+400)人でした。

沖縄の31.83人は前週比が-9.84と2週連続減少したことで感染がしにくくなる集団免疫を獲得した可能性があると2023.7.22の読売新聞は伝えています。

前週より減少した青森4.05(-0.30)人、秋田4.35(-0.52)人、山形5.37(-0.16)人はこれから増加に転じる可能性もあります。

ほとんどの県が増加しており、30人の警報レベルには達していない16~23人の高い感染率レベルを出しているのが佐賀23.05(+7.72)人、宮崎20.79(+4.79)人、鹿児島19.08(+1.90)人、長崎16.66(+5.16)人、大分16.47(+4.71)人の九州地方です。

国内全般でみると11.04と注意レベル10人以上であり、また予想より高い感染速度で増加が続いています。

yaseta.hateblo.jp

武士道精神の原点「北条時頼の撫民思想」と騎士道精神「ノブレス・オブリージュ」

鎌倉時代の年表

一神教キリスト教国西洋が持つ異教徒に対する優越感】

1868年(明治元年)、国際舞台にデビューし、近代化に梶を切り替えた日本の明治時代前半は世界に追いつけ追い越せと、莫大な費用をかけ招聘した外国人教授・専門家の「お雇い外国人」から必死になって政治・産業・科学技術・教育・文学・芸術などすべての分野について学んでいました。

(お雇い外国人の招聘を終了した明治28年(1895)を境に明治時代を概略前半と後半に分けた。)

1.明治時代前半28年間:明治元年(1868)~明治28年(1895)

2.明治時代後半17年間:明治29年(1896)~明治45年(1912)

yaseta.hateblo.jp

確かに当時の日本は西洋より国力や科学技術では劣っていましたが一般国民の識字率はむしろ西洋人より高く、考え方や道徳感は同等かそれ以上の素質を持っていたと思います。

しかし、西洋人は人生・生活の指標・教養・道徳それらを土台とした価値観は聖書だけにあり、それを信じるキリスト教国以外の異教徒の国民は西洋人の価値観や教養や道徳心を持っていないとみなされていたようです。

 

何しろ、明治時代初期は極東の地日本に関する情報伝達は遅く、西洋の多くの図書館には改訂後の百科事典の配置が遅れていたため、日本の項には「専制君主「徳川将軍」が支配する鎖国独裁国家である。」と旧記述のままになっており、一般西洋人は「侍が支配する国、国民は粗暴、無教養、道徳心が薄い」ということが日本のイメージだったといいます。

 

そんな明治時代前半の日本のイメージを払拭し、国際的地位向上につながったのが以下の事件でした。

         鑑三は既に身についていた仏教思想を基礎に東洋的キリスト教思想を提唱し

  た。

         新渡戸は留学先で度々日本に道徳心はあるのかと問われ英文による本「武士

         道」の作成に至った。

   (*2)内村鑑三    [1861(万延2)-1930(昭和5)]と

                  新渡戸稲造[1862(文久2)-1933(昭和8)]はお雇い外国人であるク

                  ラークの影響を受けて札幌農学校時代の同じ年の1878(明治11)年に

                  キリスト教に入信した。

yaseta.hateblo.jp

専制君主が支配する劣等国と思われていた日本が国際舞台に姿を見せて間もないのに、いつの間にか先進国のハードウエアとソフトウエアを学習、使いこなし、ギリシャや東欧などが属する東方正教会キリスト教国の大国ロシアに勝利したことに西洋の人々は驚愕したと言います。

 

【武士や民衆に広がった改革奈良仏教と鎌倉新仏教】

安元の大火、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震など、特に、平安末期から鎌倉末期にかけて大火事、大風水害、戦乱、旱魃、飢餓、大地震を記録する資料や歴史書が残っています。

 

頻繁に起こる自然災害や戦乱に民衆が苦しみ、絶望し、救いを求め、すがったのが仏教でした。それに答えるかのように、浄土宗や浄土真宗曹洞宗などの鎌倉新仏教と奈良・平安時代から続く、法相宗華厳宗律宗など旧仏教の奈良改革仏教が次々と興りました。

民衆だけでなく戦いに明け暮れる武士にも絶望感や無力感やはかなさなどの気持ちが湧き出て、無常や運命そして極楽浄土という日本独特の思想が生まれました。

この時代に作られた平家物語方丈記徒然草に無常感や運命感が表現されています。

 

【武士道の原点】

仏教伝来から500年以上経た平安時代末期になると朝廷や公家の政治がほころびはじめ、力をつけてきた武官や武士が政権を取って代ろうとしていました。

(源氏や平家一門は職人としての武士ではなく朝廷の軍事を司る武官でした。源氏は1167年平清盛太政大臣になった頃までには官位をはく奪されており、源頼朝は職人としての武士として見なされていました。平家は1199年に滅亡するまでは武官でした。追記2

1167年平清盛が初めて下位の武官が公家から政権を奪い、1192年源頼朝は政治の中心を京都から鎌倉に移し、武士による実質の武家政権を確立しました。

 

鎌倉時代初期、武士が統治者になって初めて国を統治する能力の未熟さに気が付き始めました。武士は収奪者ではなく民百姓を育て収穫を増加させる支援者として武士が質的に変化しなければならないという考えが現れ始めます。(参考3

 

鎌倉時代初期の幕府の財政基盤は関東の幕府の所領のほか、平家を倒して没収した全国500カ所の所領だけでしたが鎌倉時代中期の1203年に鎌倉幕府の執権を掌握した北条家の初代執権の北条時政は1221年後鳥羽上皇が起こした承久の乱を制圧、東国と西国に所在するそれぞれ1500カ所の合計3000カ所にある公家や皇族さらに京側に味方した武士の所領を没収したことにより幕府の財政は一挙に増加し政権は盤石なものとなりました。(参考3

 

これら所領を承久の乱の恩賞として御家人に与えた結果、西国にも所領を持つ東国御家人が大量に増えました。

しかし、自分のまわりの所領だけから年貢を取り立てれば事足りた東国武士は幕府の年貢取り立てシステムの国司として西国を統治するとなると統治方法や法令を読み書き・理解し実施する必要になり、戸惑い混乱しました。

 

国司を務める上級の東国武士でさえ、学識・教養が低く、直接、民百姓と接する中級・下級レベルの武士たちは読み書きできるものは少なく、民百姓を束ねる庄屋・名主の方がはるかに学識・教養が高かったといいます。

公家は国司に所領の管理を任せていたので民百姓がどうなろうとまったく関心がありませんでした。しかし、500年以上にわたって築き上げてきた公家による統治システムや方法は高く評価されるものでした。

 

第3代執権の北条泰時は貞永元年(1232)民百姓から年貢が公家時代と同様に集められるように武士の行動規範を示した法令「御成敗式目貞永式目)」を制定します。

御成敗式目」は京都の朝廷が定めた「公家法」を否定するものではなく、幕府組織の武士・御家人に適用する法律であることを明確にし、殺人が巧みな職人でなく、武士のあり方を見直し、「民百姓をいつくしむ撫民(ぶみん)思想を根底において統治する」というこれまでにない画期的な法律でした。(追記3,5,参考3

 

それから15年後の宝治元年(1247)第5代執権北条時頼宝治合戦にて三浦一族を滅ぼし幕府政権をさらに強固にしていきます。

このころ(鎌倉時代中期)になると政権も生活も安定してきてかつて東国武士のイメージが粗野で乱暴から質素倹約・清廉と変わってきました。

徒然草に時頼の母の松下禅尼は破れた障子を繕うことで時頼に倹約の精神を教えたというエピソードがあります。(追記5

 

御成敗式目」が施行されましたが依然として武士たちによる農民からの行き過ぎた搾取がみられました。時頼は武士の統制を強めますが武力で押さえつけるには限界がありました。

そこで時頼は武士たちを本質から変える政策を打ち出します。

建長5年(1235)御成敗式目の追加法「撫民(ぶみん)令」を発令、さらに「撫民に関する具体的な法令」たとえば「土民百姓を苦しめる守護や地頭の苛政を取り締まる法令など次々と出していきました。

 

建長5年(1235)の時頼の撫民政策の一つとして武士の質を変えるため鎌倉に建長寺を建立禅宗の僧侶のもとに武士たちに禅の修行をさせたのです。

さらに円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺など鎌倉五山を建立し禅宗による精神修養で自制できない粗暴・収奪者から自己規制の心を育み民衆の利益を優先する統治者と変えていきました。

 

この撫民政策の精神修養は武士道の原型となったのです。

西洋にはキリスト教由来の騎士道精神に「ノブレス・オブリージュ(高き身分にともなう義務)」がありますが我が日本にもやがて騎士道精神同じ「戦う勇敢さと強さだけでなく、統治者として弱者を慈しむ心を持つ」という武士道精神が出来上がっていくことになりました。

yaseta.hateblo.jp

【追記】

1.日本仏教

この日本仏教の思想は奈良仏教の改革仏教の貞慶(法相宗)、高弁(別名 明恵上人、華厳宗)、忍性(律宗)、鎌倉新仏教の法然(浄土宗)、栄西臨済宗)、親鸞浄土真宗)、道元曹洞宗)、日蓮日蓮宗)、一遍(時宗)に流れる基本的思想の一つと思われます。

仏教は日本に伝来してから皇族や貴族は熱心に受け入れ、民衆も生活に大きな位置を占めるようになりましたが既に朝廷や民衆には日本古来から神々を信仰し、尊重する社会や生活基盤ありましたのでただ一つの神しか認めないキリスト教と違い、仏教では神道の神を尊重し、神道を仏教の神である仏や菩薩と習合したハイブリッド型の日本仏教をつくることに成功したと思われます。

2.鎌倉時代の武士

平安時代末期から鎌倉時代初期、武士(さむらい)は白拍子と博打打ちと同様に職人として分類されており、殺人が巧みな職人とみなされていました。

参考1の添付解説資料「武士と浄土宗」中沢新一

そのころの武士は乱暴で残虐であり、民衆を守るという概念はなく、自分たちの生活の安定、領土の防衛・獲得を主たる目的にしていました。(参考3

平安時代末期、朝廷の警護や軍事を担っていた平氏一門は桓武天皇、源氏一門は清和天皇の流れを組む貴族で武士(さむらい)ではなく朝廷の組織の武官でした。

しかし、武官の最高位は六位で、殿上には上がれず、殿上人(てんじょうびと)の公家から地下人(じげじん)と見下されていました。(平家物語1「殿上の闇討ち」)

*殿上人:朝廷の殿上の間への昇殿を許された官位が五位以上の人

*地下人:殿上の間に昇殿できない官位が六位以下の人

1131年、平忠盛から平家一門で初めて殿上人になり、1167年、息子の平清盛はクーデターを企て政権を握ると最高位の正一位はじめ上位の官位の多くは平家一門が占めるようになりました。

保元(1156)・平治(1159)の乱で敗北した源氏一門は壊滅、官位は消滅、源平合戦(1185)で平家一門が滅亡、官位は消滅しました。そして、伊豆に配流された源頼朝は1192年鎌倉幕府を開き新たに武士の組織・階級を創設しました。

3.公家と統治システム

公家は幼いころから和歌や漢文や仏教・故事などを学び学識・教養を身につけていました。成人になると朝廷でそれぞれの分野の役職に就き、有職故実や法令などを学習・実践しながら政務をこなすほか歌会など宴会・芸能・学識の会合を行っていました。

西国を統治していた公家は所領の管理を西国武士の国司にまかせ、そこに住む民百姓にはまったく関心がありませんでした。

しかし、500年にわたって築き上げてきた公家による統治システムや統治の方法は高く評価されるものでした。

4.禅宗

坐禅修行を主とする臨済宗曹洞宗などの仏教宗派が「禅宗」と総称される。

5.撫民思想

北条泰時、時頼の撫民思想は孟子のことばに基づいている。

孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いている。(徒然草 第142段 心なしと見ゆる者も、第184段 相模守時頼の母は)

【参考】

1.「新編日本古典文学全集46 平家物語2」、校注・訳 市古貞治、小学館、1994.8.20

2.「新編日本古典文学全集44 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄」、校注・訳 神田 秀夫、永積 安明、安良岡康作、小学館、1995.3.10

3.「さかのぼり日本史⑧室町・鎌倉“武士の世”の幕開け」、本郷 和人、NHK出版、2012.3.25

4.「原勝郎博士の日本通史」、原 勝郎(著)、中山 理(訳)、渡辺 昇一(監修)、祥伝社、2014.4.5

5.「日本文学の歴史5 古代中世篇」、ドナルド・キーン土屋政雄 訳、中央公論社、1995

6.「日本史年表・地図」、児玉 幸多、吉川弘文館、2013.4.1

 

2023/5/8第5類移行から1か月後の6/18国内コロナ1日感染者数は概略28,000人で移行前日5/7の8,600人から約3.3倍に増加。

全数把握換算のコロナ1日感染者数推移図

大型連休明けから新型コロナウイルス感染症は「第2類」から季節性インフルエンザと同じ「第5類」に施行される報道を聞き、2003年4月26日にコロナ感染動向として第9波の到来の超概略の予想グラフを作りました。 

yaseta.hateblo.jp

2023年5月8日に第5類が施行され、感染者数の報告は「毎日の全数把握」でしたが週一回の1つの医療機関当りの7日間の感染者数の報告(定点把握)になりました。

 

その結果、5類移行前の5月7日の全数把握の国内1日感染者数は8,600人でしたが、定点把握換算すると1病院当りの感染者数1.7人となります。

 

5月8日から初めて定点把握測定が始まり、5月20日に5月8日から5月14日の定点把握値が1病院当りの感染者数2.56人と発表されました。インフルエンザの基準値で概略の傾向を知り、注意することができると言っています。

*インフルエンザの基準値

1週間の1病院当り感染者 -------  1人 ------- 流行入り

1週間の1病院当り感染者 ------- 10人 ------- 注意報

1週間の1病院当り感染者 ------- 30人 ------- 警報

 

しかし、全数検査で感染動向を2年半見ていた私はすぐには理解できません。

 

今後、第9波予想グラフが予想したように感染が増えていくのか動向を追うため、2023年5月14日からも、1病院当りの国内感染者数を全数把握の国内感染者数に換算して、これまでのように国内1日感染者数推移グラフにして確認することにしました。

 

6月12日~6月18日の7日間平均の全数把握換算1日感染者数28,000人は5類移行前の5月1日~5月7日の実績全数把握7日間平均1日感染者数8,600人の約3.3倍と感染速度が予想より高く進んでいます。

 

コロナ感染症に対し予防薬や治療薬もそれなりに出て、死亡リスクが低くなり、インフルエンザ並みの扱いになったことで、国民・マスコミの関心はコロナ感染から生活・経済活重視に移り、薄れています。

 

私はこれまで新聞やインターネットなどからデータを写し動向を見てきている関係上このまま調査を続行しようと思います。

イエス・キリストとはそも何者ぞ?「第5話:聖書は唯一の神に従えば恩恵にあづかるという教えをもとに編纂された古典文学である」

創世記から初代イスラエル王国成立までのフローチャート

yaseta.hateblo.jp

ウォルター・ワンゲリンの小説「聖書」3部作を読んだ後、聖書の入門書を参照しながら本物の聖書の内容を概略調べてみました。

 

旧約聖書は製作年代も作者も不明で口伝によるものが多く、紀元前7世紀前半から紀元1世紀末までのおよそ700年かけて編纂されユダヤ教の正典として確立されました。

 

旧約聖書は39巻の文書からなり、(1)神話と歴史(モーセ5書、王国成立、バビロンの捕囚など22巻)、(2)文学(詩篇箴言、雅歌など5巻)、(3)預言(イザヤ書、ホセア書など17巻)に分類されています。

箴言(しんげん):実践的な教訓や格言

*雅歌(がか)  :男女の愛の歌や詩

 

新約聖書は紀元後1世紀末から紀元後4世紀末までのおよそ300年かけ編纂されキリスト教の正典として確立されました。

 

新約聖書は27巻の文書からなり、(1)福音書(マタイ福音書、マルコ福音書など4巻)、(2)使徒文書(使徒行伝、パウロ書簡、公同書簡ヨハネ黙示録など23巻)に分類されています。

 

新約聖書の文書概要

マタイ福音書        : イエスの生涯を物語形式の記述

使徒行伝・パウロ書簡 : 布教の記録

公同書簡           : 教会に送られた手紙

ヨハネ黙示録        : この世に対する神の審判について手紙形式の記述

 

紀元50年代に執筆されたパウロの書簡が最も早く、70年代~90年代の4つの福音書、2世紀前半の教会書簡と公同書簡、最後にヨハネ黙示録となります。

紀元393年にキリスト教の正典として確立されました。

 

聖書は難解な仏教の経典やお経と同様であると思っていましたが聖書の構成内容をみると、西洋人の神との向き合い方や思想を土台として神話と歴史書や詩歌や随筆や紀行文や手紙を体系的にまとめ編纂された一種の古典文学と言っても良いのではないかと思いました。

 

途方もない年月をかけ、神話、史書、物語、歌集、手紙などの中から神に関する文書を厳選し、体系的にまとめ、現在ではだれでも読めるような形になっており、世界の7億人のキリスト教徒が読んでいる聖書を不十分な知識で比較するのはおこがましいと思いましたが理解するためにあえて日本の古典文学を集めまとめると日本版聖書になるか検討してみました。

 

日本の場合は紀元後538年に仏教が伝来し、当時の国の統治者は五穀豊穣や国の安寧を願い仏教を導入したが民衆の生活基盤であった神道では仏教と習合した神道が生まれ、仏教では神々は仏や菩薩に姿を変え人々を救うという日本的仏教が生まれました。

 

平安末期から鎌倉末期にかけて戦乱、大火事、大地震、大風水害、旱魃、飢餓が次々おこりました。

民衆がこれらの災害に苦しみ絶望したこの時代に浄土宗、臨済宗浄土真宗曹洞宗日蓮宗時宗など6つの鎌倉新仏教が興り、法相宗華厳宗律宗など旧仏教の改革活動が行われました。

 

そして、この時代に起こった民衆の無力感やはかなさやあきらめから無常や運命という日本独特の思想が生まれました。この時代に作られた平家物語方丈記徒然草は無常感や運命感が表現されています。

 

日本独特の無常やはかなさや運命と言った仏教思想のもとに日本最古の神話「古事記」(712)や史書日本書紀」(720)、和歌集「万葉集」(785)や紀行文「土佐日記」や「源氏物語」、随筆「枕草子」、「方丈記」そして「古今和歌集」、「平家物語」、「徒然草」をまとめれば日本の聖書になるのではないかと思いました。

 

しかし、よくよく考えてみると歴史が示すとおり、日本には聖書が生まれることは不可能でした。西洋は一神教ですが日本は多くの本地仏を持つ多神教の仏教は思想が統一していないからです。

 

聖書を少し理解したあと、もう少し掘り下げて勉強してみようと思います。

 

とりあえず旧約聖書の前半部の天地創造からイスラエル王国成立までをフローチャート図にしてみました。

 

そして、わかったことは自然界に宿る神仏習合の八百万(やおよろず)の神と違って天地創造したただ一つの神ヤハウェは天と地・自然をコントロールする超越した存在でした。

 

大火事、大地震、大風水害、旱魃など自然界の災害はヤハウェが堕落した人間や異民族を絶やすためや選ばれた民との契約のためや契約違反した民を罰するために与えるものと考えられています。

 

ヤハウェに選ばれたイスラエルの民は神を信仰することを誓い、契約を結びます。

神は異教徒だけでなく神との約束(信仰)を破ると容赦なく殺すという残虐性を持っています。

神が与える罰が大火事、大地震、大風水害、旱魃、飢餓であり、武力です。

神は他の宗教に移ることを契約違反(裏切り)ととらえ、報復して契約違反を悟らせます。

これを悔い改めると言っています。

 

  • ノアの洪水(神に忠実だったノア一家を除き創世記以来数代増加した人類を根絶やした)
  • ソドムとゴムラ(堕落した民が住む町を悪徳の町として滅ぼした)
  • ファラオの民のエジプト人(ファラオがイスラエルの民のエジプト脱出を拒否したため殺戮)
  • カナン(約束の地)の先住民(ヨルダン川東岸の死海の北のエリコとアイの王と住民を女、子供までことごとく殺し、町を滅ぼしている。

 

ユダヤ民族の父アブラハムはカナン(乳と蜜が流れる地パレスチナ)を自分の子孫が譲り受けるという契約を神ヤハウェと結びました。しかし、約束の地カナンは既にペリシテ人などの異民族が暮らしています。

 

そこへアブラハムの子孫でモーセから引き継いだヨショアはイスラエル12部族を従え、ヤハウェの支援のもとに異民族をせん滅し、約束の地を手に入れたのです。

 

しかし、生き残った者や不安を募らせる周辺の先住民は黙っていません。カナンに定住後から初代イスラエル国家成立後も、外部の異民族から絶え間のない攻撃や侵入に悩まされることになります。

 

士師記はこの時期の領土防衛にあたった英雄や士師(裁きの人)の活躍を描いた物語でした。

yaseta.hateblo.jp

【追記】

紀元後に成立した新約聖書では神ヤハウェの子で人間の形をした神イエス・キリストが現れてきます。契約違反を許さないヤハウェと違いイエス・キリストは穏やかで愛があります。

キリスト教ではイエス・キリストは神ヤハウェからこの世に遣わされた神の顕現であり、神の子であり、聖霊であるという三位一体説を採用し、イエス・キリストは神であると言っています。

 

【参考】

1「新編日本古典文学全集46 平家物語2」、校注・訳 市古貞治、小学館、1994.8.20

2「新編日本古典文学全集45 方丈記 徒然草」、校注・訳 神田秀夫小学館、1995.3.10

3.「マンガでわかる聖書」、真野隆也、卯月サイドランチ(マンガ)、(株)池田書店

4.「聖書入門」、アンゼルム・グリューン、中道基夫訳、キリスト新聞社、2013.12.25

5.「聖書入門‐講談社選書メチエ」、フィリップ・セリエ、支倉崇晴訳、(株)講談社、2016.12.9

6.「旧約聖書 1955年改訳」、日本聖書協会三省堂、1965

7.「新約聖書 1954年改訳」、日本聖書協会三省堂、1965