1167年平清盛は武士として日本史上始めて最高権力者の地位「太政大臣従一位」に就任し、これまで天皇・貴族の理論中心の政治から武士の力中心の政治を始めますが、1181年道半ばで倒れ、平家は1185年壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、滅亡します。
【落日の平家】
1178年高倉天皇と后である清盛の娘「徳子(とくし)」の間に皇子が誕生し、平家は将来も栄華が続くと喜びに沸きます。一方、清盛に政治権力を握られ、不満を持つ後白河上皇はじめ貴族たちは平家打倒の陰謀を企みますが平家の勢いは衰えず失敗します。
1178年高倉天皇と后である清盛の娘「徳子(とくし)」の間に皇子が誕生し、平家は将来も栄華が続くと喜びに沸きます。一方、清盛に政治権力を握られ、不満を持つ後白河上皇はじめ貴族たちは平家打倒の陰謀を企みますが平家の勢いは衰えず失敗します。
1180年2月徳子(後の建礼門院)の皇子は3歳で安徳天皇となり平家の栄華は続きます。
1180年5月、以仁王(もちひとおう)の乱が起こり鎮圧しますが、8月源頼朝が関東で挙兵、寺院も平家打倒に加担し、平家落日の兆しが現れてきます。
1180年5月、以仁王(もちひとおう)の乱が起こり鎮圧しますが、8月源頼朝が関東で挙兵、寺院も平家打倒に加担し、平家落日の兆しが現れてきます。
1180年12月平重衡(しげひら)、平通盛(みちもり)南都(奈良)追討に出陣します。
平重衡を総大将とする平家軍は東大寺・興福寺などの抵抗する僧兵を鎮圧するため夜半の暗がりの中を、民家に火をつけ、あかりを目印に兵を進めますが折からの強風にあおられた火の粉は瞬く間に離れた民家と寺院に飛び移り大火災となり、東大寺(大仏殿、南大門)、興福寺など多くの寺院や民家が焼失してしまいました。
平重衡を総大将とする平家軍は東大寺・興福寺などの抵抗する僧兵を鎮圧するため夜半の暗がりの中を、民家に火をつけ、あかりを目印に兵を進めますが折からの強風にあおられた火の粉は瞬く間に離れた民家と寺院に飛び移り大火災となり、東大寺(大仏殿、南大門)、興福寺など多くの寺院や民家が焼失してしまいました。
【仏教の変革と鎌倉彫刻】
平家と源氏が政治の表舞台に登場し、貴族政治から武家政治へと日本社会が大きな変革が起こります。
仏教界においても法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(法華宗)、一遍(時宗)などの新興宗派が生まれ、既に根付いている仏教では道元(曹洞宗)や栄西(臨済宗)(*1)がさらなる布教活動展開するなど、仏教界は釈迦の精神への復帰運動など変革が起こります。
平家と源氏が政治の表舞台に登場し、貴族政治から武家政治へと日本社会が大きな変革が起こります。
仏教界においても法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(法華宗)、一遍(時宗)などの新興宗派が生まれ、既に根付いている仏教では道元(曹洞宗)や栄西(臨済宗)(*1)がさらなる布教活動展開するなど、仏教界は釈迦の精神への復帰運動など変革が起こります。
それにともない、合戦で焼失した南都の寺院の再建と新しい発想の基に寺院建築や造仏が盛んにおこなわれるようになり、多くの建築師、仏師が現れ、活躍します。
法然の弟子の重源上人は東大寺の再建事業を始めますが頭角を現したのが仏像彫刻の康慶(運慶の父)、運慶、快慶たちの慶派仏師達でした。
1203年に運慶と快慶が作った東大寺南大門の金剛力士像(東大寺を焼いた武士の力を怒り、仏.教の守護神の威力を示しているのかわかりませんが)こそ、新時代、鎌倉彫刻の代表的作品のひとつとなり、この作品とともに慶派彫刻は後世の造仏の分野に大きな影響を与えました。
1203年に運慶と快慶が作った東大寺南大門の金剛力士像(東大寺を焼いた武士の力を怒り、仏.教の守護神の威力を示しているのかわかりませんが)こそ、新時代、鎌倉彫刻の代表的作品のひとつとなり、この作品とともに慶派彫刻は後世の造仏の分野に大きな影響を与えました。
【重衡被斬(しげひらのきられ)】
1184年2月一の谷の合戦の源義経の坂落し奇襲で平家は敗北を帰し、平重衡は捕虜、平通盛は戦死、屋島の合戦でも敗れ、1185年3月壇ノ浦の合戦で平家一門は壊滅します。
そして、平正盛から始まった平家は3代目の清盛で隆盛を極め、5代目維盛(これもり)の子の妙覚の斬首により、6代で永遠に途絶えました。
1184年2月一の谷の合戦の源義経の坂落し奇襲で平家は敗北を帰し、平重衡は捕虜、平通盛は戦死、屋島の合戦でも敗れ、1185年3月壇ノ浦の合戦で平家一門は壊滅します。
そして、平正盛から始まった平家は3代目の清盛で隆盛を極め、5代目維盛(これもり)の子の妙覚の斬首により、6代で永遠に途絶えました。
(晩年には庵を訪問された後白河上皇は女院の地獄の体験を聞かれ涙を流されました。やがて「寂光院の鐘の声」が一日の終わりを告げ、上皇は帰って行かれました。建礼門院は1191年往生を遂げた。平家物語は「祇園精舎の鐘の声」で始まり、「寂光院の鐘の声」で終わると言われます。)
1185年6月伊豆に捕らえられていた重衡は源氏から奈良の大衆(だいしゅ、僧侶)に引き渡され、奈良に近い木津川の河原で武士により斬首されることになります。
大罪を犯したことは私の考えで発起したのではない、天皇の命令、父の命令に誰が背くことができなかった。しかし、罪の報いは返ってきました。私の運命はここで最後となる。
奈良への護送途中、法然の教えを受け、出家して「在家の沙弥」となり、重衡は「自分が重罪を犯してしまったが仏の世界は慈悲を第一としている。私は仏を拝みながら斬られたい」と守護の武士に頼み一体の阿弥陀如来を借り受けました。
仏の手を紐で縛り、一方を持ちながら、「一念弥陀仏(いちねんみだぶつ)、即滅無量罪(そくめつむりょうざい)(*2)、どうぞ願わくは、逆縁をもって順縁とし、ただいまの最後の念仏によって、九品の浄土(*3)に生まれるように」と
念仏「南無阿弥陀仏」を10回唱えながら、安らかな心で斬首されたといいます。
重罪を犯したことは許されないものの、この様子をみた数千人の大衆(僧侶)や守護の武士もみな涙をながしたという。