8月の絵「平家物語 京に攻め上る木曽義仲と平家一門の都落ち」

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1181年閏2月4日の清盛亡き後、嫡男の宗盛は平氏のリーダーになったものの、後白河法皇を制しながら源氏に対抗するという難題を解決し、平家一門だけでなく政治の安定化を図っていくというリーダーとしての素養に欠けていた。宗盛は策略家後白河法皇の心のうちを読めず、法皇院宣通り実行すると奏上、政治をすべて法皇にゆだね、各地で起こる叛乱鎮圧に全力を注ぐという路線をとっていった。

 

1181年3月10日、平重衡・通盛・維盛・忠度ら平氏の大軍は源行家率いる三河尾張の5,000余騎の尾張と美濃の国境・墨俣川(すのまたがわ)を挟んで合戦、勝利した。墨俣川を渡った源行家軍3,000人のうち1,000人余りが戦死、300人余りが負傷するという大損害を受け、頼朝の弟で義経の兄の義円が戦死した。

 

平氏の久々の勝利により、東海道方面の戦局は安定化に向かったかにみえたが、既に叛乱は各地に起こり、畿内近隣諸国にも及んできた。6月、平氏が期待していた越後の豪族城助職(じょうのすけもと)が1万余騎を率いて信濃に攻め入ったが千曲川の横田河原で木曽義仲、佐久源氏、武田氏連合軍に迎撃され、惨敗して退却した。

 

8月1日源頼朝平氏に対し、後白河法皇を通して和睦の申入れをするが宗盛は父清盛の遺言としてこれを拒否した。後白河天皇は対立する二つの勢力を巧みにあやつり、権力を維持しようと謀っていた。

 

一方、頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨を受けているが法皇からの院宣を受けていないため、現時点では賊軍である。頼朝にしてみれば法皇を介しての和議の申し入れ、これに対する平家の拒絶は初めからわかっていたことで、平家打倒を有利に展開させるための策略であった。

 

宗盛は各地の反乱に対して追討軍を派遣し、鎮圧を図った。しかし、9月の越前水津では義仲の先鋒・根井太郎に平通盛は破れ、さらに、追い打ちをかけるように日照りよる凶作が発生した。特に、平家の所領が多い西国地方の被害が大きく平氏は大きな打撃を受けた。

 

飢饉は全国に広がり、両軍とも戦いを続行することが不可能になり、飢饉から回復する1183年初めまでの2年間はこう着状態が続いた。

 

1183年3月、情勢が激しく動き始めた。東国では源頼朝と木曽(源)義仲の間が険悪になり、源氏内の戦い寸前となったが、義仲は長男の義高を人質として頼朝に送り、いったん和議は成立した。

 

一方、飢饉あけを待っていた平氏は1983年4月、総力を結集し、平維盛(これもり)ら10万の大軍をもって北陸道に義仲追討を開始、越前・加賀を制圧し、5月に平氏軍は越中に進撃した。

 

5月11日、頼朝と和解し、後方の安全を確保した木曽義仲は4万の軍で迎い撃つ。そして、源氏と平氏の勢力逆転となる運命の戦いが加賀・越中の国境・砺波山の俱利伽羅峠で開始された。数で劣る義仲軍は奇計「火牛攻め」で平氏を夜襲、平家軍を俱梨伽羅ヶ谷に追い詰め、壊滅した。

 

勢いに乗った義仲軍は平氏軍を次々と破り、北陸道を進軍、義仲軍先鋒は6月に近江に到達した。さらに、6月10日、義仲は比叡山大衆に働きかけ、7月2日、味方につけることに成功した。7月5日、平家も比叡山大衆に助力の要請の書状を送るものの、後の祭りとなった。

 

7月22日、義仲は延暦寺に入り、大衆とともに京都に迫り、また、熊野・吉野に関係深い源行家は伊賀・大和を経て京都に迫り、さらに、呼応した反乱軍はそれぞれ、丹後や摂津・河内を経て京都に迫り、攻撃態勢に入った。

 

迫りくる源氏軍に対し、7月22日、ついに平家一門は京都防衛に見切りをつけ、六波羅や西八条の屋敷に火を放ち、6歳の安徳天皇三種の神器を奉じ、都落ちを決意した。

 

三種の神器天皇法皇を擁すれば、都を離れたとしても官軍である。宗盛は後白河法皇を強要しても同行させようと御所に向かうが、後白河法皇はいち早く平家一門の都落ちを察知し、密かに御所を脱出、平氏打倒を掲げる比叡山延暦寺に逃れていた。

 

7月28日、都にもどった後白河法皇は、入京した義仲・行家に平氏追討の宣旨を与えるとともに鎌倉の頼朝に使者を遣わし、入京をうながした。また、8月16日には平氏一門160余人の官位を剥奪し、平氏の所領500余りを没収した。

 

義仲、行家に対し、それなりの官位と所領を与えるとともに、これまでの功績は頼朝が第一、義仲は第二、行家は第三と宣言して、義仲・行家らが都から平家を追い出した功績を笠に着て横暴を働くことをけん制した。

 

平氏とともに都落ちした安徳天皇に対し、京都では後白河法皇はあらたに天皇即位を図っていた。義仲は以仁王(もちひとおう)の子・北陸宮を天皇とすることを強く推薦したが法皇はこれを拒否、8月20日天皇即位に不可欠な三種の神器がないが、特例として安徳天皇の弟で4歳の四宮(しのみや)を後鳥羽天皇として皇位につけた。

 

後鳥羽天皇の即位により、平氏安徳天皇ももはやふたたび京都に帰り、政治の中心に就く道はふさがれてしまう。後白河法皇を確保できなかった平氏は後に法皇の策略により致命的な打撃を被ることになる。

 

【参考】
1.「日本古典文学全集46 平家物語2」、市古 貞次、(株)小学館、1994年8月20日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「日本の歴史大系3 貴族政治と武士」、井上光貞他、山川出版社、1995年11月5日