9月の絵「平家物語 義経軍による鵯越(ひよどりごえ)坂落としの奇襲」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3 

yaseta.hateblo.jp

平氏都落ちした1183年(寿永2年)7月25日の3日後の7月28日、木曽義仲源行家は南北二手に分かれて京都に入った。

 

比叡山から御所に戻った後白河法皇平氏安徳天皇三種の神器を返すよう求めたが拒否されたため8月20日安徳天皇の弟でわずか4歳の四宮(しのみや)を後鳥羽天皇として皇位につかせた。

 

三種の神器天皇の象徴で宝剣(ほうけん、草薙剣[くさなぎのつるぎ])、神璽(しんじ、八坂瓊曲玉[やさかにのまがたま])、神鏡(しんきょう、八咫鏡[やたのかがみ])】

 

一方、平氏は福原の邸宅を焼き払い、瀬戸内海を下り、九州の大宰府に入り、有力武士・豪族を集め再起をはかった。しかし、10月、豊後の国の豪族らが蜂起して大宰府まで攻め寄せて来たので再び瀬戸内海を上り、四国讃岐の国「屋島」を根拠地とした。

 

平氏に味方する阿波の国の有力豪族田口威良(しげよし)らの支援を受け、平氏はしだいに勢力を伸ばし、瀬戸内海の制海権を握り、四国・山陽方面を支配するまでに復活した。

 

かくして東の源頼朝、都の木曽義仲、西の平氏と天下を三分する形となった。天下三分のなかで義仲軍は各地で蜂起した豪族の寄り合い世帯であったので、統制がとれてなく、また前年に続き今年も全国的な飢饉でしだいに兵糧不足に落ちいり、都で武士による略奪・暴行を働くようになった。

 

義仲は部下を取り締まろうともしなかったため、当初、平家を追い出し、歓迎されたのもつかの間、義仲軍は平家よりもひどいと民衆から恨みを買うことになった。また、武力を背景に法皇の政治にも口出しするようになり、朝廷からも反感を買うようになった。

 

後白河法皇は義仲を京都から追いだしたい気持ちもあり、平氏追討の院宣を与えた。義仲は院宣を拒むわけにいかず、9月20日平氏追討に向かった。そして、閏10月1日、統制が乱れてきている義仲軍と瀬戸内海の制海権を握り、舟戦を得意としている平氏が備中水島で戦いが繰り広げられたが、義仲軍は大敗し、京都に逃げ帰った。

 

都では義仲の不在中に後白河法皇東海道東山道の土地問題の解決のいっさいの権限を頼朝に与える宣旨を行うとともに頼朝にひそかに都に上ることをうながし、義仲追討の策を練っていた。

 

東山道:京都から内陸部東側(近江、美濃、飛騨、上野、下野、武蔵、出羽、陸奥)の地方・または幹線道路、これと東海道を合わせ、頼朝は朝廷より能登など一部を除き、東海、関東、東北全土の管理を任された。)

 

義仲は自分ないがしろにした法皇の行為に抗議したが聞き入れてもらえず、やがて、義仲と一緒に入京した豪族・武士たちの中にも義仲の統率者としての資質に疑問いだきはじめ、義仲から離れ、院方につく者も現われた。

 

このような情勢みて、11月、法皇は義仲に都から出る旨の院宣を与えた。怒った義仲は11月19日、クーデターを起こし、法皇の御所である法住寺殿(ほうじゅうじどの)を焼き打ちして法皇を幽閉した。

 

義仲のクーデターで園城寺座主の円恵法親王天台座主の明雲や院方の武士など6百30余名が命を落とした。義仲は藤原基房とはかり、摂政藤原基道はじめ院方の近臣49人の官職を解き、基房の子の師家(もろいえ)を摂政とした。そして、1184年(元歴元年)1月8日、義仲はみずから征夷大将軍となり、政権を握った。

 

義仲から離れ、院方についた源行家も義仲と入れ替わり平氏追討に向かうが11月28日、播磨の国の室泊(むろどまり)で戦い、平重衡・教盛軍に敗れてしまった。

 

法皇の要請を受けていた頼朝は弟の源範頼(のりより)・義経(よしつね)率いる大軍を都に向かって進軍させた。1184年(元暦元年)1月20日、義仲軍は都防衛の陣である宇治・瀬田で迎え撃ったが敗れた。

 

宇治川の先陣争い 

yaseta.hateblo.jp

都で敗戦の報を聞いた義仲は北陸に落ちのびようと脱出したが近江の国の粟津で殺され、平氏を打ち破り、都に入ってからわずか7カ月で権力掌握の夢は閉ざされた。享年31歳であった。

 

木曾義仲の最期

yaseta.hateblo.jp

 木曽義仲の無礼さや粗暴さを見ていた法皇は都で暮らしたこともあり、礼儀を心得た義経らの都入りをおおいに歓迎した。そして、1月26日、政権を回復した法皇は頼朝に平氏追討の宣旨を下した。

 

木曾義仲の首の市中引回し 

yaseta.hateblo.jp

一方、水島の戦いで義仲をやぶり、播磨の室泊(むろどまり)で源行家をやぶり勢いを得た平氏は都奪還をめざして福原須磨に陣をしいた。

 

須磨の鉢伏山一の谷と海に隔てられた難攻不落の地に構えた陣にさらに生田森(いくたのもり)を東側の木戸口とし、西側は一の谷を木戸口にしてその間に堀をつくり、坂茂木(さかもぎ)を設置、また海上には多くの舟を備え、迎撃態勢を整えた。

 

1月29日、源範頼(のりより)・義経(よしつね)の軍は都を出発し、2月5日、搦め手(からめて)の義経軍は摂津・播磨・丹波の国境の三草山(みくさやま)の合戦で平資盛(すけもり)・平有盛平師盛(もろもり)軍をやぶり、一の谷に進軍した。平重盛の子である平資盛平有盛平師盛は播磨の国高砂から舟に乗り、讃岐の国屋島に逃げ帰ってしまった。

 

三草山の合戦で敗戦を知った平氏平宗盛は二つの重要地点のうちの一つの山の手の鵯越(ひよどりごえ)の麓の防衛を、大将軍平教経(のりつね、能登殿)、先鋒越中前司盛俊(もりとし)、兄越前三位平通盛(みちもり)らに命じ、もう一つの重要地点である生田森の防衛を大将平知盛、副将軍平重衡(しげひら)に命じた。

 

生田森(いくたのもり)で平宗盛率いる平氏軍は源氏の大手大将源範頼(のりより)の率いる梶原景時(かげとき)・景季(かげすえ)親子や武蔵の住人河原太郎高直・次郎盛直兄弟(武蔵国北埼玉郡河原荘、現在の行田市)や武蔵七党など坂東武者などの精鋭部隊と激突した。

 

一番乗りを目指し、壮絶な最期を遂げた河原兄弟の戦死に勢いを得た源氏軍に圧倒され平氏軍は敗北を帰し、平知盛・重衡は退却した。

 

2月7日の明け方、搦め手の源義経軍は一の谷の後ろの鵯越(ひよどりごえ)に登り、攻撃不可能と思われていた険しい崖を「逆落とし」の奇襲で、平氏の陣地を攻撃した。不意を突かれた平氏軍は戦死者千人以上と平氏軍の4分の1を失う壊滅的な打撃を受けた。

 

この敗北で平家一族の平重衡(しげひら)は捕えられ、盛俊(もりとし)はだまし討ちにあい、忠度(ただのり)は自害、知盛の息子の知章(ともあきら)と侍の監物太郎頼方(よりかた)は知盛を救うため犠牲になり、そして平通盛、、経俊(つねとし)、敦盛(あつもり)、業盛(なりもり)、など多くの有力武将を失った。

 

17歳の平敦盛は舟で逃げようと海に入ったが熊谷次郎直実に呼び止められ、戦闘になり、取り押さえられた。直実は自分の息子小次郎のような若い公達対し、手にけることを躊躇したが結局、首をはねることになり、武士のむなしさを感じ、後に出家のすることになる。

 

初めから舟に乗っていて無事だった平宗盛安徳天皇らは残りの平氏軍とともに海を渡り、屋島に落ちのびたのである。

 

【参考】
1.「日本古典文学全集46 平家物語2」、市古 貞次、(株)小学館、1994年8月20日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「日本の歴史大系3 貴族政治と武士」、井上光貞他、山川出版社、1995年11月5日
5.「源平と神戸ゆかりの50選 歴史と観光の散策ガイド」、神戸新聞社、2004年12月28日