平家物語巻第九の「朝日将軍木曾義仲の無念の最期」

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 昨年5月、源範頼(のりより)と源義経(よしつね)の東国の軍勢と木曾義仲軍(木曽義仲)の戦いの初めの部分「宇治川の先陣争い」についてブログに描きました。

 

それ以来、1年近いブランクがありますが、今回は、この戦いで敗れた木曾義仲木曽義仲)の最期についてブログに載せます。

 

義仲軍は宇治川と瀬田の合戦で敗れ、東国の軍が都の鴨川まで迫っている知らせを受け、都にいた義仲は敵と戦いながら、琵琶湖西岸の大津の方面まで逃れました。

 

義仲は信濃から巴(ともえ)と山吹(やまぶき)という寵愛する二人の女を連れて来ました。山吹は大変な美女ですが体が弱く、病気のため都においてきました。巴は器量も体も優れており、めったにない強弓(つよゆみ)を引く精兵(せいびょう)で馬上でも徒歩でも、刀を持っては鬼でも立ち向かうという男まさりの女でした。

 

弓の3種目
1.強弓(つよゆみ):強い弓を引く、矢の威力
2.精兵(せいびょう):弓の正確さ、精度
3.矢継早(やつぎばや):速射、矢を射る速度が速い、数をこなす

 

荒馬を乗りこなし、険しい坂もかけ下りるという大変な女で、合戦ともなれば、義仲は堅牢な鎧を着せ、大太刀と強弓を持たせて一方の大将として合戦に向けさせました。そんな女武者だから多くの者どもが逃げ、あるいは討たれる中、7騎になるまで巴は討たれなかったといいます。

 

木曾義仲木曽義仲)の四天王のひとり今井四郎兼平も800騎で瀬田を守っていたが敗れ、わずか50騎になり、主人の義仲の安否を気遣い、都に帰る途中、大津の打出の浜付近で義仲と合いました。

 

義仲は「六条河原で最期を遂げるつもりだったがお前の行方を知りたくてここまで逃れてきた」と。今井の四郎も「兼平も瀬田で討死にすべきでしたがあなたのお行方が気がかりで、ここまで参ったのです。」といいます。

 

ここで最期の戦いをしようと義仲は今井の旗を上げさせるとその旗をみて散逸していた味方が集まり、その数300余騎になりました。

 

向こうに見える敵は甲斐の一条次郎の6000騎の軍勢と今井の四郎が言うと、義仲は、それは良い敵である。どうせ死ぬなら良い敵と戦って、大軍のなかで死にたいものだと真っ先に進みました。

 

そして、大音声をあげ「昔は聞きけん物を、木曾の冠者、今は見るらん、左馬頭(さまのかみ)兼、伊予守(いよのもり)朝日将軍、源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。たがいによいかたきぞ。義仲うって兵衛佐(ひょうえのすけ:源頼朝)に見せよや。」といって攻撃していきました。

 

一条次郎の軍は大軍の中に義仲を取り込め、自分が討とうと進んでいきました。義仲の300余騎は6000騎の中を縦様、横様、蜘蛛手、十文字に駆け破り、後方にでると50騎になっていました。

 

次に土肥(といの)二郎実平(さねひら)が2000騎で待ちかまえているところに突っ込んで突き破り、そして、次々に襲ってくる騎馬隊と戦闘を重ねるうち、ついに5騎になってしましました。

 

この中に巴も討たれないで残っていました。義仲はいいます。「私は討死か自害をする覚悟だ。最後の合戦に女を連れていたなどといわれたくない。お前は女だからどこへでも逃れよ」といい、巴と今生の別れをしました。

 

そして、義仲と今井四郎の主従2騎になってしまい、今井四郎は「矢は7,8本あるのでしばらく敵を防ぎますのであそこの粟津(あわず)の松原でご自害なさいませ」といいます。そこに敵の騎馬50騎が押し寄せました。

 

義仲はお前と同じところで討死しようというと、今井の四郎は「あれほど日本国にその名を聞こえていられた木曾殿を誰それ家来がおうち申した。などと人が申すのは残念です。どうぞ、あの松原に入ってください。」と言い話すとともに一人で50騎のなかに突っ込んで行きました。

 

義仲ただ1騎で粟津の松原に駆け入ろうとしますが、正月21日日没頃のことなので薄氷は張っていたし、深田があることを知らずに、馬をざんぶと入れてしまい、馬の頭も見えなくなり、馬も動けなくなり、身動きがとれなくなってしまいました。

 

今井の行方が気になり、後ろを振り向くと、三浦の石田の次郎為久(ためひさ)のはなった矢に義仲の甲の内側を射抜かれてしまいました。深手負ったところに石田の郎党二人がついに義仲の首を取ってしまいました。

 

そして、太刀の先に貫いて差し上げ、大音声で「この日頃日本国に聞こえておられた木曾殿を、三浦の石田の次郎為久がお打ち果たしたぞ」と名乗りました。

 

これを聞いた今井の四郎兼平は「今は誰をかばうため戦おうか、これを御覧なされ、東国の殿方、日本一の剛の者の自害をする手本だ」といって、太刀の先を口にくわえ、馬から真っ逆さまに飛び落ち、太刀に貫かれようにして壮絶に死んでいったのでした。

 

このようにして1184年1月21日(寿永3年正月21日)、木曾義仲木曽義仲)一門は滅亡してしまったのでした。

 

【参考】
(1)「巻第九 木曾最期」、新編日本古典文学全集46、平家物語②(巻第七~巻第十二)、小学館