6月の絵「平家物語 福原から京への都帰りと奈良炎上」

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1180年2月の安徳天皇即位とともに平家の栄華がさらに続くかと思われたがこの時点を境に平家は急速に衰退に転じていきます。

 

1180年4月28日、源頼政が「平家打倒すべし」の以仁王(もちひとおう)令旨を諸国の源氏に伝え、熊野では以仁王側が立ち上がり平氏を破りましたが都では5月15日に以仁王平氏の追討から逃れ、5月26日に宇治川を挟んで合戦になりましたが、源頼政および子息の仲綱・兼綱以下ことごとく討死し、以仁王も流れ矢にあたって戦死してしまいました。

 

以仁王の謀反はわずか10日で鎮圧されてしまいましたが、この叛乱失敗の報は諸国の源氏の平家打倒の気運をさらに盛り上げる結果となりました。

 

それから4日後の1180年5月30日、清盛は突然、一方的に安徳天皇高倉上皇後白河法皇が6月2日に福原福原(現在の神戸市)に遷幸されるであろうと発表します。そして6月3日に強行されましたが急な決定のため皇居はなく、上皇法皇は清盛の別荘や清盛の子息の家を宿所にあてがわれました。

 

6月8日になって、福原遷都のための都の地割を検討しますが土地が狭く、9条つくるべきところ現在の神戸市の兵庫区から長生区あたりまでの5条しかできないことがわかりましたが7月16日、清盛はこの地福原に新しい都を構築することを決定したのです。

 

都を京都から福原に移す決定と住まいの移動に、人々は涙を流し嫌がりましたが罰則を恐れ、移転しました。しかし、一か月も経たないうちに、不満が出始め、平家一門の平宗盛平時忠からも京へ帰ろうと訴え始めたのです。

 

8月17日東国伊豆で源頼朝伊豆国在庁(国の役人)北条時政の支援を受け、源氏再興ため挙兵した。国守(くにもり)・平時兼の目代山木兼隆を急襲、成功したが、平氏方の大庭景親(おおばかげちか)に石橋山(現在の小田原市)で敗北した。頼朝は山中に逃げ、8月28日に真鶴岬から船で安房国(あわのくに、千葉県南部・南房総)へ落ち伸び、再起を図りました。

 

9月7日木曽義仲が木曽山中で挙兵し、信濃を平定し、上野国(こうづけのくに、群馬県)に進出したが頼朝との接触を避け、信濃に引き返してしまいました。

 

9月7日清盛の味方だった熊野別当湛増(たんぞう)が寝返り、そして、19日には筑紫で謀反が起こり、いまや全国的に内乱の様相をあらわしはじめたのでした。

 

9月18日大将軍に小松権亮(ごんのすけ)少将・平維盛(これもり)、副将軍に薩摩守(さつまのかみ)・忠度(ただのり)は総勢3万余騎を率いて頼朝追討のため福原を出発しました。

 

10月20日平維盛を大将とする平氏軍は富士川をはさんで頼朝軍と対峙しますが合戦前夜、非難した多くの庶民の炊事の火を源氏の野営の火と勘違いし恐れ、夜半には富士川を一斉に飛び立つ水鳥の音に敵襲来と驚き、戦わずして敗走してしまいます。後方に不安を残す頼朝はいったん鎌倉にもどりました。福原にいる清盛は維盛の失態に激怒しますが新都構築や還都問題に頭を悩ませており、どうしようもありませんでした。

 

同10月20日には比叡山延暦寺の大衆(だいしゅ、僧侶・僧兵達)が蜂起して遷都取り消しを要求し、拒否された場合、山城・近江を占領すると奏上してきました。

 

清盛は京の治安悪化対応困難を平知盛に説得され、遂に還都に同意し、11月26日には天皇上皇法皇以下、平家一門は再び、京に帰ったのです。(参考1)

 

平安京遷都以来四百年間なかった遷都が強行されたもののわずか5ヵ月また京都に戻ってしまいました。なぜ、清盛は福原遷都を断行したのかいろいろな説があります。

 

①.大輪田泊(おおわだのとまり、現在の兵庫港)に近い福原に都を定め、外国貿易を行うため
②.園城寺興福寺など反平氏と公卿や皇室の結びつけを離すため
③.比叡山大衆の圧迫をさけるため

 

参考3では③の比叡山大衆の圧迫をさけるため遷都を断行し、比叡山大衆の強訴によって還都した説が有力としています。

 

11月27日延暦寺の堂衆(どうしゅ、修行・寺院の運営管理する僧侶で大衆の主力)は近江源氏に加担することを宣言し、平家の知行国若狭国滋賀県)からも源氏に呼応するもの続出、近江源氏は次第に勢力が増大してきた。

 

叛乱は各地に起こり、全国に広がりはじめました。遂に清盛は12月18日後白河法皇の幽閉を解き、再び政務復帰を懇願し、讃岐・美濃を法皇知行国として献上しました。そして、平家は叛乱軍討伐に力を集中することにしたのです。

 

この後白河法皇へ政治の実権を返したことが後の平家の命運がかかる一の谷の戦いで裏切られるという大きな代償を払わされることになります。

 

12月23日、平知盛(とももり)を大将軍、平忠度(ただのり)を副将軍とする近江源氏追討軍を編成、討伐へ向かいました。

 

一方、平氏興福寺を追討するという噂がたち、以仁王(もちひとおう)の叛乱支援の罪で責任者や寺領処分を受け、怨みを持っている興福寺大衆は抗戦する構えを示しました。

 

清盛は朝廷の追討がないことを伝えに興福寺平氏を送りますが、平氏の説得に耳をかさず、無抵抗の平氏を討ち取ってしまいます。

 

激怒した清盛は12月25日、平重衡(しげひら)を大将、平通盛(みちもり)を副大将とする4万の軍勢に奈良(南都)攻撃の命令を下しました。

 

27日に平氏軍は河内路と山城寺から奈良に攻撃したそれに対し、興福寺は寺領荘園や大和国内から集めた兵6万で攻戦し、一進一退の戦いとなりました。夜半に入り、攻撃を有利に展開するため、重衡は民家に火つけさせました。

 

折からの強風で火はまたたくまに燃え広がり、東大寺・大仏殿は焼け、大仏の首は焼け落ち、そして、東大寺興福寺の堂舎・僧房などことごとく焼けてしまいました。大仏殿では僧侶や女や子供を含め多くの庶民が2階に逃げ込み、階段を外したため、避難した人々は逃げ場を失い焼死してしまいました。

 

この南都攻撃で戦死した僧兵は1000人余りに対し、焼死した僧は3500人、そして多くの庶民が犠牲になり、さながら焦熱地獄の様であったと言われています。

 

東大寺は皇族の氏寺であり、興福寺藤原氏の氏寺であることもあり、これまで平氏を擁護していた寺院勢力および貴族たちも完全に平氏に敵対することになりました。

 

なお、焼失した東大寺は重源上人をはじめとするグループにより1195年に大仏殿を再建し、1203年に東大寺全体を再建、総供養を行いました。

 

【参考】
1.「日本古典文学全集45 平家物語1」、市古 貞次、(株)小学館、1976年11月30日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日