石油の歴史No53【アラスカ油田開発とパイプライン建設の凍結】

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1923年アメリカ海軍はアラスカの北極海沿岸に艦船の石油補給地を作ったのがきっかけで人がアラスカを訪れるようになり、山師たちも石油を求めてアラスカに来ましたが発見できずいつしか忘れさられました。

 

33年後の1956年のスエズ危機の時、シェルとニュージャージ・スタンダードがアラスカで石油の探鉱を行いましたが1959年石油を発見できずに手を引いてしまいました。

 

アングロイラニアンは1951年イランのモサデクに接収され、その後、改名したブリティッシュ・ペトロリウム(BP)は1957年、中東依存度を減らすため、北海やアラスカで石油探査に目を向けていました。

 

1958年BPとアメリカのシンクレア石油は共同でアラスカのノース・スロープで試掘を開始します。6本の井戸を掘りましたがすべて失敗してしまいました。

 

ガルフ石油など多くの石油会社の首脳は中東の石油価格約1バレル1~2ドルに対し、見つかったとしても1バレル5ドルもする値段に開発に乗り出そうしませんでした。しかし、カリフォルニアにある独立系石油会社リッチフィールドは探鉱を続けていました。

 

1964年ニュージャージーはリッチフィールドと合弁で再びアラスカの石油探鉱に乗り出します。そして、1965年合弁会社はBPとシンクレア石油などをパートナーとしてアラスカのノース・スロープ地域を対象に再度、石油探鉱を開始しました。

 

リッチフィールドはアトランティク・リファイニングと合併しアトランティック・リッチフィールドとなりました。その後ARCOとなりましたがリッチフィールド時代とBPと合弁してからも掘り続けた井戸はすべて空でした。そして、1966年の冬、ARCOはアラスカ北岸の土地を試掘しましたがこれも空井戸でした。ARCOがこれまで試掘した6本の井戸すべて失敗に終わっています。

 

最後に残ったノース・スロープのブルドー・ベイを試掘するか否かで首脳陣は揺れます。決定は社長のロバート・アンダーソンにゆだねられました。

 

彼は石油が必ずあると信じて続行を宣言し、1967年の春、井戸の掘削作業が開始されました。1967年12月26日ブルドー・ベイ・ステイト1号と名付けられた試掘としては最後の井戸から突然、大きな地鳴りとともに天然ガスが吹きあがりパイプから気温零下30度C、強風をものともせず炎が垂直に100メートル燃え上がりました。

 

1968年夏にはこのブルドー・ベイ油田は埋蔵量100億バレルという北アメリカで発見された油田のなかでも最大で世界でも有数の油田であることが確認されました。

 

シンクレアを買収し、巨大合併したARCOはノースロープではニュージャージーやBPとともにビッグスリーになり、アメリカでは第7位の石油会社になりました。

 

操業が開始されれば日量200万バーレルでサウジのガワール油田、クウェートのブルガン油田に次ぐ世界第3位の油田になるはずでした。

 

石油はあるものの開発は進みませんでした。大きな障害になったのは北極に近い自然環境で気温零下30度C以下になる冬季には機械、設備が故障や障害を起こしてしまうこととこの厳しい環境のなかどのようにして石油を精油所まで運ぶかでした。

 

機械・設備などの技術革新は可能であり、対応できると各会社の共同事業計画を進めます。輸送手段として北極海を砕氷タンカー、アラスカ横断道路を建設、原子力潜水艦、ジャンボジェットなど案がでましたが決まったのはパイプライン建設でした。

 

ルートは2案で油田から南800kmのバルディス港までパイプラインで輸送し、タンカーで運ぶ案ともうひとつは油田からカナダを縦断してシカゴまでのパイプライン建設でした。

 

カナダ縦断パイプラインはカナダ政府、カナダ環境保護団体が反対していることによりアラスカ縦断パイプライン建設計画に決まりました。

 

しかし、アメリカの環境保護団体からアラスカの自然環境が破壊されると反対の声があがり、さらに、1969年1月サンタ・バーバラ沖および翌1970年2月のルイジアナ沖における石油坑井から原油の海洋流出事故後、アメリカ内の公害防止の世論が高まり、連邦裁判所はアラスカ縦断パイプライン建設中止命令を出しました。

 

合弁会社はパイプライン建設準備をして裁判所の中止命令解除を待ちますが、5年間、1972年になっても解除されませんでした。

 

【参考】
(1)年次世界経済報告「新たな試練に直面する世界経済、第3章 強まる資源の制約」、経済企画庁、1973年12月
(2)「シリーズ世界の企業 石油産業」、十市 勉、日本経済新聞社、1987年
(3)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年