1805年10月21日イギリス艦隊が勝利したトラファルガー海戦

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202年前の今日、1805年10月21日はスペイン南部のトラファルガー岬沖でイギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊との間で海戦を繰り広げ、ネルソン提督率いるイギリス艦隊が大勝利を遂げた日です。

 

イギリスは1793年以来ナポレオン率いるフランス軍と戦争をしており、1802年一時休戦したが、1年後、再び戦争が始まりました。そして、ナポレオンは1805年までにイギリスに侵攻する準備をしていました。

 

当時47歳のイギリス海軍のホレーショ・ネルソンは身長168cmの小柄ながら三つの大きな海戦で勝利し、50の海戦に加わり、イギリス海軍史上もっとも多くの戦いを経験した提督でした。

 

1974年のフランス領コルシカ島の作戦で右目を失い、右腕はテネリフェの作戦の指揮をしていた時、銃弾を浴び、ひじ上15cmのところから切断されました。

 

他にも、壊血病マラリア結核にかかっていた疑いもあるといわれました。しかし、彼の指揮能力の高さと勇敢さで多くの海戦の勝利勝ち取り、その功績によりナイトの爵位を授与され、部下や国民から尊敬を得ていました。

 

1805年3月ネルソンの英国艦隊はビルヌーブ提督率いるフランス艦隊とカディスに拠点を置くスペイン艦隊をカリブ海まで追跡しますが取り逃がしました。フランスはヨーロッパからネルソンの注意をそらし、ナポレオンの遠征軍がイギリス侵攻をしやすくするための陽動作戦だったのです。

 

7月22日イベリア半島西端のフェニステレ岬でビルヌーブは英国海軍の小艦隊と遭遇し海戦をしますがスペイン艦船2隻を失い敗北、ナポレオンのイギリス侵攻計画は失敗してしまいました。

 

そして10年近く続いてきた戦争の最終章がトラファルガー海戦でした。

 

1805年10月21日正午過ぎ、ネルソン提督率いる27隻のイギリス海軍戦列艦を2列縦隊にして三日月形に並ぶ33隻のフランス・スペイン連合艦隊に向かって突っ込んでいきました。

 

風上側の艦隊の先頭を走るネルソンのビクトリー号の乗り組み員は820人、水兵と海兵隊は665名そのうち31人はまだ少年だったそうです。

 

ネルソンのビクトリー号は進路を変え、標的ビルヌーブが乗るビュサントール号の背後にまわり、カロネード砲を発射し船尾を吹き飛ばしました。フランス側1発の砲弾に対し、イギリス側は2~3発発射したといわれます。10分間の一斉射撃が終わったとき、ビュサントールの乗組員の四分の一の200人が戦闘不能になりました。

 

戦闘開始から1時間余りたった午後1時15分、フランス・スペインの連合艦隊のルドゥターブル号の狙撃兵の一人が撃った銃弾がネルソンの左肩の最上部から下に当たり肋骨2本を砕き、肺に穴を開け、肺動脈を切断、背骨にあたりました。そして、午後4時30分ネルソンは息をひきとりました。

 

トラファルガー海戦はイギリス艦隊の大勝利となり、史上まれにみる数の戦列艦を捕獲・撃沈し、残りも海域から追い払いました。その一方、戦闘終了後、嵐が起こり多くの水兵が溺死し、被害にあいました。

 

トラファルガー海戦の敗北はスペインにとって南米に対する帝国支配の崩壊の始まりになりました。

 

トラファルガー海戦の勝利はイギリスにとって海の覇権を握ることになり、海上貿易の共通言語は英語になりました。そしてトラファルガー海戦はイギリス海戦史の中で最も名高い勝利として今に語り継がれています。
 
【参考】
(1)「トラファルガー海戦」、NATIONAL GEOGRAPHIC、2005年10月号、日経ナショナルジフグラフィック社