石油の歴史No29【北大西洋における連合軍とUボートの戦い】

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1937年イギリスはドイツとの戦争に備え石油政策の検討を進め、石炭からの合成石油の生産を検討しました。

 

しかし、費用がかかりすぎることが分かり、シェルとアングロ・イラニアンという世界的な石油企業を持つイギリスは安い石油を大量輸入する体制を整え、備蓄する方策を採ることに決定しました。

 

1939年9月1日ドイツ軍がポーランドに侵攻した数日後、66歳のチャーチルは突然、海軍大臣に任命されました。25年前の第一次世界大戦の実績が買われたのです。

 

1940年春にヒットラーがノルウエー、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、フランスを占領すると、融和政策を提唱していた政治家は退陣させられ、チャーチルが首相の座につきました。

 

シェル始めとする国内の石油企業からの抵抗はなく、政府はスムースに石油企業の精製・販売部門を管理化に置くことができました。

 

しかし、日本が東南アジアの石油を手に入れれば、極東からイギリスへの石油供給が大幅に減少し、ドイツがロシアやルーマニアの石油を手に入れれば、イギリスは大きなハンディーを負う事になります。

 

イギリスとフランスはドイツがルーマニア油田を手に入れる前に油田破壊をルーマニア政府と交渉しましたが、補償の金額で折り合いが付かず、その間にドイツ軍に占領されてしまいました。

 

ドイツ軍は西ヨーロッパを制圧し、フランスが備蓄していた石油を手に入れ、イギリス海峡の対岸に到達していました。

 

イギリスは国内侵攻を受けた場合に備え、東部と南東部にある17,000のスタンドを2,000に集約し、爆弾を仕掛け、いざという時、ドイツ軍に石油を渡らないように爆破するようにしたのでした。

 

イギリスは急速に石油の備蓄が減少しました。ルーズベルト大統領は1941年3月ようやく「武器貸与法」を成立させ、イギリスへの物資供給のため、メキシコ湾、アメリ東海岸の50隻のタンカーや貨物船による輸送体制をとりました。

 

タンカーと貨物船による物資供給が開始されてまもなく、ドイツ軍の潜水艦「Uボート」による攻撃で次々と撃沈されました。Uボートに脅威を受けたは両国は大西洋の監視強化し、イギリスはドイツが開発したエニグマ暗号機による暗号解読で壊滅の打撃を回避されました。

 

しかし、日本の真珠湾攻撃の4日後の1941年12月11日ドイツがアメリカに宣戦布告し、Uボートは大西洋だけでなくアメリカ沿岸でも活動し、船舶攻撃を開始しました。

 

1942年後半、ドイツ海軍はエニグマ暗号を変えた上、ミルヒクース(乳牛)と呼ばれた大型潜水補給船を投入し、Uボートに燃料や新鮮な食料を補給し、攻勢をかけ、再び、連合軍に大打撃を与え始めました。

 

1943年3月、Uボートエニグマ暗号解読に成功した連合軍は新型レーダーを備えたUボート攻撃部隊を組み入れた船舶護衛部隊を編成し、反撃に出た結果、情勢は一変しました。

 

5月にはUボートの30%を撃沈して、ドイツ軍の潜水艦攻撃を北大西洋から撃退することに成功しました。

 

これにより、イギリス、ヨーロッパ、ソ連への石油輸送と兵員輸送航路の安全を確保でき、連合軍のドイツ軍に対する反撃体制が整えられました。

 

【参考】

 

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』を参照しますと1942年10月U-559から新しい海軍気象通報用鍵を捕獲し、これまで、解読に8日掛かっていたものが12時間に短縮されるようになったと載っていました。

 

Uボートから、ドイツが誇る暗号機「エニグマ」をドイツ軍に察知されずに奪いとり、連合軍の勝利に貢献したという兵士の活躍を描いた映画「U-571」がありました。