石油の歴史No13【グルベンキアンとレッドライン協定】

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第一次大戦後、イギリスは、後にイラクとして知られるようになる旧オスマントルコ帝国の一部、メソポタミア一帯を完全支配したいと考えていました。

一方フランスも、その一部の地域バグダットの北西にあるモスルについて権利を主張していた。

こうして、イギリスはフランスと競い合いことになり、アメリカも巻き込むことになるのです。

新たな石油の地を巡る争いは企業家や事業家だけのものでなくなったのです。世界大戦を通しての経験は石油が国家戦略にとって重要な要素になり、政治家や官僚がこれまで以上に争いの真っ只中に足を踏み入れることになるのでした。

1920年4月アメリカは参加していなかったが、イタリアのサン・レモで締結したサン・レモ協定によって、フランスはメソポタミアのからの石油の25%を得ることができるようになりました。

石油の開発は引き続きトルコ石油があたるが、戦争の際イギリスが奪ったドイツの持ち株分は、フランスの手にわたりました。その代わり、フランスはモスルの領有権の主張を取り下げたのです。

イギリスはメソポタミアで石油開発を行う会社が出た場合、必ずイギリスの指示に従う必要があることをここで、明確にさせました。

このように、石油採掘権を巡る両国の争いの決着はつきましたが、ただ、大きな問題点はこの時点で本当に石油があるのか不明だったことでした。

1922年フランス首相になったレモン・ポアンカレは1924年にフランス石油(CFP)を設立し、実業家として名の通っているエルネスト・メッシュに経営をまかせます。

そしてCFPがフランスの利益を代表するように、国が25%の株式を保有し、2人の政府役人を重役として送り込んだのです。

一方、アメリカは大戦中、連合国の一員として戦ったにもかかわらず、サン・レモ協定から締め出され、アメリカ企業から不満の声が上がっていました。

結局、アメリカは条約加盟は認められます。そして、1922年、政治家でも外交官でもないスタンダード・オイルニュージャージーのウォルター・ティーグルがアメリカ代表として参入し、3国間で利益配分の駆け引きが始まりました。

ウォルター・ティーグルに対するはトルコ石油のパートナーであるシェルのヘンリー・ディターディング、アングロ・ペルシャ・オイルのチャールズ・グリーンウエイ、フランス石油のエルネスト・メルシェ、そして、トルコ石油株5%を持つ男カルースト・グルベンキアンでした。

グルベンキアンはトルコ石油に持つ5%の権利を現金で支払うことを望んだが、ティーグルとディターディングは反対し、交渉はこう着状態に入りました。

本当にイラクで商業上成り立つ石油が見つかるか、まだわかっていませんでした。1925年になってやっと、地質調査を始めました。

地質学者たちは調査の結果に期待が持てることに気付きます。その知らせは交渉メンバーの耳に入り、問題解決を急がざるを得なくなり、ティーグル、デターディングはグルベンキアンに譲歩し、ようやく合意が見えてきました。

1927年10月25日午前3時、モスル(イラク北西部)のキルクーク北西のババ・ガーガーの一号井の地下
460メートル(1500フィート)から石油が轟音とともに15メートルの高さまで噴出し、石油が雨のように降り注ぎました。一帯は油で覆われ、くぼ地は有毒ガスで満たされました。

1928年7月31日、遂に完全に合意がなされました。シェル、アングロ・ペルシャ・オイル、フランス石油、ティーグルが代表のアメリカ企業グループがそれぞれ23.75%、そしてグルベンキアンが5%を守ることができました。

協定の自己規制の条項では参加者全員、共同の場合のみ、その地域で事業をおこなうことということで合意しました。

このとき、グルベンキアンは中東の地図を広げ、今や消滅している旧オスマントルコ帝国の国境沿いに、赤い色鉛筆で線を引き、言いました。

「これは1914年の時点でのオスマントルコ帝国の領土である。私こそ、これを知り尽くしている人間である。私はここで生まれ、生活し、働いてきたからだ」

以後、この協定を“レッドライン協定”と呼ぶようになりました。

ペルシャクウェートを除くと、中東での主な油田はすべてこのレッドラインの内側に位置しています。

この合意により、他のメンバーとの共同の場合を除いて、この広大な土地でどんな石油事業もできないことになりました。

これは、今後の中東での石油開発の枠組みを示すものになりましたが、同時にこれから何十年も続く争いの焦点にもなったのでした。