紅海から地中海を結ぶ160km(100mile)におよぶスエズ運河の建設はフランス人「フェルナンド・レセップス」が10年の歳月をかけ1869年に完成した19世紀最大の偉業と言われています。
スエズ運河はインドへの所要時間を半分に短縮し、イギリスとって植民地インドとの輸送路としてなによりも重要なものになりました。しかし、フランスとエジプトが所有するこの輸送路の株はイギリスになくイギリスは残念に思っていました。
1875年、幸運にもエジプトの支配者「へディーウ家」が破産状態になり、スエズ運河会社の株44%が売りに出されました。イギリス政府はいち早くキャッチし電光石火のごとくこの株を購入し、スエズ運河会社はフランスとイギリスの共有となりました。
スエズ運河はインド・極東までの旅の時間と費用を下げたことにより旅行や商用の客が増加し、植民地貿易が活発になり、イギリスにとって戦略上の生命線になりました。やがて、スエズ運河の安全保障はイギリスの責任であるとしてイギリス軍はエジプトに軍隊を送りますが、実際は占領したも同じでした。第二次大戦ではスエズ運河の重要性は大いに高まり、ドイツとの攻防の末守りぬきました。
1952年、モハメド・ナギブ将軍、ガマル・アブドル・ナセル大佐率いる自由将校団がクーデターに成功し、傀儡の国王ファルークを追放し、ナギブ将軍が首相に就任し、1953年6月王制から共和制に移行し初代大統領になりました。
1954年ナセルはナギブとの権力闘争を制し、ナギブ大統領を解任し、ナセルが大統領に就任します。そして、西欧と決別し新しいアラブ世界の創設、イスラエルの抹消、中東からのユダヤ人追放を掲げたエジプトの熱狂的民族指導者として登場してきたのです。
1956年、イギリスの外相ロイドはエジプトを訪問し、ナセルと会談しました。ロイドは「スエズ運河は中東石油の輸送に欠かせない大動脈である」というイギリスの立場を主張したのに対し、ナセルは産油国は石油の50%の利益を得ているがエジプトは運河の50%の利益を得ていない。石油輸送に必要なスエズ運河の利益も産油国同様50対50の利益折半協定を持つべきであると主張しますが物別れに終わりました。
1955年暮れ、イギリスとアメリカおよび世界銀行がナイル川のアスワン・ハイ・ダム建設計画に融資する検討を進めていました。しかし、ナセルはソビエト陣営から密かに武器を調達しているという情報がアメリカに入ると1956年7月アメリカはアスワン・ハイ・ダム建設資金の借款を取り止めてしまいました。ナセルはソビエトから融資の提案をうけます。しかし、ナセルはエジプトが自分自身でアスワン・ハイ・ダム建設資金を捻出すると宣言しました。
1956年7月26日ナセルはスエズ運河の国有化を決断しました。(レセップスがエジプトと契約した利権は開通した1869年11月17日から1968年11月17日までの99年間存続するはずでした。)
イギリスにとってイランに続くイギリス資産の接収、フランスにとってはアルジェリアがフランスからの独立戦争にナセルが支援していることとフランス資産の接収、イスラエルとってはナセルが武器を調達しイスラエルとの戦争準備をしているというそれぞれの国への敵対行為に対し、三カ国が協力しナセルを排除すべきということで一致したのです。
1956年10月24日イスラエルが軍事作戦を開始しました。イスラエル軍はシナイ半島を通過しスエズ運河に向かって侵攻し、エジプト軍を打ち破りました。続いてスエズ運河を守るという大義名分でイギリスとフランスが運河地帯を占領しました。これに対抗し、ナセルは最大限の被害を与えるためスエズ運河にセメントや岩石を積んだ何十もの船を沈め、石油輸送ルートである運河を効果的に遮断しました。
一方、シリアでは、シリア人技術者がナセルの指示でイラク石油のパイプラインのポンプ施設の作業をボイコットし、ヨーロッパ向け石油の流れを遮断してしまいました。
スエズ運河は翌年1957年まで閉鎖されたままにおかれます。国連はイスラエルがエジプト侵攻を開始すると共に審議を始め、背後にフランスとイギリスの存在が判明すると正式に非難し、軍事行動の停止、エジプトからの即時撤退を求めます。国際世論の前にフランスとイギリスそしてイスラエルは攻撃を停止し、降伏寸前のエジプトから撤退します。
運河と中東パイプラインの輸送中断に続き、サウジアラビアはフランスとイギリス向けの石油を停止し、クゥエートは妨害行為でヨーロッパへの石油供給は途絶えてしまいました。スエズ運河が閉鎖されて1ヶ月後の1956年12月初め、西ヨーロッパ全域はエネルギー危機寸前の状態になりました。
アメリカとヨーロッパ政府は石油の緊急供給計画を立て、政府と石油会社共同の石油輸送の共同作戦を実施したのです。中東の石油は正常に生産されていましたが問題は輸送でした。
ペルシャ湾岸からヨーロッパに石油を輸送するタンカーはアフリカを一周しなければならなくなり、アメリカなど西半球からの輸送費の2倍以上になります。そこで、緊急対策委員会はタンカーの運行を西半球とヨーロッパ間にすることにし、西ヨーロッパ全土に石油配給制と需要抑制策を打ち出し、石油危機を乗り切る作戦を展開しました。
1957年の春、石油輸送作戦の成功と需要抑制策と暖冬に助けられ石油危機は脱しました。1956年当時の石油消費はヨーロッパの全エネルギー消費の20%でしかなかったため、石油危機を乗り切れたといわれています。
スエズ運河閉鎖の石油輸送コストの上昇を抑えるためには、一度に大量にそして安全に石油を運ぶことができる大型タンカーの建造が要求されるようになりました。当時の産業界の一般的見解は物理的に大きなタンカーはできないとの結論でした。しかし、1956年8月アメリカのNBC(ナショナル・バルク・キャリアー)の広島県呉造船所で当時、世界一のマンモスタンカー「ユニバース・リーダー号」8万3900トンが進水しました。
当時の新聞には旧呉海軍工廠で15年ぶりに戦艦大和(6万5000トン)に匹敵する8万3900トンの大型船を建造した。そして、同じ型のタンカー6隻が相次いで造られることになり、日本は世界一の造船国になったと大きく報道されました。この年から1973年のオイルショックまで日本は造船大国になりました。
スエズ動乱は「大型タンカーの登場」と「イギリスの影響力と威信の低下」と「ガマル・アブドル・ナセルの台頭」というエポックメーキングな結果をもたらしました。