石油の歴史No44【OPEC設立の立役者「ベネズエラのアルファンソとサウジのタリキ」】

イメージ 1

これまで産油国は石油に関する主権を取り戻すために一国の利己の利益だけで散発的にセブンシスター等のメジャーに挑戦しましたが巨大資本のメジャーに対しては無力でした。
これまでバラバラだった産油国を団結させ組織的にメジャーに対抗するたには、2人の人物の出現を待たねばなりませんでした。

 

その一人がベネズエラの「ホアン・パブロ・ペレス・アルファンソ」で、もう一人がサウジアラビアの「アブドル・タリキ」です。

 

【ホアン・パブロ・ペレス・アルファンソ】
ベネズエラのペレス・アルファンソはアメリカのジョンズ・ホプキンス大学で医学と法律を修め、1945年の民主政権時代に開発相を担当し、ベネズエラの石油産業に貢献しました。
しかし、1948年、マルコ・ペレス・ヒメネス大佐のクーデターによって民主政権が崩壊し、ヒメネス独裁政権に入るとアメリカに亡命し、ワシントンの議会図書館通いをして石油産業の研究に勤しみました。

 

ベネズエラ10年間の独裁政治のあと、1958年1月再び、民主政治が復活し、ペレス・アルファンスは新大統領ペンタクールにベネズエラに呼び戻され、鉱業石油大臣に就任しました。

 

彼は権力の座に惑わされることはなく、質素な生活を送りながら、石油産業の構造を良く理解し、石油収入に占めるベネズエラの国の取り分を増加させ、生産、販売に関する権限を取り戻そうと精力的に働きました。

 

石油は天からベネズエラに与えられた国家遺産である。その利益は将来の世代と現在の世代に還元されなければならない。そのためには、石油の生産と販売の基本的な決定は外国企業ではなく、産油国ベネズエラでなければならないとペレス・アルファンスは考えていました。

 

【アブドル・タリキ】
サウジアラビアラクダの隊商の持ち主に生まれたアブドル・タリキはエジプトのカイロで勉学にはげむと共に、ナセルの民族主義に共鳴し熱烈なアラブ民族主義者になりました。そして、アメリカのテキサス大学に留学し、化学と地質学を学び、テキサコに就職し実務を経験しました。

 

サウジアラビアでは前国王イブン・サウドの長男で国王のサウドとその弟ファイサルとの間で権力闘争が起こっていました。アブドル・タリキはアラブ民族主義であり、サウジアラビアの王制には批判的でありましたが、ナセル民族主義の信奉と実務能力を買われ、権力闘争中の国王サウドの下で働くことになりました。

 

国王のサウドは決断力がなく浪費家で指導者としては不適格でしたがファイサルはサウドと違い頭が良く、指導者としての素質を持っていました。

 

兄の国王サウドはナセルに傾倒しているのに対し、弟ファイサルはアラブの王国やアメリカ、イギリス寄りでした。兄弟はサウジアラビアの指導者として、権力争いをしていますが、国の大財源である石油に関する諸問題を処理できる人物はこの時点ではタリキしかいなく、石油相として権力争いに巻き込まれることなく石油産業の政策を進めて行くことができました。

 

タリキはサウジアラビアの財源の源である石油からの収入を増加させるため、精製設備と販売施設の接収する計画を練っていました。しかし、1959年、外国石油資本の一方的な販売価格の値下げにより国家収入に打撃を受け、設備の国有化よりも価格や生産を管理できることの重要性を痛感し、戦略を転換しました。即ち、タリキは価格と生産の決定権を獲得することを決意したのでした。

 

【OPEC誕生】
1950年代通して世界の石油需要量は伸びておりましたが生産能力はそれ以上に拡大続けているため、石油の実勢価格は下がりました。

 

一方、公示価格は世界の石油市場で一定に保たれていますので実勢価格との差が拡大して行きます。産油国の取り分は公示価格に基づいて計算されるため、増産すれば産油国の収入は増えますがメジャー等石油会社は石油市場で下がり続ける実勢価格で取引するため、利益は低下していきました。
さらに、1958年になると輸出体制を整えたソ連が安値攻勢で石油市場に参入してきました。

 

石油会社はソ連の攻勢に対し、西側政府の輸入規制や石油会社の値下げ、そして産油国にも協力をしてもらおうと公示価格の引き下げを計画しました。
1959年4月、BP(ブリティッシュ・ペトロリウム)が1バレル当たり18セント(10%)の値下げを独断すると、他の石油会社も追随しました。

 

産油国に打診なく一方的な値下げによる国家収入に打撃を受けたベネズエラのペレス・アルファンソとサウジアラビアのアブドル・タリキは激怒しました。
1959年4月エジプトのカイロでナセルの主導でアラブ石油会議が開催されましたが会議前夜に実施された公示価格引下げに参加した産油国は怒りに燃え、検討項目はメジャーに対抗するための共同戦線結成の方法に変わっていきました。

 

1958年のクーデターで政権を得た主要産油国イラクのカセムはナセルがアラブ世界の主導権を握ることを嫌い、イラクはこのアラブ石油会議をボイコットしました。結局、産油国の足並みが揃わず会議は成功しませんでした。

 

アメリカの「ペトロリウム・ウィーク」誌の女性記者のワンダ・ヤブロンスキーはアブドル・タリキを中東で石油政策の第一人者であり使命感に燃える青年であることに注目していました。そして、懸命にメジャーに挑戦を続けているベネズエラの石油相ペレス・アルファンソにタリキをカイロのヒルトンホテルの自室で引き合わせました。

 

たちまち、意気投合し、二人は他の密かに他の主要産油国の代表者を集め、カイロ郊外のヨット・クラブで会合を持つことを決めました。
本会議をイラク政府がボイコットしたので秘密会議では事務局員としてイラク代表を招き、主要産油国が出席した秘密会議でペレス・アルファンソは産油国が外国石油会社に対抗するための各産油国がやるべきことそして共同戦線結成の同意を各産油国政府に勧告するよう訴えたのでした。

 

そして、遂にチャンスが巡ってきました。1960年8月9日ニュージャージー・スタンダードが産油国に対して予告無しで、再び中東原油の公示価格を14セント(7%)の引き下げを発表したのです。

 

産油国は激怒し、アブドル・タリキとペレス・アルファンソはこのチャンスに行動をおこすため召集しようとしました。そこにエジプトのナセルを嫌っていたイラク産油国だけの会議を開くため、主要産油国サウジアラビアベネズエラクウェートイラク、イランの5カ国をバクダッド召集をよびかけました。

 

石油の歴史No43【クーデターにより王制から共和制に転換したイラク】 - 痩田肥利太衛門残日録その二

 

この会合でメジャーに対決する新組織OPEC(Organization of Petroleum Exporting Countries、石油輸出国機構)が創設されたのです。価格決定は産油国で協議されるべきであるとして価格決定権を確保し、石油価格を維持することを目的としました。

 

アブドル・タリキとペレス・アルファンソはテキサス鉄道委員会のテキサス州内の原油割り当て生産制限の策定・実施を担当する行政機関に倣いそれの産油国版をつくりました。
そして、メジャー等の外国石油会社に制裁措置を加える場合、OPECメンバー国は連帯して行動することを合意しました。

 

OPEC結成後の数年間は結束力に欠け、めぼしい実績はあげられませんでしたが10年後、OPECはメジャーに対抗する一大勢力と成長して行きます。

 

【参考】
(1)「OPEC その歴史と現状」、アドミル・アミール・クパー、奥田英雄訳、石油評論社、1975年
(2)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年