アメリカの歴史_No01「新航路発見と探検の時代」

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1492年、イタリアジュノヴァ出身のクリストファ・コロンブススペイン王室の援助を受け、絹、香辛料、宝石、染料など極東との貿易のための航路発見の航海を開始した。コロンブスは西回りで航海しても極東に到着できるだろうと考え、航海を続け、10月12日、遂に、到達した。コロンブスはこの地域は極東のインド大陸に所属する島であり、インド大陸への新航路を発見したと信じていた。

 

1504年までの12年間、4回の航海によって、この地をインド大陸と思ったまま、島々を探検して、遭遇した先住民をインディアンと間違った名前を付けしまった。

 

しかし、これらの島々はまったく新しい大陸の一部であり、後にアメリカ大陸と呼ばれるようになる新世界の大発見だった。コロンブスが1492年10月12日に到着した島は後にインド諸島と区別するため付けられた西インド諸島に並ぶバハマ諸島の一つでキューバに近い、サン・サルヴァドル島だった。そして、計4回の航海によって、後にキューバやハイチやドミニカやホンジュラスパナマと呼ばれるようになる島や地域を発見した。

 

コロンブスの新航路発見の情報がヨーロッパに伝えられると冒険家や探検家は冨と栄光を求め、競って新航路発見の航海に乗り出した。

 

イタリア人ジョバンニ・ガボートはイギリスに移住し、1498年、2回目の航海で、数年後にアメリカ大陸と呼ばれるようになる新大陸の海岸線を探検し、デラウエア川やチェサピーク湾を探検した。

 

コロンブスが3回目の航海に出た1498年、ポルトガルヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ喜望峰を通り、インドのカルカッタに到着、インド航路を発見した。

 

1499年~1501年、アメリゴ・ヴェスプッチはスペイン王室の援助のもと、後のブラジルと呼ばれるようになる南の地域の海岸を探検し、新大陸を発見した。1507年、この新大陸を発見者のアメリゴにちなみ、アメリカと名付けられた。(当初は南アメリカアメリカと呼ばれていた。)

 

1519年~1522年、スペイン旗を掲げたポルトガルフェルディナンド・マゼランは西回りで世界一周した。しかし、故国に戻ってきたのはマゼランを除いた彼の部下たちだった。マゼランは1521年、フィリッピンのマクタン島で殺されていた。

 

同じ頃の1519年~1521年、エルナン・コルテスはメキシコのマヤ・アステカを征服した。マヤ・アステカ文明を滅亡させ、財宝を強奪し、故国スペインに送り、何代にもわたり、スペイン王室に冨をもたらした。

 

1523年~1534年、フランスのジョヴァンニ・ダ・ヴェラザーノは後のニューヨーク港となる地に到着した。数百年後、ニューヨーク港の海峡に橋が架けられた時、彼の名にちなんでヴェラザーノ橋と名付けられた。

 

1532年スペインのフランシスコ・ピサロパナマを出港し、ペルーへ侵入、インカ帝国を征服し、滅亡させた。

 

1534年、フランス人ジャック・カルティエが初めて後にカナダと呼ばれるようになる国のセントローレンス川をさかのぼり、探検した。

 

1539年スペイン人エルナンド・デ・ソトはキューバからフロリダまで行った。1541年、フロリダに上陸、内陸部に入り、6月18日、後のメンフィスのところで大河(後のミシシッピ川)を発見、そこを渡り、オーザク山地を越え、さらに西へ進み、後のオクラホマの東で冬を過ごし、1542年5月21日、後のニューオリンズ手前のミシシッピ川流域で命を落とした。

 

オーストリア、スペイン、フランス、ポルトガルと比べ、たいして力もない小さな島国のイギリスは探検の事業と冒険に遅れて参加した。

 

1578年イギリスの海賊(厳密には私掠船(しりゃくせん)の船長で、後の1588年にスペインの無敵艦隊を破り、英雄になる)、フランシス・ドレイクはイギリスを出航し、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を経て、太平洋に出て、海岸線を北上し、北アメリカ大陸のサンフランシスコ湾と呼ばれるようになる地域を発見した。さらに、太平洋を横断し、インド洋、喜望峰を通り、イギリスに帰国し、マゼランに続く2人目の世界一周を達成した。

 

1609年、オランダに雇われたイギリス人ヘンリー・ハドソンはチェサピーク湾とデラウエア湾を航海したがこれらの湾は太平洋につながってないことがわかった。そした、その北にある後にニューヨーク湾になる湾に入り、湾に流れる川(後に彼にちなんでつけられたハドソン川)をさかのぼり、後のオールバニーまで進んだ。

 

この探検でモヒカン族やワッピンガー族などインディアン(アメリカ先住民)と取引し、ビーバーやカワウソの良質の毛皮を得た。オランダはこの航海をきっかけに毛皮交易を始め、この地域への権利を主張し、ニューネーデルラントが誕生した。1625年、ハドソン川河口の島マンハッタンに首都ニューアムステルダム、後のニューヨークが建設された。

 

1610年の北西航路の開拓を目指して再度、探検の航海に出た。まず、アイスランドに到達、さらに、グリーンランドに到達し、その最南端を回って、アメリカの北にでる北西航路を発見した。

 

7月に後のハドソン海峡に達し、後のラブラドル半島の北端を越えた。カナダ北部の巨大な湾、ハドソン湾に到達した。さらに探検を続けるもハドソン湾には太平洋への続く海路は見つからなかった。冬になり、海が氷に閉ざされたため、ハドソン湾南端のジェームズ湾に上陸し、越冬した。

 

翌1611年の春に更なる探検を主張するハドソンと本国帰還を求めた乗組員との間に意見の相違が発生し、反乱を起こした乗組員にハドソンと息子や彼に従う数人の乗組員とともに小舟に置き去りにされた。その後、ハドソン達は消息不明となった。

 

このように、新大陸への航路が次々発見されると探検家はさらに大陸内部の探検へと進んで行き、新大陸への航路が確立すると国や事業家は植民地建設と経営に乗り出したのである。

 

【参考】
1.「図説アメリカ歴史地図」、ロバート・H・フェリル、原書房、1994年3月10日
2.「世界史年表・地図」、亀井高孝、三上次男、(株)吉川弘文館、1995年4月1日
3.「アメリカの歴史を知るための60章」、富田虎男、明石書店、2000年12月1日
4.「映画でなぞるアメリカ史」、吉浦潤次、(株)ウインかもがわ、2009年7月31日
5.「概説イギリス史」、青山吉信、今井宏、(株)有斐閣、1985年12月20日
6.「フランシス・ドレイク、ヘンリー・ハドソン」、Wikipedia、参照日2012年3月6日